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随筆|弓によって品格をつくることについての一考察

何人(なんぴと)も一事を極めれば、それなりの風格が具わる。

弓道においてはその品格を射格、射品と言う。その品格に達した者の端正な姿は、真似ようとしても、表面のみでつくれるものではない。

品と言い、格と言い、それは言葉で表現できないもので、道を究めんとする精神によって体の内部から自ずと滲み出るものであろう。見る人に深い感動を与えるのもそのためである。

その姿には、「射」を目指しての基本姿勢、基本動作の修練における、その人のいわば「誠意」が裏打ちされている。

弓における体配の第一は、動作と呼吸(息合い・気息)を一致させることである。呼吸は、小さな動作の時ほど、意識し、注意しなければならないし、呼吸一つで、動作は活きもし死にもする。

正しい呼吸が動作を一つの流れにしてゆきのだ。息合によって一つの動作が決まれば、それは自然に次の動作を生む。一連の動作の終わりは、「気持ちを引き締める」である。気持ちは引き締まれば、身体も引き締まっていわゆる「残身」となる。次の動作に移る間が、「間合」である。

「間合」とは調和である。この調和の美しさがなかったら、射全体は「弓道」とは呼べないものになってしまう。

上述のことを体配と呼ぶが、これを確実に身につければ、それがそのまま射法八節のそれぞれの「息合」、「間合」となって調和を生み、その斎々たる美が「射格」、「射品」となって、人の心を打つのだ。

体配は難しく、また面倒なものと思い込んでいる人が多いが、これは練習によって身に付けなければならない。弓道の眼目の一つである。弓の基本を貫き通すという克己の精神を持って修練することで、礼節を知る高い人間性が独自の射風を確立することができる。

筆ならば一息一筆。弓ならば一息一動作。全ての芸の極意はそこにある。

弓聖と呼ばれた阿波研造範士は稽古のあと必ず射礼を行わせた。一息一動作が法に適っていないと、何度でもやり直しをさせ、なかなか会得できない射手には、石的といって的の周囲に石塊を置いて射礼をさせたという。

「一射絶命」は阿波研造範士のご指導の核心である。

長谷川如是閑も「立派な弓道師範の射礼には、芸術味が見られる」と讚えている。これこそ弓道の極致であろう。

この極致に至る道程を、武田豊範士は中国の昔話「木鶏」を例えにして示してくれた。それによると、昔中国に紀渻子という闘鶏の鶏を調教する名人がいた。ある日、ある王侯が彼の元を訪ねてきて、一羽の体も逞しく、素質も十分豊かな闘鶏用の鶏の調教を依頼した。そして十日目ごとに、紀渻子を訪ねて、その仕上がり具合を見ることにした。最初の十日目に、もう調教もできているだろうと思って訪ねると、紀渻子は、「とんでもない。この鶏はまだ空威張りの段階でとても駄目です」と答える。

王侯はすごすごと帰り、次の十日目に訪ねてきて同じことを質問すると、今度は「まだまだです。この鶏は、敵の声や姿に興奮するからまだ駄目です」と言われ、王侯はまたすごすごと帰ってゆくのであった。

王侯は暫く経って、また次の十日目に訪ねてきて「もういいだろう」というと、紀渻子が「とんでもない。まだまだです。この鶏は敵を見ると、相手を見下すところがあるから、まだ駄目です」と答えたので、王侯はまたすごすごと帰っていった。

暫くして、また次の十日目に王侯が訪ねてきた。

すると今度は、「まあまあいいでしょう。いかなる敵にも無心で、ちょっと見ると木鶏のようです。徳が備わりました。これでこそ天下無敵です」と紀渻子が答えたので、王侯は大変に喜んで、この鶏を持ち帰り、試合に出場させたところ、連戦連勝。この鶏が試合場に姿を現すと、相手はお辞儀をして退き下がってしまうのだった。

これは『荘子』からの話であるが、弓道を志す者が心すべきことが述べられている。この「木鶏」の境地は、「道場」のみならず、あらゆる人間の職場に通ずる者であろう。

先生の道場にはこの「木鶏」の額が掲げてある。私はいつかは、この木鶏の境地を手に入れようと日夜精進している。

台湾出身の弓道人として、諸先輩の教えを弓道教本などによって学び取り、これからの長い人生を豊かなものにしたい。さらには弓道の発展にも寄与し、人々が平和に暮らせる社会を築くために弓人として貢献したいと念願している。

平成二十三年 夏



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