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継続するコツ 第3回 作りたいのに作れないというスランプについて


 僕はスランプがないんですね。スランプってわかりますよね、作家にはライターズブロックなんて言葉もありますね。書きたいのに、書けないというものです。作品を作る時には、必ず訪れるらしいあのスランプです。僕はスランプがありません。書きたくない時には書かないから、書けないということがない、というわけです。と言いつつ、書きたいのに書けないと思うことはあります。多々あります。書くことだけじゃないですね、作ること全般に関して考えてみましょう。作りたいのに作れないというスランプについて。
 僕はスランプがありません。事実、2004年に初めて作品を発表してから、2022年まで作品を発表していない年が一年しかありません。それは2011年で、大震災と原発爆発が起きた年で、その年は本は出しませんでしたが、その代わりTwitterを始めた年で、Twitterで馬鹿みたいに原稿を、それこそ10000枚くらい書いていたんですね。だから、むしろ、発表していないその年こそ、僕が生涯を通じて、一番原稿を書いた年でした。つまり、書けなかったわけではなく、書きまくりすぎたために作品としてまとめることができなかっただけです。そんなわけで、僕は18年間、一度も、作ることが止まったことがありません。別にそれはたいして褒められるようなことでもないとも思ってます。作品を作り続けることがすごいことでもなんでもないのです。質より量の人間ではありますが、量を作れば、一流の芸術家になれると思っているわけでもありません。僕は自分で作っている大半の作品は駄作だとも思ってます。いや、それも違いますね。自分の作品のことは駄作とすら思ってません。もうほとんど評価するしないの世界から、解き放ってあげてます。作品が生まれているんだから、生きているんだね、よかったね生きていて、というくらいです。
 僕は芸術家、作家、音楽として大成する、成功するなんてことをそもそもはなから求めてません。むしろどうでもいいと思ってます。
 人からの評価は、浮き沈みが必ずありますし、高い値段で売れたとしても、暴落したりします。評価も値段も相対的なことですから、一喜一憂するのは疲れます。疲れることは僕はNGなので関わりません。疲れるのは嫌だといっても、一人で作品を作るのは疲れることでもあります。そういう疲れは奨励してます。人との関係で、色々思い煩う疲れみたいなものを、心地よく除去してます。理由は、そこで疲れちゃうと、作品を作ることができなくなるからです。作品を作ることは疲れることでもあるので、できるだけ体力はそこに残しておきたいから、あれこれ悩まずに済む方法を考えてます。
 ま、そんなわけで、僕はスランプがないんですね。でも作りたいのに作れないと思うことはあります。毎日、そう思っていると言っても過言ではありません。僕は毎日、作りたいのに作れない、と思ってます。これは一体、どういうことでしょうか。
 僕は、毎日、やることを時間的にきっちり決めてます。夜9時に寝て、朝4時頃に起きるのですが、朝一番にやることは必ず、執筆です。その後、書き終わったら、絵を描きます。執筆が4時から10時くらいまで、10時から3時くらいまでは絵です。その後、午後6時過ぎくらいまでは音楽をやります。何時から何時までやるのかは適当、というか、その日のペースがあるので決めていませんが、執筆→絵画→音楽という順番はきっちり決めてます。理由は別に科学的な根拠は何もありませんが、これまでやってきた経験から、朝一番の頭が空っぽの時は原稿を書くのに一番適していると感じたからです。作っていると、少しずつ疲れていきます。執筆は疲れていると、一切書けません。絵は多少疲れていても描けます。音楽は、ガッツリ疲れていても演奏できます。理由はこれだけです。というわけで、朝から原稿を書くんですね。この原稿も朝5時に起きて書いてます。
 朝、原稿を書くときに、まずはこの日の予定を考えます。僕は、今月のスケジュールも空白で、来月のスケジュールも実は空白なんですね。スマホにあるカレンダーには何も書いてません。僕は、予定を入れると、持病の躁鬱病が発症してしまって約束を果たせなくなるので、約束をそもそも人としないんですね。これはとても大きなハンディキャップです。予定が組めないんですね。こんな調子じゃ、仕事がうまくいくはずがない、と思ってました。でも、今、振り返ると、予定を組んでいた頃も昔はあったのですが、その頃よりも、今の予定を組まない生活の方が楽で、楽ですから、不思議と仕事はうまくいくんですね。仕事量も昔よりも断然、増えました。約束がないとどんどん作れるみたいです。そんなわけで、今では、僕は原稿依頼というものをほとんど受けていません。受けることができないだけなのですが。。。これはほんと大変なことだと当初は思っていました。
 僕は原稿の依頼を受けると、うまく書けなかったんです。こういうことを書いてください、と言われると、全く書けなくなるんです。つまり、それがスランプってことなんでしょう。書きたいのに、書けないという状態が、依頼された原稿を書く時にはよく訪れました。これが本当に嫌いで嫌いで、書かなくちゃいけないことは書きたくないんですね。でも書きたいという気持ちはある。これは一体、なんなのかと仕事をし始めた頃はずいぶん悩んだものです。そこで書きたいのに、なぜ書けないのかということは早くから僕にとって考えるテーマでした。
 書きたいのに、書けない。まずこの言葉を考えてみたんです。これは本当に正確なのかどうか、を。本当に書きたいのか?
 そう考えると、僕は、依頼された原稿のテーマみたいなものを書きたいと思っていないんですね。原稿を依頼されるとき、必ず編集者が依頼してくるのですが、つまり、編集者が作家の代わりに、もうすでにこんな原稿を書いてほしい、みたいなイメージがあるんですね。いや、若い頃の僕は、あると思っていたんですね。実際は、違っていたとあとで気づくんですが、僕は、勝手に、編集者が欲しいと思うような原稿はこれだとイメージしてしまって、そのイメージの原稿をなぞるようにして書こうとしていました。真面目ですから。ついつい、人を喜ばせたいと思うもんですから、そうやってしまっていたんでしょう。そうすると、自分の書き方みたいなものが崩れてくるんですね。単純にいうと、こう書かなくちゃいけない、とルールを作ってしまうんです。そうなると、全然書けないんです。いや、書けないんじゃなくて、つまらないんです。つまり、書きたくないんです。書きたくないもんですから、書くことができません。つまり、書きたいのに書けない、と思った時は必ず、書きたくないから書けない、という状態であることが判明しました。
 でも書きたいのに書けないと感じてもいるんです。これはどういうことか。また僕は考えました。
 すると、こんな依頼がなかったら、僕は自由に好きに、今この時、書きたいと思うことを書きたいのになあと思っている自分に気づいたのです。
 つまり、書きたいものが他にあったということです。それがどんなものかはわかっていません。でも何かを書きたい、とは思っているようです。そして、この依頼された原稿は退屈で書きたくないとも思っている。でも机に座って書こうというやる気はある。この状態を見ながら、なんだかもったいなあといつも思ってました。僕は書きたいんです。でも書きたいと思うことは依頼されていないんです。依頼されていることは全然書きたくないことなんです。書きたくないことに関して、考えていると、どんどん萎えていきます。時間も重くなり、退屈な時間を過ごしているので、どんどん嫌になっていきます。あ、これがスランプになるきっかけなんじゃないかと思いました。
 すると、僕の体はどうなるかと言いますと、スランプにはならずに、鬱になっちゃうんですね。
 この鬱ってのが利口なんですが、鬱なんですね、これはスランプじゃないんです。多分そうなんですよ。僕はそう思いました。
 つまり、書きたくない原稿を書かなくちゃいけない、他に書きたいことはある、でもそれが何かはわからない、やる気はあるのに、内容がつまらない、ああでもないこうでもない、と考えていると、僕はすぐに鬱になるようになりました。鬱になると、倒れてしまいます。机に座っていたくなくなります。そこで布団で寝るわけです。産みの苦しみではありません。嫌なことからただ逃げたいだけなんでしょう。
 鬱になると、ありがたいことに、いやもちろん鬱は苦しんですよ、でも、ありがたいことに、仕事どころではなくなるんですね。つまり、依頼された原稿はどうでもよくなるんです。社会人としてはほんと使えないやつだと思いますよ。こんな感じで、さらっと書いてくれたら良いなと思って依頼をしてくれているのに、人から言われたようには全然書けないわけだし、書けないと最初に断ってもらえたら良いのに、頑張りますとか言いながら、結局鬱になって書けなくなるわけですから。社会人としては僕は失格だと思います。でもこの本は社会人のために書いているわけではありません。この本は、継続をしていこうとしている継続人の卵たちに書いているので、全く気にしません。なんて、好き勝手なことは書きたいことですから、どんどん書けるんですね。でも書けと言われたことは書けない。
 鬱になると、苦しいですけど、同時に、やらなくちゃいけないことは全然やらなくて良くなるので、まあ、楽にもなると言えるんですね。
 そうすると、今度は時間が余ります。僕は正直者ですから、鬱になったら、すぐ鬱になったと編集者に伝えちゃうんですね。すると、編集者はああ、締め切り伸ばしますから、しばらくゆっくりしていてくださいと言ってくれるんです。あ、締め切りって実は全然緩めで設定されているんだとここで気づくことになりますが、そんなことはどうでもよくて、僕としては1週間くらい何もしなくていい、という状態が訪れただけで楽になるので、鬱になったら、すぐにこうやって仕事を止めさせてもらいます。これは初期からそうやってました。苦しいことに耐えることができないんですね。苦しいのを耐えてまで仕事をしようという気概が全くないんですね。だから使い物にはなりません。使われなくなるのも時間の問題だと思ってました。
 そんなわけで、苦しいので布団でうんうん唸っていたんですが、依頼原稿のことは、つまり、書きたくない退屈なことは一切考えなくなると、不思議なことに、それでも書きたいと思っていることに僕は気づきました。鬱の時は何も生産性がなくなる、みたいな感じで、医学書とかには書いてあったんですが、そうじゃなかったんです。その逆で、やりたくないことは一切やりたくない代わりに、実は、苦しい、苦しいということは書きたいと思っていたんです。もちろん、苦しいとばかり嘆く文章なんて、金にはならないですよ。みんな健康そうに雑誌のための原稿とか読んでて感じるじゃないですか。ああいう原稿は無理だけど、俺死にたくて苦しくて、今までずっと辛かったみたいな、読んでも何も面白くないんですが、そういう原稿なら(それを原稿と呼ぶのならですが)、馬鹿みたいに書けたんです。
 布団に寝転がったまま、パソコンを開いて、肘ついて、書いたら、どんどんどこまでも書けたんですね。もちろん、つまらない原稿ですよ、人にとっては。でも僕にとっては、今、この瞬間、書きたくてたまらない、書かないでいられない、ことではあったんです。これは僕にとって大発見でした。こんな発見、他の人は絶対に気づいていないはずだと興奮したくらいです。興奮しましたので、不思議と鬱は一瞬で治りました。これもわかりやすいことでした。鬱って、ぶっちゃけ、ただ退屈しているだけなんですね。面白い、と思えることが何もなくなっているだけで、面白いと思えることを見つけることができたら、一瞬で治ったんです。もちろんこれは「僕の」鬱ってことですけど。
 でもおかげでわかったんです。もちろん「書きたいのに、書けない」っていう状態がどういうことなのかをです。
 書きたいのに書けない、わけではありませんでした。

 書きたいのに書けない、と感じた時は、今目の前で取り組んでいることは書きたくない、でも他に実は書きたいことがたんまりある。

 これが僕にとっての事実でした。その後も書きたいけど書けない、と思うときは頻繁にやってきました。それこそ毎日やってきました。その度に、僕は目の前の作業を全部止めて、頭を空っぽにして、仕事になるとかならないとか放置して、なんなら鬱になって仕事は一時停止されてもらって、本当に使えないやつではありますが、本当に今日書きたいことを見つけるようになりました。そこでさらに新しい発見に気づきました。なんと、書きたいことがない、という日が1日もなかったんです笑。実は毎日、どこかには、書きたいと思うことが隠れてました。書きたいだけでなく、作ること全般で考えると、さらに、今日は文章は書きたくないけど、絵を描きたいとか、楽器で作曲をしたいとか感じていることにまで広がっていきました。
 
 結論が、

 作りたいと思わない日が1日もなかったんです。

 これは僕の場合だけなのでしょうか。人のことは観察できないので、わからないのですが、僕はいのっちの電話をしてまして、死にたい人からの電話は受けてます。つまり、死にたいと思う他者の観察はできるんですね。そこで聞いてみましたが、もちろんみなさん鬱になっているので、死にたくなくなっているわけですが、僕がこの話をすると、大抵の人が、死にたい時に作ることなんかできない、って言うんです。それは当たり前です。僕もそう感じますから。作りたいことなんかない、と感じます。でも、それもまた勘違いなんですね。僕に、死にたいということを訴えてくるわけです。今から多少屁理屈を言いますよ。死にたいと電話までして、伝えたいんです。つまり、これは僕が、鬱の時に、苦しい苦しいと書かずにいれない状態と同じなんですね。だから、僕はつい、書いてというけど、力がない、めんどくさいと言うので、僕が代筆することにしたんです。死にたい人は、実は話したいことがたんまりあります。その話している言葉を僕が代筆してあげるよと言いました。すると、みなさんどんどん出てくるんですね。言葉が。それを僕が代筆すれば、これはドストエフスキーが晩年は全て口述筆記だったのですが、それとあんまり変わらないんですよ。もちろん、質はドスト先生が素晴らしく、我々ただ死にたい人の文章なんておそらくしょうもないんだと思いますよ。僕はそう思いませんけど、世間にはそう思われると思います。でも、それでも、作りたいことが実はある、という証拠にはなっているのではないか、と、僕は推測しているんです。
 だから、作りたいと思わない日は実は1日もない、という僕の仮説はまんざら嘘でもないんじゃないかと思ってます。もちろん、ここで質は問わない、ということがポイントです。
 人は質があるものが作品であり、質のないものは作品ではなく、クズであると勘違いしてますが、僕は違います。作品は優劣で判断してはいけません。なぜなら、作品の判断は常に人は誤るからです。作品の良し悪しなど、ほとんどの人には理解ができないんです。生前売れない画家なんて作家なんてたんまりいるんです。カフカだってそうです。誰も気づけない。でもいつか気づかれるかもしれない。別に、死にたい人のたわごと全てがカフカに勝ると言っているわけではないんですよ。判断がまだできないってだけです。だから、常に作品に関しては良し悪しではなく、その人から生まれたものは全て作品としてみなすことが重要ではないかと僕は考えているんです。もちろん、僕は僕なりに作品としての強度があるかどうかの判断はしますよ、自分の作品に関しても、他者の作品に関しても。でも、それは一時的な判断であり、変化していく可能性を多分に含んでいるという謙虚さは忘れたくありませんし、その謙虚さこそが、継続をさらに可能にしてくれる栄養になると思ってもいます。
 
 つまり、僕の辞書にはスランプという言葉は存在しません。
 しかも、僕は僕だけでなく、あらゆる人にのスランプなど存在しないと思っています。

 スランプが起きたと感じた時は、おそらく、もちろんこれは僕の推測ですが、作りたいものの誤解が生じているってことです。今作ろうとしていることが作りたいことではなく、作りたいものは他にあり、しかもそれはもうすでに存在しているが、気づいていないだけです。スランプを感じた時には、必ず、作らなくちゃいけない、と感じていて、はっきりいうと、退屈しています。その延長線上には、あなたが楽しみながら作れる世界はありませんので、さっさと諦めて、全部止めましょう。でも、だからといって、作りたくないわけではないのです。作りたい、と思うことが別にあるのです。人に見せることを意識すればするほど、この作らなくちゃいけないという感覚は強くなります。本当に作りたいものは、これなんだけどなあ、とは実はみなさんも気づいてます。でも、それは形を帯びない抽象的な物事だったり、金にならないものだったり、下手なので見せたくないものだったりします。だから、無意識でそれを作品と呼ぶことをやめてます。人からすればつまらないものを作ることを無意識で避けてます。人から見て退屈ではないものを、退屈しながら作ろうとしてしまいます。それがスランプであり、鬱であり、何年も作れなかったり、最終的には、昔は作っていたみたいな思いで話を語ることになります。そこを踏み間違えないようにしよう。僕は、かなり初期からこのスランプまがいのスランプという誤解に気づいていたような気がします。おかげで、こんなものは作品じゃない、みたいな感じで、本当に作りたいものを除外することはしないまま、生きてきました。もちろん、依頼原稿は断り続けたので、今ではほとんど依頼されません。しかし、心配ご無用です。そのかわり、馬鹿みたいに、毎日、作りたい、と思うことがどこかしらに隠れていることを知っているので、毎日、朝から、何をするかというと、あらゆる仕事のことを飛び越えて、今、この瞬間、お前は何が書きたいんだ、ルールなんか飛び越えて、下手でも良いから、いますぐ、悩むことなく迷うことなく、突き進んで書きたいと思うことを書いてみたらいいよ、それはとっても楽しいよ。勇気が湧くよ。と言い聞かせて、今、この原稿を書いているんです。今、この文章を僕は書きたくてたまらないんです。いつまでも書きたいと思います。でも明日はまた違うんです。だから、明日はまた、書きたいと思うことを書くんです。一貫性がない? 笑いたい人は笑えばいいんです。それじゃ仕事にならない? そんな人は依頼された退屈な仕事に向かえば良いんです。スランプとも付き合えば良いんです。でも、本当に作りたいものはいつだってあなたを待ってます。ここにはスランプはありません。称賛されることもないでしょうが、そんな一時的な評価なんざ、捨てちゃえばいいんです。だって、毎日、芽が生えてくるんですから。毎日湧いているんです。みんなも早くこの秘密に気づいた方がいいです。
 金にはならなかろうが、仕事にならなかろうが、人から馬鹿にされようが、それでも毎日は等しく24時間やってきます。 
 本当に作りたいものを夢中で作ること以上の充実した時間を、僕は、知りません。

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