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躁鬱大学 その8 鬱の奥義 一の巻/なぜ躁鬱人は鬱の時に「好奇心がなくなった」と嘆くのか?

8 鬱の奥義 一の巻/なぜ躁鬱人は鬱の時に「好奇心がなくなった」と嘆くのか?

 さて、これまでは「鬱状態にならないためにはどうすればいいか」ということを考えてきました。しかし、われわれは躁鬱人です。どんなに避けようといろんな対策を立てたとしても、躁鬱の波は止まらず、常に移ろっています。それでも、これまでの躁鬱作法を楽しく取り込んでいけば、必ずやあなたの波は窮屈なところに押し込まれることなく、穏やかさを覚えていくことでしょう。
 しかし、それでも鬱状態はやってきます。どんなに軽いものでも鬱状態が苦しいことには変わりありません。本当に嫌なものですよね。われわれ躁鬱人は必ず、躁状態は素晴らしい、そして鬱状態こそ忌避すべきものだ、と考えています。しかし、残念なことに、周りの非躁鬱人たちからはむしろあのわれわれが大好きな躁状態こそ、迷惑だなあと感じてます。これまた残念なことですが、ただの酔っ払いだとしか思われていません。確かに声は大きいですし、何時だろうが気にせず電話をかけてきては唐突にひらめいたことを話し始めます。しかも、われわれ躁鬱人は生粋の自己中心的な人間でもありますから、こんな時間にかけて迷惑ではないかな?という思考回路はもともとありません。そんなわけで躁状態に入った時の躁鬱人は周囲の非躁鬱人にとって、いや周囲の躁鬱人にとってもちょっと困った存在になります。もちろん、危機的状態、緊急事態下では、そのような突飛な恐怖心ゼロの勇敢な行動が功を奏することをもあると思いますし、実際に躁鬱人は危機的状態においてかなりの能力を発揮することはこれまでの躁鬱人たちが成し遂げてきた偉業を見ることで確認することができます。しかし、大半の平時では、われわれ躁鬱人の躁状態というものは避けられる運命にあります。酔っ払いの妄言に付き合う人などいない、というわけです。というわけで周囲の人にとっては躁状態はとても嫌がられますが、一方、鬱状態はそうでもありません。なぜなら、ほっとくと唐突に何かを思いつき、電話をかけ、お金を集めたり、人に声をかけまくったりしてた人が、鬱状態になると「そんな僕はダメな人間だ。もうダメだ。自信がない。僕みたいな人間は外に出て人に会わせる顔がない。部屋に閉じこもっているべきだ。いや、何ならいなくなった方がいい」とここでも躁鬱人は「過剰」です。過剰に落ち込みます。落ち着いて考えたら何もそこまで言わなくてもと思いますが、鬱状態下ではそんな風に一歩引いて自分を見る、なんてことが全くできません。しかし、そのおかげで、自信もありませんから、声は小さいし(あのバカみたいに声が大きかったわれわれがですよ!)、外にも出ないし、お金も使わないし(むしろ、僕はこのままでは貧しくなるのではないか、路上で暮らさなくてはいけなくなる、将来必ず無一文になる、とまで考えてしまいます)家で怯える小動物みたいに小さく丸まっているので、実際、周囲の非躁鬱人はホッと安心してます。われわれが絶対に忌避すべきものだと思い、実際に鬱になったら毎日死にたくなってしまっている横で、実は非躁鬱人は「おとなしくなってよかった」と思って胸をなで下ろしてます。もちろん、鬱状態で苦しむ姿を見ると、かわいそうだとは思ってくれてると思いますが、それでもやっぱり躁状態のときを見ている人にとっては「なにわともあれ静かになったから安心だ」と思っているようです。これは僕の周囲の非躁鬱人たちに実際にインタビューを試みた際に、全員が言っていました。
 それを聞いて僕は正直驚いてしまいました。なぜならそんな風に「鬱になったことで周囲が安心している」なんてことを全く想像していなかったからです。おそらくみなさんもそうなのではないでしょうか。非躁鬱人は鬱状態の躁鬱人を見てただ心配だけしているわけではないんです。同時に、おとなしくなってホッとしてます。そういう周囲とのギャップを把握していないと、あなたが鬱状態で苦しんでいる時に周囲の人たちがまるで全く心配していないように感じてしまいます。そのことがきっかけとなり、鬱状態の焦りも手伝って「もっと自分のことを心配しろ」と怒ってしまうこともあります。ここはひとつ悲しいお知らせではありますが、もう一度確認しておきましょう。

 鬱の奥義その1
「躁鬱人が鬱状態で苦しんでいる横で非躁鬱人はおとなしくなってとりあえずはホッとしている」

 このことを知っていると、周囲が全く焦っていないのに、自分は死にそうになっているというこの極端な温度差にやられすぎなくなるはずですので、覚えておいてくださいね。この極端な温度差が、孤独感を強めていきます。実際には家族が一緒にいるのに、孤独ではないはずなのですが、鬱状態はこれまで調子の良かった躁鬱人が感じてた「あ〜心地いい」くらいの頻度で今度は「あ、孤独だ」と感じちゃいます。
 
 鬱の奥義その2
「孤独を感じた時は、常に鬱状態である。つまり、孤独だから鬱状態になったのではなく、鬱状態だから孤独を感じるのだ」
 
エネルギー保存の法則のように、形態を変え、移動はするがあなた自身のエネルギーは変わらないんですよね。つまり、躁状態の時により高く天上まで登った人は、誰よりも深い鬱の沼の底にハマっていきます。恐ろしいことではありますが、これは僕の経験からも事実です。しかし、だからと言って前もって対策することはできません。なぜならば、躁状態の時には鬱状態の記憶が、鬱状態の時には躁状態の記憶がそれぞれ完全に見えなくなるくらい小さく変貌してしまうからです。これは前に記憶のことについて講義をしたときにもお話しましたが、もう一度確認して悪いことは何ひとつありません。躁鬱人はとにかく忘れます。そして矛盾してますがとにかく何でも覚えてます。そんなわけで、僕はこれからもなんども前に言ったことを繰り返すつもりです。何度繰り返しても忘れますから、しかも再度確認するとすぐに思い出していい動きをします。それがわれわれ躁鬱人です。
 というように鬱状態になると、これまでの元気だったときとはまるで状況が変わってしまいます。もちろんそんなこと躁鬱人であれば知らない人はいませんよね。しかしもし今、あなたが躁状態に近い状態であれば、この章は全く読まなくてもいいです。なぜかって、おそらく読んだとしても、ほとんど何も感じないからです。
「鬱状態ねえ、ま、やっぱりきついよねえ、でもさ、止まない雨はないっていうくらいでさ、すぐに元気になるから、元気ないのは今だけだよ、たーだ寝てればいいって、すぐ、俺天才だ、全てを変えるってなるなる。寝ときー!」
 こんなふうに鬱の自分に声をかけるんだと思います。なぜかというと、鬱状態の苦しい状態自体は、その時の映像の記憶は残っているかもしれませんが、なんどもいうように鬱の時の感覚の記憶が完全になくなってしまっているからです。だから鬱の時の苦しみを調子がいい自分にうまく伝達することができません。というか、むしろ伝達できないからこそ、反省することなく、次も思い切って大胆な行動ができるわけです。つまり、この躁と鬱のそれぞれの時の記憶を共有することができないという状態は、われわれ躁鬱人の大きな特徴であり、もしかすると、だからこそ、力が発揮できているのかもしれません。このような感覚記憶喪失状態を繰り返すなんてことはもちろん非躁鬱人にはできません。しかも、躁状態と鬱状態それぞれの時で、記憶喪失にあっているということは躁鬱人はよっぽど注意深く確認しないと、自分自身ではなかなか理解することができないのです。

 鬱の奥義その3
「鬱の時は反省禁止。なぜならその反省もすべて躁状態になると忘れてしまうために、反省したことが今後の人生に一切反映されないから反省するだけ損だから」
 
 だからこそ、僕は躁鬱人は「反省禁止」と伝えたわけです。もうお分かりだと思いますが、どれだけ鬱の時に反省したところで、躁状態のあなたには何ひとつ伝達されていかないのです。でも安直、そんな自分はダメと考えるのはやめておきましょう。これまで僕が話してきたことからわかると思うんですが、つまり、あなたが今、心の中で思っていることを、私がすっかり言葉にしてみましょうか。それはこういうことです。
「え、何で、私のこと知っているの?」
 この講義を聞いていく中であなたも何度か、もしくはかなり頻繁に「自分が感じていたことがなぜか言葉になっている」と感じた方がいると思います。というか、ここまで講義についてこられているあなたはおそらく必ずそう感じているはずです。なぜかわかりますか? もうわかっている人もいるでしょう。そうです。

 鬱の奥義その4
「あなたが嫌だと思っているあなたの状態は全てあなたの性格ではない。すべての鬱状態の躁鬱人に起きる躁鬱万人共通の特徴である」

 ここは重要ですから、最後に付録でついている「躁鬱検定模擬テスト」にも出てきますので赤丸しといてください。そして、暗唱できるように頭の中に完全に入れておいてください。そして、たとえ完全に記憶したとしても、必ず忘れます。必ず忘れるように躁鬱人の体にセットされているからです。これも「忘れっぽい性格」でも何でもありません。あなたに否はありません。そしてそれはあなただけではありません。僕が書いていることは「多くの躁鬱人に当てはまること」です。もちろん純血の躁鬱人だという人は少なく、そんなのみんなそうですが、みんなどこかしら非躁鬱人との混血であることは間違いありません。なので、程度の差はあります。でもきっと僕がこの講義で話していることのほとんどが、あなたが躁鬱人であるなら「えっ、何であなた私の心の中知ってるの」と思っているはずです。僕は故意にそう感じるように話してます。なぜならその驚きがそのままあなたを楽にすることを知っているからです。あなたが嫌いなあなたのその特徴が、一生治らない性格でも何でもなく、ただの躁鬱人の特有の癖で、全ての躁鬱人に当てはまるのであって、あなただけの問題ではないんです。しかも、躁鬱人としての生き方の術を身につけたなら、どんどん心地よく改善されていきますし、最終的にはほとんど見えないくらいになります。もしくはあなたの短所は全て長所になります。まあ、最終的な状態がどんなものかをお話しするのはまだ早いでしょうから、短所が全て長所になるってことはまだ頭の片隅にちょこんと置いておくくらいにしといてください。まだその前に知ることがたくさんあります。どれもあなたをただ楽にさせるものですから、楽しみに待っていてください。
 鬱状態になると、頭の回転が躁状態の時とまるで変わってしまいます。文字を読むのも困難になります。しかし、これは厳密に言うと、文字を読めなくなるんじゃないんですけどね。だって、カンダバシのテキストだったら水を飲むように読めるはずです。つまり、読みたいものしか頭に入らない状態になるんです。でも多くの躁鬱人は「鬱になると頭の回転が悪くなる」と感じてます。なおかつそれが「自分の本来の姿だ」と感じてます。でも僕が今これを話しているんだから意味がわかったでしょ? つまり、あなたがじくじく一人で誰も言わずに悩んできたこのことは、僕にも身に覚えがあるんです。そうじゃないとこんなこと書けません。 

 鬱の奥義その5
「鬱状態だから頭の回転が悪くなっているのではなく、ただ興味がないから頭に入れようと思わないだけである。むしろ興味があることだけが頭に入るようになっている。興味がないものを頭に入れらないからといって嘆くのは止めること」
 
 躁状態のあなたは何でもかんでも、それこそ、そんなの必要ないでしょと思われるようなものですら、どんどん頭の中に入っていきます。はっきりいってそれは無駄なエネルギーといっても過言ではありません。しかし、躁状態のあなたはそんなことお構いありません。壮大な無駄こそ大きな財産だと感じていました。しかし、今、鬱状態のあなたはそうではなくなってます。逆に全く何にも頭に入らない。まずはそれが自分が劣化したからだという思考回路を修繕する必要があります。そうではありません。何でもよかった躁状態とは違って、今度は何でもよくない、本当に自分に必要なものだけに興味を持ちたいと思っている状態なわけです。それをついついわれわれ躁鬱人は鬱の時の自分を評してこう言います。
「僕は好奇心もなく、興味関心もなく、何にも前向きになれない、好きなものもない、どうしようもないクズだ」
 みんなロボットじゃないかってくらい同じようにこう言います。そんなことを言ってたら僕の非躁鬱人の親友のカズちゃんという女の子がいるのですが、その子は鬱の時でも一緒にご飯を食べに行ける僕にとっての唯一の非躁鬱人なのですが、彼女に鬱の時そんなふうに考えてしまうと告白したんですね。すると、
「強い好奇心を持っていろんなことに取り組むって状態は、私は年に一回くればいいかかもしれません。まずもって言えるのは、あなたは鬱状態であっても躁鬱人に関しては途轍もない興味をもっているように見えますよ」
 と言ってくれました。そして僕はハッとしました。大発見をしたんです。カズちゃんのおかげなんですが。
 そうです。実は鬱状態にあるとき、われわれはすべての好奇心を「躁鬱人とは何か?」という探求にすべてを注いでいるんです。これはとても大事なことですので、もう一度口に出して言いましょう。

 鬱の奥義その6
「鬱状態の時、好奇心がなくなったと必ず嘆くが、実は持てるすべての好奇心を『躁鬱人とは何か』という探求に注いでしまっているために、他のに充てる十分な好奇心が不足しているだけである」
 
 びっくりしませんでしたか? 僕はびっくりしました。しかも、そのこと知らなかったわけではありませんでした。確かに自分が「躁鬱人とは何か?」ってことに心血を注いでいることは知っていたんです。知っていたけど、それは今まで「躁鬱病」という病気だったし、あんまり人に言えない悩みだったし、それは自分の性格だったし、そういうどうしようもないやつだから、だから、こんなじくじくして、いじいじ悩んで、どうしたらいいのか、こんな病気を抱えている僕は死んだほうがましだ、と考えてしまってました。それが「一人で抱える悩み」になってしまっていたんです。しかし、みなさんその考え方は今日限りでお別れです。みんなで気づかせてくれたカズちゃんにお礼を言いましょう。そうなんです。好奇心は一切なくなってないんです。むしろカズちゃんのいう通り、あることにだけ好奇心が一点集中しちゃっているんです。それは躁鬱病の自分の性格に対するくよくよとした悩みなんかではなくて、「躁鬱人とは何か?」という世界に6000万人いると言われている全躁鬱人に向けて思考をしている哲学的態度だったわけです。これは大発見です。われわれは何度も言いますが「好奇心がなくなってしまった」わけではなかったんです。しかも「自分のことを一人で悩んでいる」わけでもなかったんです。「躁鬱人とは何か?」という躁鬱人類すべての向けての哲学的思考に集中しすぎているんです。すごいことですよ。寝る暇も惜しんでつまり鬱状態の時躁鬱人は眠れずに24時間「躁鬱人とは何か?」を考え続けているんです。それ自体はきっと悪いことではないはずです。あんなに自己中心的だったあなたが、鬱になった今、全躁鬱人に向けて考えているんですから。これまで講義を受けてきたあなたなら、もしかして鬱の時間は非常に「いい時間」なのではないかとすら思ってしまったかもしれません。 
 鬱状態の時、躁鬱人は自己中心的状態を抜け出し哲学に向かうのです。素晴らしいことじゃないですか。しかし、躁鬱人としてやっていけないが一つだけあります。
 何かわかりますか?
 ここですぐ答えがわかった人はかなり躁鬱人としての自覚がついてきたと言えるでしょう。答えは「一つのことに集中しすぎると、窮屈になって鬱になる」ということです。答えを知れば、すぐに思い出したでしょう? 問題といえばそれだけです。あとは素晴らしい時間です。自己中心的態度から脱却できてますので、むしろむちゃくちゃいい人になってます。周囲の非躁鬱人たちがほっとするのも少し理解ができるかもしれません。
 躁鬱人とは何か?という哲学的命題にすべての好奇心を注ぎ込みすぎているために窮屈になっている。これ鬱状態の躁鬱人の一つの側面です。しかし、躁鬱人は多彩な風が頭に吹き込んでいることが必要条件です。まずはそのことがベースにないと窮屈な生活から抜け出すことができません。というわけで、その一つに固まっている好奇心を解いていくことにしましょう。どうやって解くか? それがすなわち鬱状態の時どう過ごせばいいのかってことにつながります。今日も長くなってしまいましたので、続きはまた明日「鬱の奥義 二の巻」でお伝えすることにして、今日のところがまず「あなたのすべての好奇心が躁鬱人とは何かという探求に注ぎ込まれすぎている」ということを頭に入れてください。きっとこの文章はたとえあなたがひどい鬱状態にあるとしても読めるはずです。それはもちろん、、、、あなたが躁鬱人とは何か?ということを考えているからです。あなた自身だけのことでくよくよ悩んでいるわけではなかったのです。

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