躁鬱大学 その4 資質に合わない努力はしないための吐露の術
4 資質に合わない努力はしないための吐露の術
さて先を進みましょう。次はテキストの5行目です。
「もともと和を大切にする人なので、つい自分が我慢してしまうのです。我慢して自分が窮屈になるのがいけません。そういう環境とは相性が悪いのです。我慢して何かをするという性分ではありません」
躁鬱人は奔放ですが、それ以前にとても柔らかいです。さらに平和を重んじますから、そのためだったら平気で自分を変形させてしまうところがあります。完全に無意識にやっているので、自分が変形していることにも気づけません。だから、自分が奔放な人なのか、人に合わせてしまって言いたいことも言えない人なのかわからなくなってしまってます。いや、奔放なのはいつも人前だけで、実は自分の意見など全くない透明な人間なんだと思っているところがあります。このように自分の内側に注意が向かっているときは、鬱状態に傾きそうな時の合図です。なぜなら躁状態の時は一切、自分を顧みることはないからです。自分とは何か?なんてことは一つも考えません。自分は自分であって、世界で唯一の存在であると、完全に認識してます。だから一人で物思いに耽るなんてことがありません。「今日はあの店に行って、本を買って、あの店に行って、あれを買いたい。そして、今、あれが気になっているから研究したいので、図書館に行って、関連した本をいくつも読んで、その横にある水辺で水着を持って行って泳いで、あ、バーベキューセットを持って、お昼ご飯を食べてもいいかもしれない。それなら、友だちも呼んだ方がいいな、あの人とあの人に電話をかけよう、いや、今かけよう」なんて風に考えてます。自分に向かう視点がゼロです。本当に全く自分を振り返ったりしないんです。自分の中に何か直す部分があるなんてことは思いもつきません。それは近くにいる人から教えてもらって、僕は気づきました。
鬱状態の時は、
「僕はこういうところがダメだ、しかもそれはずっと小さい頃から感じてた、小さい時からずっと鬱みたいな感情があった、表向きは明るい顔をしてはいたけど、実は違って、内心はずっと苦しかった。もしかしたら両親からの影響があるのかもしれない。両親のせいかもしれない」
とずっと言っているようです。しかし、鬱が明けて、妻が、
「小さい時からずっと辛かったみたいに言ってたけど、今もそう感じるの?」
と聞くと、
「えっ? 全然だよ。僕は小さい時から、自分で漫画も描いてたし、ゲームも作ってたし、部屋の中に家まで作っててね。つまり、いまやっている仕事の源流はそこにあるんだよね。むしろ、小さい時の自分に感謝だね。両親のせい? いやいやそれはないでしょ。彼らは彼らだし、僕とは関係ないし、むしろ父親のおかげで音楽に興味を持ったし、母親のおかげで芸術などに関心を持ったと思うのよ。家には芹沢銈介のカレンダーや柳宗悦が立て直した北海道民芸家具なんかが揃っててね、裕福な家じゃなかったけど、調度品や食器や着る服なんかはとても上品なものばかりで、そうやって感性を磨いてくれたんだと思う。感謝しかないよ感謝」
と答えるようです。差が激しすぎます。余談ですが、躁鬱人は、鬱状態の時に、必ず「こうなったのは両親のせいだ」と言います。僕も毎回そう感じてしまいますし、何度か両親にも直接言ってしまったことがあります。もうこれは躁鬱人の鬱時のお家芸みたいなものです。両親にそんなことを伝えても、相手は悲しむし、こちらも怒りを爆発させるだけで、何一ついいことがないのでやめておきましょう。しかも彼らには一切の非がありません。なぜなら元気になった途端、われわれ躁鬱人は、
「あー死なないでよかった!生きててよかった!そして、この世に生まれてきてよかった!産んでくれてありがとう!」
とこれまた必ずなってしまうからです。涙ながらに「産んでくれてありがとう」なんてことを両親に伝えることができるくらいになります。「親が…」という言葉が出てきたら、あなたは鬱ってことです。その合図以外にほとんど意味がありません。私も躁鬱人になりたい、と思って、そうではない非躁鬱人が躁鬱人になることはできません。そうやって生まれてきたわけです。遺伝子が何か関わっているのではないでしょうか。僕は詳しく知りませんが、そう感じますし、どうやら父方の祖父、曽祖父も、躁鬱人だったのではないかという話をここ最近、祖父の知り合いから聞かされ、妙に納得したものです。受け継いだものなんです。それなら、あとはただ、正確に躁鬱人の特徴を理解し、技術を会得し、伸ばしていけばいいんです。そして、躁鬱人は確実に発達していきます。必ず成長します。しかし、これまで躁鬱人という区分はされてきておらず、それは完全な病気とみなされてしまっており、治療をして他の非躁鬱人たちと同じような生活ができるようになればいいと考えられてきたため、躁鬱人専用の教育が一切なされてきていません。だから躁鬱人は「自分は躁鬱病という一生治らない病気を抱えている」と考える以外に方法を知らなかったわけです。しかし、それは間違いです。ちゃんと躁鬱人専用の学習を続けていけば、自分なりの生活を楽しく作り上げることができます。と考えると、嬉しくないですか? とにかく躁鬱人にとって、楽しく、愉快で、心が軽くなって、体も軽くなるようなことはそれだけでただの栄養です。それがたとえ、一切の稼ぎにならないとしても、なんの価値もないと周りの人から思われていようとも、心地よくなるだけで、栄養です。それがすぐわかります。「あ、これ自分に合ってる」みたいなことがすぐ体感できます。そういうことはどんどん分け隔てなく、あらゆる角度から体に取り込んでいきましょう。楽しむこと自体がそのまま学習になります。こんな愉快なことがあるでしょうか。「楽しんでばかりいて、ちゃんと努力しなさい!」みたいな非躁鬱人の心無い発言が聞こえてくるかもしれません。しかし、ここは一つ、無視してみてください。大事なことは「怒り」を発露しないことです。「なんでそんなことを言うんだ、お前は俺の気持ちをわかっていない!」なんてことは言う必要はありません。それ自体が鬱へのハイウェイです。「わかりました!」とかなんとか前向きそうな適当な返事をしておいて、その人が見ていないところで、さらにその楽しみを続けるのです。決して、深刻な顔をして努力とかしないでくださいね。これもまた非躁鬱人たちが作り上げた、学習法なのですが、躁鬱人にとっては毒でしかありません。しかし、われわれ躁鬱人は世界の人口77億人に対し、発見されている数が6000万人と言われてますから、1パーセント強くらいしかいません。やはり少数民族であることは間違いありません。そのため、躁鬱人への教育を、一般教育課程に盛り込ませるなんて政治的行動はほぼ不可能になります。多数決な世界で、政治的に盛り込むなんてことは不可能なわけです。無理なところで、ゴリゴリ努力しつつ、歯向いつつ、必死に食らいついて、勝ち取るみたいなことは躁鬱人には一切向いていませんので、さっさと諦めて、逃げて、違うところにいきましょう。心地よいところにいましょう。いいんです。躁鬱人への教育は躁鬱人によって行えばいいんです。だから非躁鬱人に怒らないでください。別の人間、なんなら、別の生き物だと思って、でも「お前は別の人間だ」なんてことは言わずに、ニコニコ無視して、こちらはこちらのやるべきこと、いや、やるべきことなんか何もないのが躁鬱人ですので、こちらはこちらのやりたいことだけ飽きるまでやっていきましょう。躁鬱人にとっての「飽き」は、非躁鬱人のそれとまるで違います。「飽き」は天の恵みみたいなものです。実りです。何を思いついて、それで行動した、すぐ行動した、思うままにやった、誰からも学ばずに自分なりの方法で適当に試してみた、面白かった、心地よかった、そして、翌日、飽きた。非躁鬱人の世界ではこういう人を信用してはならない、雇用してはならない、みたいに教育しているようです。しかし、躁鬱人は違います。飽きた、と言えることは、技術です。やりたくないものをそれでも一度始めたのだから、やらないといけない、みたいな思考回路は、躁鬱人にとって害悪にしかなりません。やりたくないことは、一切やらないでくださいね。これまで受けてきた教育と少し違うかもしれませんが、だからこそびっくりというよりも、きっとこれを読んでいる躁鬱人のあなたは少し気が楽になっているはずです。なぜなら、僕が気を楽にさせたいと思っているからですし、そう心から願っているからです。「ちゃんと」できないと悩んできたじゃないですか。悩んできた方には申し訳ないんですが、その「ちゃんと」が全く効果がないのが躁鬱人です。それどころか、鬱になる原因になってしまいます。カンダバシももちろん、そのことについても言葉を残してます。ずっと下の方にいって、7段落目の1行目です。
「資質に合わない努力はしないのが良いようです。『きちんと』とか『ちゃんと』とかは窮屈になるからだめです」
これ読むだけで、気持ちがスーッと晴れていきませんか? 僕は自分が欲しがっていた言葉がそのまま目の中に飛び込んできて、まるで湧き水でも飲んでいるように乾きが取れて潤います。ちゃんとしなきゃと感じるときってどういう時かというと、簡単に言うと、やりたくないときなんですよ。そして、飽きたときなんですね。もう満足した。一回やってみて、自分としては心地よくなって、どういう感触になるかはわかった。それでもう満足なんです。
それなのに「人として、威厳のある大人として、飽きたからといって、やりたくないからといって、すぐに放り投げるのはどうなのか?」という言葉が頭をちらつくじゃないですか。あれ「人として」ではないです。「非躁鬱人として」ってことです。躁鬱人がそれをやると、ほんとぎこちない人生になるので、やめておきましょう。非躁鬱人の常識は、躁鬱人の非常識です。だから、とにかくぶつかります。そのままむき出しで生きていると、衝突してしまうんです。それがたとえ家族だったとしても衝突は避けられません。躁鬱人の家族が全て躁鬱人であるとは限らないからです。遺伝である可能性は高いようですが、かといって、全員が躁鬱人ではないのです。だから躁鬱人は、孤児のような経験をします。まず両親が躁鬱人でない場合が多いですし、両親が躁鬱人であったとしても、彼ら自体が躁鬱人としての教育を全く受けておらず、むしろ非躁鬱人として育てられている可能性の方が高いため、その場合、彼らが「ちゃんと」やれと言われ、「ちゃんと」やろうとしてきて、躁鬱人ですから当然ながら「ちゃんと」できませんから、より一層「子供にはちゃんとしてほしい」となってしまいますので、どんどんこじらせちゃいます。だから現在ではほとんどの躁鬱人が孤児状態にあります。これはなんとかしなくてはなりません。だからこそ、僕はいのっちの電話と称し、09081064666という自分の携帯電話番号を公開しているわけです。いのっちの電話は躁鬱人孤児センターの役目も担っているわけです。しかし、百人に一人は躁鬱人が確認されているわけですから、周囲にはいなくても、ちょっと探せばすぐに見つかるくらいにはいます。だから完全に孤独ではありません。そのためにも周囲の非躁鬱人、もしくは非躁鬱人の教育を受けて育った躁鬱人たちとの衝突をできるだけ避けていきたいところです。だからこそ、資質に合わない努力はしない、ということも大事ですが、その前に、資質に合わない努力をしないでいられるような環境づくりもまた重要なことになってきます。躁鬱人はただ技術を高めていけば、安定した不安定生活が送れるわけではないです。なんせ少数民族ですから。まずは技術を高めるための環境づくり、土づくりこそが必要なのです。そして、それがあなたが窮屈を感じないための一番の近道となります。「急がば回れ」という諺がありますが、あれも非躁鬱人の、石橋を叩いて渡る式人生の方法論です。躁鬱人はそうではなく「急がば近道を自分で見つけ出せ」です。そっちの方が心地いいんです。ということでどうするか。それが「吐露」するってことです。「怒り」を発奮するのではなく、自分が感じていること、自分がやっていきたいこと、そして飽きてしまったこと、やりたくないことを「吐露」してみましょう。「吐露」がうまくいけば、言えなくて悶々としてたまりにたまって怒りに転化して突然発奮するなんてことが減っていきます。うまく吐露できるようになると、怒りがなくなります。今日の講義の最後として、この「吐露の術」についてお話しすることにしましょう。
怒りを発奮するときは、いつも、外側に向かってます。何か問題があって、その問題が許せなくなって、文句を言う、言い返す、正そうとしてしまいます。その裏には、話の中心になりたい、と言う躁鬱の自己中心的な特徴が隠されていることは前にも話しました。かつ、躁鬱人特有の正義感もあると思います。でもその正義感は、世の中を正そうとする純粋な気持ちというよりも、世の中を正そうとする自分ってすごい、と感じたいという愛らしく子供っぽい躁鬱人の純真な自己中心的精神が反映されているのではないかと思います。とにかく躁鬱人の心の動きは変幻自在で、これと固定されたものがありません、織物みたいに、しかも独自の方法で織り上げた織物みたいに、いろんな要因が混ざってます。それでもまず何より躁鬱人が怒りを発奮するときは、窮屈になってしまっていて、それをどうにかうっちゃりたい、つまり、どうにか鬱にならないようにしたいという自己治癒も潜んでいるように僕は感じてます。
やはり、あらゆる行動の前に、窮屈を感じる、ということがあるんですね。それでカンダバシも言うように「自分が我慢してしまう」わけです。そしてこの我慢が本当に躁鬱人は苦手です。石橋を叩いて渡れません、急がば回れなんてことは一切考えられないんです。ですから突然行動すると、短絡的だ、飽き性だ、先のことを何も考えずに衝動的に行動するだ、なんだ言われてしまいます。非躁鬱人はさすが、後の結果を予想して行動しますから、本当に躁鬱人のことが理解できないわけです。しかし、躁鬱人は結果が見えていないわけではありません。その逆で、映像的にバッチリ見えていることが多いです。だからこそ、行動ができるわけです。しかし、窮屈な環境では直感は生き生きとは動いてくれません。少しでもブレてしまうと、直感が見た映像通りには事がうまく運んではくれません。それで失敗をしてしまうというわけです。
そのために窮屈を感じない環境がまず大事になってくるわけですが、環境には地面が必要です。土ですね。もちろん実際の土ではありませんよ。周囲の無理解が作り出した土壌の上でどれだけ行動しても躁鬱人は持ち前の天性の能力を発揮することはできません。周囲に理解してもらう必要があります。だからといって、人にあれこれ指図してしまうと、躁鬱人の攻撃的なところが顔を出してしまいます。躁鬱人は人に注意していいことが何一つありません。躁鬱人の目は確かですが、その見方は、いくつか先をさっと映像的に見るみたいな感覚に近いですので、それを非躁鬱人に伝えても、突飛なアイデア、唐突にしか聞こえなかったりします。そのためお互い理解できなくなって、言い合いになることもしばしばあります。それでも人の観察に大変優れている特徴をもっていますので、ついつい言いたくなる。しかし、ここは一つ決めておきましょう。「人の注意はしない」と。
その代わりに「人のいいところを伸ばす助言をする」ということをやってみてください。これもまた躁鬱人は大の得意です。自分よりも人のことがよりよく見えていますから、その人が次どのように動いたらいいか、あれとこれのどっちをやればいいか悩んでいる時など、さっと素敵な助言を提供してあげることができます。時間の感覚が非躁鬱人とは少し違いまして、過去と現在と未来がごっちゃになっているところがあります。だから、非躁鬱人が言うところの未来が、少し見えるわけですね。これをあんまり外で言うと、躁鬱病は予知能力があるって言うのかと怒られてしまいますので、揉め事に発展しないためにも、ここだけの話にしておきます。予知能力があるわけではありません。ただ時間の感覚が非躁鬱人と違うってだけです。過去と現在と未来が学年ごとに区分されているわけではなく、縦割り保育みたいにごっちゃになってます。そんなわけで、ある人がどのように動けばいいかがさっとわかるわけです。それはとてもいい助言になりますから、心地よい声で伝えてあげてください。間違っても「なんでお前は俺の言う通りに動かないんだ」なんて罵倒しちゃだめですよ。優しく伝えましょう。一言だけ伝えるくらいで十分です。躁鬱人の一言には多くの情報が入ってます。それくらい、脳みその中のいろんな箇所を通過して言葉になるんでしょう。それもいいところですから大事にしたいところです。ですので「助言も柔らかく一言くらいにしておく」ってことを頭に入れておいてくださいね。
さて、人のことはこのようにとんでもないところまで千里の果てまで見ようとして、実際見ることができる躁鬱人ですが、こと自分のことになると一変します。自分が今どのような気持ちなのかがわからなくなってしまうことも多々あります。なぜなら、自分を変形させて自分を変えて周りにどんどん合わせようとする性質をもっているからです。しかも、それを無意識にやることができますので、自分では気づいていません。しかし、それで落ち込まなくてもいいですよ。ちゃんと見分け方があります。それは自分がどう感じているかを言葉ではなく、まず感覚で感じてみるってことです。躁鬱人は、自分の内面を文字に起こすことは苦手です。人への助言を長文メールに書いて送るのは得意です。しかし、自分の内面を感覚として感じ取るのは大の得意です。はっきり言えば、躁鬱人にとっての言語とは、言葉ではなく、感覚です。そういっても過言ではないでしょう。自分が今どんなふうに感じているかを言葉にすることはできなくても、心地よいか、窮屈かは、すぐにわかります。それが躁鬱人たちにとっての羅針盤になりますので、ここはよーく覚えておいてくださいね。
だから「なんと言っていいのかわからない」などと悩むことはすっかりやめて「今、心地いい? それとも窮屈?」って自分に聞いてあげてください。カンダバシも今日の最初のテキストの次の文、7行目に、
「勘や直感に優れていて、『好き』『嫌い』で生きているところがあります」
とあります。本当それだけですよね。そのことに理由も何もないんです。ただ心地いいか、窮屈に感じるか、だけなんです。理由があるから原因があるから結果がある、という数学式みたいなスタイルは非躁鬱人の思考回路です。躁鬱人はそうではなく、式にもなりません。ただ心地いいからやってるだけです。どうして、それをやるようになったのですか? とか非躁鬱人の新聞記者とかが聞いてくることがあるのですが、僕はいつも答えることができません。「いやあ、なんとなく、パッと思いついただけなんですよね」と言っても、非躁鬱人には通用しません。何か理由があると思っているのです。ここもあんまり揉めても疲れるだけなので、適当に理由を作っておきましょう。本当に適当な理由でいいんです。理由は全て非躁鬱人のためのもので、二重生活を強いられている少数民族である我々躁鬱人は適当にでっち上げて、非躁鬱人たちがなるほどと勝手に納得してくれればいいってだけです。それ以外のものはありません。というわけで、今、あなたも自分に「心地いいか、窮屈か」聞いてみましょう。我々の言語である感覚はとても明快です。きっとすぐにあなたもわかるはずです。そして、心地いいなら、そのまま続行しましょう。一方、窮屈なら、すぐに変える必要があります。とにかく躁鬱人は我慢ができません。本来、躁鬱人だけで生活が営むことができたら、我慢という言葉自体存在しないでしょう。そうやって、今まで言葉にならないことを悩んでいたでしょうが、そうではなく、むしろ、この言葉にできないけど、すぐに感じる感覚こそが、自分にとっての言語なんだと知覚すると、風景が変わって見えてくると思います。
「吐露の術」については実例を出しましょう。今、自宅待機中ですので、子供達もずっと家にいる状態です。僕も書く仕事は家でやってます。アトリエは家から離れたところにあり、そこではお昼過ぎから三時間ほど絵を描いてます。まず、僕は家族の他のメンバーとは少し違う時間で動いてます。最初は寝るところから始めましょう。
僕は夜9時に寝ています。これは前章でも書きましたね。一つは夜、人と宴会をするという自分に必要ないものをうまく断る方法として夜9時に寝てますが、夜9時に寝るのは、朝4時に起きるためでもあります。朝4時に起きると、誰も起きていませんから、一人で気を使わずに仕事ができるんですね。今、これを書いているのは朝8時27分ですが、もう4時間半も一人で過ごすことができているんです。朝は何かと忙しいですから、8時に起きていたら、そんなことはできません。しかし、朝4時に起きると、それができます。そして、僕以外の家族は夜寝るのが遅いです。妻が夜型の人なんですね。そのため、他の人もみんなそっちになんとなく合わせてる。なんとなく家族は一緒に同じ時間寝るものと僕も思っていたので、そうやっていたのですが、そうすると、自分なりに時間が使えずに、時々イライラしていたんですね。それでどうしようかなと思って「僕は自分なりの時間のペースで生活してみたい。夜9時に一人で書斎に布団を敷いて寝る生活をしてみたい。そっちの方が心地いいかも」と伝えました。吐露するってことは、つまり、自分が感じていることをそのままに言葉にすることです。その時に、あれこれ理由を伝える必要はありません。吐露ですから、そのままでいいんです。感覚を伝えるってだけです。それが心地いい、それが窮屈だ、と一言だけ言えばいい。別に夜9時に家族全員寝るべきだと言っているわけではありません。「とにかく人は変えようとしない」これもポイントです。人を変えようとしても、どうせ人は変わりませんから、躁鬱人としてはそれを押し通そうとすると必ず怒りが発生します。「変えるのは自分だけ」です。躁鬱人の持ち前の柔らかさで簡単に自分を変えることはできます。人は一切変えられません。不可能なことをするとそれがそのまま窮屈に転化します。可能なことだけをすぐさま実行しましょう。
というわけで、なかなか言えなかった一人で布団敷いて僕だけ家庭の団欒から離れて夜9時に寝るという生活をすることができるようになったのですが、たったこれだけのことですが、なかなか吐露するのは難しかったです。なぜなら、躁鬱人お得意の気遣いがあるため、集団の中で一人だけ好き勝手に行動するってことが、なかなか慣れてないんですね。どうしても気にしてしまう。だから黙ったまま夜9時に寝たら、みんな寂しがってないかな、俺だけ早く寝てみんなと一緒にいることをつまらないと思わせてないかな、とか余計なことを考えてしまいます。だから、何も言わずに勝手に行動をすると、その行動自体は窮屈でなくなったとしても、周囲との関係が窮屈になってしまう可能性があります。だからこそ吐露の術が大変効果的なのです。吐露すれば、相手も僕がそれで心地いいんだ、と知ることができる。そして、これを繰り返していけば、周囲にも躁鬱人というものは、自分なりの窮屈でない生き方を生活スケジュールを組んでいれば、とても心地よく生きることができるんだということを実践を通して伝えることができます。そうなると、どんどん吐露の術を出しやすい環境ができてきます。それでもうすぐこの講義も終わりますから、みんなが起きてくる9時頃には、元気にご飯でも作るよ!なんてことが言えるわけです。
娘のアオはそれでも僕に似て朝型のところもあって、僕よりは遅いですが、早めに起きてきます。物音が聞こえますから、僕はすぐ気付くんですね。でもそうすると、途端に気になってくる。でも、それ自体は悪くないんです。躁鬱人は一つのことに集中しすぎると実はうまくいかないという法則があります。これも非躁鬱人には理解ができないかもしれませんが、ながら作業の方が効率が良くなったりするんです。生口も同時に作業をしていた方が楽なんですね。だからご飯を作ったあげたいと思ったら作ります。でも今日は作りたいと思わずに、もっと書きたいと思ったんです。そこで僕はすぐに書斎をでて、アオのところに行き「いつもはご飯作るところだけど、今日はもうちょっと書きたい!って思ってるから、ご飯は自分で温めつつ、卵焼きとか作って〜、いいかな?」と吐露しました。すると「うん、それでいいよ」と言ってくれたので、安心して、今書斎に戻ってきたわけです。こうやって、一つ一つの行動をする時に、気になることが起きた時に、自分に何が心地いいか、何が窮屈なのか、とすぐに聞いてあげて、自分がやりやすいように、自分を変えます、ということを周囲の人に吐露するってことです。これ、なんだそんなことか、とみなさん思うかもしれませんが、このように細かく自分に対応してあげることで驚くべき効果を発揮するので試してみてください。同時に、その細かい吐露は周囲にいる非躁鬱人たちに自分の特徴、自分が楽でいられる環境を知らせることにもなります。それがうまくいくということを非躁鬱人が知れば、非躁鬱人も自分の常識の中であなたを理解しようとするのではなくなります。だって、躁鬱人が荒れたら、あなたも辛いですが、周囲の人も辛いからです。できるだけ心地よい生活を送ろうと願うのは、躁鬱人も非躁鬱人も同じです。ただその感覚が違いすぎるので、それを相互理解するために、躁鬱人は非躁鬱人を変えるのではなく、窮屈な方向ではなく心地よい方向に自分自身を変える、そのことを周囲に吐露する、というこの吐露の術を駆使してみましょう。今日も長くなりましたが、これで講義を終わります。僕も朝ごはんを食べようと思います。それではまた明日。
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