継続するコツ 第1回 継続に才能は全く関係がありません
何かを作る。僕はこの行為こそ、全ての人間に必要な楽しいことだと思ってます。実際に、みんな何かを作っているはずです。僕は本を書き、絵を描き、歌を作ってますが、それ以外にも、セーターを編み、陶芸をし、ガラスを吹き、織物を織り、先日はフェルトでフグの人形をつくりました。畑で野菜も作ってます。そこで収穫した野菜を使って料理することも大好きです。みなさんもそうやっているはずです。実はみんな何かを作っているんですね。お金になるならないは関係ありません。そんなことどうでもいいです。作っている人は作っていることが楽しいはずですから。
しかし、人は少しずつ作らなくなっていきます。昔は作っていた。でも今は・・・・という人も多いのではないでしょうか。
まずはどうして人は作らなくなっていくのかということを考えてみることにしましょう。
はじめはみなさんもただ作ることを楽しんでいたんだと思います。何事も初めてやるのって楽しいですもんね。知らないことを知ることが楽しい。ゼロから自分の手で少しずつ出来上がっていくのを見るのはなんとも言えない喜びに溢れています。最初はみんなそうです。小さい頃なんか夢中になっていたはずです。
しかし、段々と作らなくなっていきます。はじめは周りが何も見えていませんから、比べません。でも、少しずつ慣れてくると、周りを見渡すことができるようになります。そうすると、すぐに人は人と比べたがるんですね。不安だからなんでしょうけど、ついつい比べてしまいます。そして、ついに、人と比べて、自分がたいしたことがないと悟ることになります。そうなってしまうと、急に自信がなくなって、やる気がなくなって、作らなくなっていく。さらに大人になっていくと、お金の問題も出てきますから、こんなことやってもお金にならないと早急に判断してしまい、お金にならないことをやっても仕方がないと諦めてしまう。
僕は死にたい人からの電話を受けてますが、その時に、よくみなさんにこれまでの人生で何が一番楽しかったですかって聞くんですね。死にたい時には楽しいことなんか思い浮かべることもできなければ、思い出すことすらできません。そこで、楽しかったというのを言い換えて、何をしている時が一番マシでしたか?って聞くんです。そうすると、みんな色々教えてくれます。その時に、昔、作ってたことを教えてくれることが多いです。でも、みんなやめてしまってます。そこで僕はすぐ「またやりはじめたらいいじゃん」って声をかけるんですが、みんな口を揃えたように否定して「いや、私、才能ないですから」って言います。本当にみんな同じように言います。僕としては才能あるなし関係なく、それを作っているときは少しでもマシだったんだから、少しでも体調を良くする為にもやってみたらいいじゃんと伝えるのですが、結構、みんな頑なです。才能がないことはやってはいけない、みたいになってしまってます。
何か作品を作るとき、人はたいそうなものを作らないといけない、と考えてしまうようです。私は才能がないから、そんなすごいものは作れない。だからやらない、となってしまう。
元々は
作ることが好き → だから作る
だったはずですが、
今では
才能がある → だから作る
才能がない → だから作らない
こうなってしまってます。しかも、才能がない、ということを自分で決めてしまってます。
才能ってなんでしょうね。僕は時々、人から「あなたは才能があるから今もやっているんですよ」と言われることがあります。僕のことを何も知らない人がそう言ってきます。僕のことを知っている人はそう言いません。しかも、10年前には誰もそんなこと言う人はいませんでした。誰も知りませんから当然です。20年前には本当にどこにもそんな人はいませんでした。これも当然です。両親だって、才能なんかないんだから、諦めて会社で働きなさいと言ってました。心配だったんでしょうから、別に恨んでもいません。
人はどうやら、才能があるからやる、と思ってます。
人のことはわかりませんから、僕は自分のことをもとに考えてみましょう。
僕は絵を描くことが好きだったんですね。小さい頃から。小学一年生の時に漫画の連載を自分で勝手にはじめました。きっかけは僕の同級生のたかちゃんのお兄ちゃんです。お兄ちゃんは小学6年生だったのですが、本当に漫画を描くのが上手くて、さらには連載をやっていたんです。漫画連載の作り方が本当に上手くて、本としても体裁が整っていて、憧れました。お兄ちゃんを見て、僕は思わず、すごい才能の持ち主だと思いました。でも、そこで怯みはしなかったんですね、僕は。自分もやってみたいと思ったんですよ。自分にできるかはわからない。でも、自分でやれたら嬉しいなあと思いました。そして、やるときも自分なりにはできるけど、お兄ちゃんよりすごいものは作れないかなと思ってました。つまり、自分では才能は感じていないんですね。お兄ちゃんの才能は感じてます。でも、やりたいと思ったんです。そして、やってみたら完成しました。仕上がりもお兄ちゃんとは比べものになりませんでした。作った後も自分に才能は感じていません。でも、作っている行為自体が無茶苦茶楽しかったんです。そして、ある一定の時間をかけたら、ちゃんと自分なりではあるが、それなりの完成品が出来上がることもわかりました。
僕が作ったものをお兄ちゃんに見せられるほど度胸はありませんでしたので、たかちゃんと僕の弟に読ませたんですね。たかちゃんはお兄ちゃんの漫画も知っているから、リアクションがそこまで良かったわけではないですが、それでも面白いと言ってくれました。弟に限っては、弟はたかちゃんのお兄ちゃんの傑作のことを知りませんので、もう初めて見た自作の漫画なのですが、興奮して読んでくれました。その時、僕は披露する場所を考えたら、僕の漫画だってそれなりにニーズがあるということを知りました。そして、作業自体は超楽しかったので、その後も漫画の連載は続きました。
この時、才能のことは考えていません。だって、作れるようになりたいだけですし、何よりも作っていて楽しいわけです。それが社会的にどうだとかは関係ないんです。
それよりも、漫画の連載が続き、作品が積み重なっていくと、ありえないほど興奮することをその時にすでに覚えました。
そこまでいくと、弟に読ませるよりもさらに、自分が喜んでいることに気づいたんです。
漫画の質はそこまで良くありませんでした。それは自分でも良くわかっていたんです。それよりも積み重なっていくことの喜びの方が優っていた。
自分の漫画の才能については考えていません。もちろん、少しでも上手くなれたらいいなとは思ってます。上手くなれるとも思っていませんでしたが。未来の自分というものは全く想像できないものです。小学生の時はさらに想像ができませんでした。想像するということすら知りませんでした。
でもたかちゃんのお兄ちゃんが明らかに自分よりも絵が上手いことはわかっていました。
僕が思ったのは、才能とは自分を判断する言葉ではない、ということです。才能って、人のことを憧れる言葉なのかもしれません。僕はそのようにたかちゃんのお兄ちゃんを見ました。すごいなあ、あの人は才能があるなあって思ったんです。一方、自分は才能がないなあとは思いませんでした。ちょこっと下手っぴだけど、それでも漫画完成したしなあ、これ自体面白いからなんか知らないけど、もっとやってみたいと思いました。この感覚はずっと今も変わっていません。僕はいろんなことをすぐにはじめちゃいます。畑もはじめてみて、畑の師匠がいるんですけど、ヒダカさんというおじさんで、この人が本当に野菜のことを愛していて、見ていていつもすごいなあって思うんですね。一方、僕なんて、もう畑をはじめて3年目なんですけど、はっきりいってそんなに上手じゃないんですね、野菜と対話することが。それでも、才能があるヒダカさんを見ていると、いいなあ、なれるとは思えないけど、でも、いつかヒダカさんみたいになれたらいいなあとは思います。でも僕は上手くいかないからってやめません。なぜなら畑をすること自体は楽しいからです。無茶苦茶シンプルですけど、ヒダカさんと比較してはいるけど、比較した後に自分を批判していないんです。
なぜなら、ヒダカさんがあんなに野菜と対話することができているのは、畑で過ごしてきた時間が明らかに僕とは違うからだということが容易にわかっているからです。
もちろん、ヒダカさんが元々野菜と親和性があるのかもしれません。つまり、畑の才能があるってことなのかもしれません。でも、才能があるだけで、一年くらいでやめていたら、僕はヒダカさんの能力を知ることはできないでしょう。ヒダカさんが今も変わらず畑にいるから、そう思うのです。つまり、僕が感服しているのは、ヒダカさんが元々持っている能力ではなく、今日も変わらず畑にいることの凄さなんです。
僕が感動しているのは、ヒダカさんの継続する力です。それをヒダカさんの才能だとしますよね。
そうすると、ヒダカさんの才能を感じて、自分には才能がないと思って、諦める、みたいなことがおかしいのがよくわかりますよね。
だって、ヒダカさんの才能は継続することですから、そこで僕が諦めて、やめてしまっては意味がないじゃないですか。そうじゃなくて、毎日ではなくても、それでもヒダカさんに少しでも追いつけるように、やめずにじとじと畑に通い続けるってことでしか、その感動を育てることはできません。
ヒダカさんは僕に一度も、才能がないとは言いません。それどころか、百姓できるかもよ、とか、時々畑にくる方が実は野菜には負担がないのかもしれない、とか言うんです。
しかも、ヒダカさんは無茶苦茶幸せそうに言うんですよね。少しでも僕みたいな初心者からでも盗めるものは盗んで自分の毎日の行為の栄養にしようという柔らかい気持ちを感じます。
僕はヒダカさんに一つの継続人としての達成を見るのです。これから僕はこの本の中で、何人も僕が憧れている継続仙人たちを登場させると思います。その七仙人の一人がヒダカさんです。
ヒダカさんは僕に才能がないとは一度も言いませんでした。畑を始めると伝え、あなた才能ないからやめといたら、と言った人は畑をやったことがない人でした。
これは僕の経験でしかありませんが、才能という言葉についてまとめてみましょう。
① 才能という言葉は、自分に対しては使わない。
② 才能という言葉は、憧れる他者に対して使われる。
③ 才能とは、一時的な能力の発揮ではなく、継続していることを指している。
④ 継続している人は、他者に対して「才能がない」とは言わない。
⑤ 才能がないという言葉は、未経験者しか使わない。
いかがでしょうか。才能という言葉がグラグラ崩れていくように感じてくれたら、それは僕が意図していることが伝わっているのかもしれません。
僕は才能という言葉を強く疑っています。才能あるなしで、行為をするしないを選択してしまっている今の世の中のやり方に反乱を起こしたいくらいです。
つまり、私は才能がない、と言って、作ることをやめる人は、まず言葉の使い方が間違っているんです。
才能がない、とは、やったことがない人が適当に放言しているだけの言葉ですから、おそらく、才能がない、と自分で言っている人は、以前、誰かから「君は才能がない」と言われた人なのでしょう。しかも、才能がないという人は未経験者ですから、本当に事故みたいなものです。やりもしない人から「それじゃ食べていけないからやめなさい」みたいな感じで、適当に言われた言葉を信じてしまっている可能性が高いです。実にもったいない。しかも、才能は、継続することでしか示すことができませんので、そこでやめてしまったら終わりなわけです。
もういっそのこと言葉を変えてみましょう。
才能=継続ってことです。才能がある人、ではなく、今も継続している人です。才能がない人とは、継続できずにやめてしまった人ってことです。
こうすると、シンプルに考えられるような気がしませんか?
才能がないから、やめたわけじゃないんです。継続する方法がわからなかっただけです。
継続するコツさえ知れば、また再開できるはずです。だって、楽しいと感じたんですから、再開して悪いことは一つもないはずです。
そして同時に、やりたくないことを継続することは、できるだけやらないようにしたいなと思ってくれるはずです。
みなさんもヒダカさんみたいな継続仙人目指してがんばりましょう。
僕も挑戦している最中です。最中であればいいんです。継続中ってことですから。
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