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【掌編小説】お帰りなさい

 戦場から兄が帰ってきた。
 まだ夏が居座っているかのような、けれど空は高くなってきた日曜の昼下がり。私は庭に面したテラスのテーブルで、色鉛筆を使って絵を描いていた。夢中になり過ぎていたのか、兄が錆びた門を開けるギイという音も、芝生を踏みしめる足音も聞こえなかった。
 気づいた時には「ただいま」とテーブルの向こうの、もう一つの椅子に腰かけていた。白いペンキの剥げかけた椅子が、キュイ、と独特のきしみ音を立てたのは聞こえた。
「お兄ちゃん! 今日、帰ってくる日だったの?」
 私の驚く声に、兄はいつものように優しげで、少し哀しげな微笑を浮かべた。
「そう、なんと今日、帰ってくる日だったんだよ」とこれはおどけた口調で返答。
 カーキ色の軍帽をテーブルの上に放り出す。かすかに砂埃と汗のにおいがした。
「何を描いてたの?」と尋ねられ、スケッチブックを兄のほうに向けた。
「白鳥にされちゃった王子様。元の姿に戻ったけれど、片腕だけ翼のままなの」
 十五歳にもなって子どもみたいな絵ばかり描いている。両親や友人はそう言って笑うけれど、兄は笑わない。スケッチブックを手に取り、しげしげと眺めていた。
「綺麗な色使いだね。懐かしいな、こんなお伽話があったね。妹のお姫様が、確か……」
「そう、お兄さんたちが魔法で白鳥にされてしまってね、妹がそれを元に戻すために頑張るお話。でも最後、一人のお兄さんの片腕だけが間に合わなくて」
 説明しながら、兄の軍服の左胸に新しい勲章が増えているのに気付いた。 赤と白の、宝石のように美しい石を組み合わせた勲章。
「ねえ、それ、すごく綺麗ね」
 話の途中で他のことが気になり、脈絡なくそれを口に出してしまう。いけないことだ、と学校の先生に何度も注意されたけれど治らない。
「これ?」と兄は私の言いたいことをすぐに理解してくれて、胸元を指差した。
「いいなあ、ほしいなあ」
 思わず口に出したら、「これはだめ」と硬い声が返ってきた。
「ごめんなさい。大切なものだもんね」
「違うよ。これは、ひとを殺して貰ったものだから。おまえにはふさわしくない」
 私の絵から目を離さないまま、そう言った。
 テラスに沈黙が落ちる。庭に目をやると白い蝶が飛んでいた。テーブルの上のグラスには飲み残しのジュースが入っている。あの蝶は蜜の代わりにこれを吸いにくるかなと考えていたら、氷が溶けて音を立て、はっとした。
「お兄ちゃん、疲れてるよね。何か飲む? コーラ? それともアイスコーヒー?」
「ああ……ありがたいね。それじゃコーヒーをいただこうかな」
「ガムシロップは? ミルクは?」
「大丈夫、そのままで」
「すぐに持ってくる」と立ち上がった拍子に、私の椅子もキュイイ、と変な音を立てた。
「その子も、のどが乾いてるのかな」
 兄は椅子を指差し、我が家でお決まりのジョークを口にした。飲み物食べ物を扱っているとき、家具や何かが音を立てた時の一言。
 私は兄がそれを忘れていなかったことを嬉しく思いながら、「たぶんね。この子の分はオレンジジュースにする」と返した。実際には私のおかわりだけど。
「そうだ、お父さんとお母さんが今夜は久しぶりにお肉を食べに行こうって言ってた。お兄ちゃんも行くよね、もちろん?」
「ああ、もちろん」
 兄はそう答えながらも上の空で、ズボンのポケットに手を突っ込み、何か取り出そうとしている。そういえば兄は手ぶらだ。鞄も背嚢もない。どうしたんだろうと不思議に思いながらガラス戸を開け、家の中に入る。
「今、お母さんたち、買い物に出かけてるけれど、戻ってきたらすごく喜ぶよ。お兄ちゃんが急に帰ってくるなんて」
 兄は何か返事をしたかもしれなかったが、聞こえなかった。
 リビングのテレビがつけっぱなしになっていて、どこかの戦場が映し出されていた。大音響で何かが破壊される音がして、女の人や子どもが泣き叫ぶ声がした。どこの戦場かはわからない。今は世界のあちこちでこんなことが起きている。
 私は耳をふさぐことを忘れ、呆然と画面を見つめていた。でもすぐに、はっとした。見つめ過ぎていると、また、息苦しさや無力感や死にたい気持ちが襲いかかってくる。深呼吸してリモコンを手に取り、消した。画面が真っ暗になって音が消え、安堵した。
 同時に、私には兄などいなかった、という事実を思い出す。
 リビングの棚の上に飾られた家族写真を手に取る。そこには笑顔の父と母にはさまれ、ぎこちなく顔を歪めている痩せっぽちの女の子しかいない。私は一人っ子。
「……お兄ちゃん」
 テラスに戻ったが、兄の、いいえ、私が兄だと思った人の姿は消えていた。もうその人の顔も声も思い出せない。優しくて哀しげな微笑みだけは、絵に描けそうなくらいなのに。
 スケッチブックの、私の描いた王子様の胸の上に、赤い実をつけた小枝が置かれていた。
 さっき兄がポケットから取り出そうとしていたのはこれだったのか、とわかった。
 まるで勲章のように光る綺麗な赤い実を、私は手のひらに載せ、少し泣いた。 
 きっともう、兄には会えない。私、「お帰りなさい」と言えてなかった。 何度でも言いたいのに。たとえあなたが私の兄でなくても、世界のどこの誰であっても。そして今度帰ってきたら、どうかお願い、二度と戦争になんか行かないで。
(了)





*****

こちらの掌編小説は、ブンゲイファイトクラブ5に応募し、落選したものです。

心身ともに調子のよくない時に書いたもので、小説ではあるけれど、自分の心の叫び(自分の中にいる十五歳の女の子の叫び)という側面のほうが強かったかもしれない。
なので、どこかに応募するのは何か違うような気がしつつも、応募してしまいました(選考委員の西崎憲さんに読んでもらえる、と思うと、つい)。
こうやってnoteに公開するのも何か違うような気もするのですが、公開しておきます。

好きな作家さんである小山田浩子さんのTwitterの真似をして、末尾に書いておきます。
戦争反対。絶対反対。


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