文車妖妃・二
初めに、空虚があった。
鑑みるに執着とは、空虚から生じるのだろう。
私が学生生活そのものに魅力を感じられなくなったのは、高校入学から間も無い頃の事である。以来現在に至るまで、私はずっと帰宅部のままだ。
何故そのような事になったのか。自分自身の心の動きには、今も合点が行っていない。
入学前。
私は、これから始まる高校生活の放課後をどんな風に送ろうかと夢想しては、浮き立つような悩みに耽っていた。
そんな心持ちが続くままに入学式を終えると、響きに惹かれたものから順に手当り次第に部室の扉を叩いていった。
だが。
どれもどこか、違っていた。
活気も雰囲気も、決して悪くは無かった。
真剣に入れ込んで積極的に活動する人。
消極的ながらも仲間内で連んで悠然と過ごす人。
期待した通りの学生生活の形が、赴く先々に確かにあった。
それでもそれらは考えていた通りであっても───思っていた通りでは無かったのだ。
あれほど楽しみにしていたのに。
これほど娯しそうなのに。
それほど愉しめる気がしなくて。
自分でも何だかよく解らぬうちに興が醒め、逃げるようにその場を辞す。
「じゃあ、またね」
どこの部でも、先輩達はそう言って笑う。
その冗談めかしたような顔から、本気で言っていないらしいことがよく分かった。きっと彼らも、私に脈が無いことは目に見えていたのだろう。気遣いか社交辞令か、そんな所だ。厭に大人びたその対応に、却って私の胸は蟠とした。
部を五つほど巡った辺りから、私は部員達の顔を覚えるのを止めた。
莫迦莫迦しくなったのだ。彼らは休み時間中に擦れ違った時、誰一人として私に気付く様子も無かったのである。
やはりそうか、と私は吐き捨てるような気分になりながら得心した。まるで再会を期待しているような言葉を吐いておきながら。結局連中にとって、直接の関わりを持たぬ者など、背景も同然なのだ。
そうだ、あの作り物のような笑みは。
人間ではなく、人の形をした無生物に向けたものなのだ。
自分の人生に何ら影響を及ぼさぬ、書割の如き存在へ向けた───事勿れの諂い顔だ。
そう考え到ると無性に腹が立ったが、それでも部活探しは止められなかった。少しずつ増してゆく他人への嫌悪感に焦燥した私は、却って残された可能性に縋るようになっていたのだ。もっとも、その期待もやはり毎回裏切られたのだが。
そんな事が、幾度も繰り返された。
彼らの顔は、その度に重ね塗りのように私の脳裏に刻まれる。
皆、顔は違う。なのに。
皆、いつも同じ風に動き。
輪郭の上に、輪郭が交じり。
またその上に、輪郭が雑じり。
それは次第に、茫洋とした肌色の半楕円になってゆく。
丸括弧のように歪んだ口と、笑っていない細身の目だけが、その中央にくっきりと黒い曲線を描く。
何とも気色の悪い、愛想笑いの抽象画。
入学式から一週間ほど経ち、そんな絵がすっかり出来上がる頃。
私は他人と関わる気力を失った。
家の外を一歩でも出ると、脳内の抽象画は仮面となって、周囲のあらゆる人の顔に貼りつく。教師も生徒も、焦点の暈けた顔でヘラヘラと笑うのだ。
誰も彼も、気持ちが悪い。
放課後になったら、誰の顔も見ずに真っすぐに家に帰りたかった。
こんなはずでは無かったのに。
心は頭に逆らって、私を他人から遠ざける。
内面の自由すら失った私を、暈けた|諂い顔が嘲笑う。
へらへら。
初めは単なる違和感だったはずなのに。
いつの間にか、理由が擦り替わって。
へらへら。へらへら。
あの微笑から逃げる事に囚われて。
その先には逼迫した孤独があるだけなのに。
へらへら。へらへら。
へらへら。へらへら。
虚脱した私の空洞に、音の無い笑みが谺する。
へらへらへらへらへらへらへらへら。
へらへらへらへらへらへらへらへら。
ああ、鬱陶しい。
内も外も、鬼魅が悪くてしょうがない。