文車妖妃・六
心が内へ閉じこもったまま膨らみ始めて、二年が経った。
それだけの時間が経てば、流石に情報も増える。あの日教室で私が見たあの子は、水橋譲花という名前らしい。手紙を書き始めた時はあんなにも知りたかった事だというのに、不気味なほど感情が動かなかった。ただ、綺麗な名前だな───とだけ考えた。
彼女───水橋は、文芸部に所属していた。あの夏休みに一緒に居た二人の男もその一員であったようだ。
私が入学した当初、文芸部は上級生が皆卒業してしまったために水橋以外一人も部員が居なかった。その彼女も部室に行かず教室に残って本を読んでいた訳だから、当時部活漁りをしていた私が気付かなかったのも、仕方が無かった事だろう。結局、あの二人が入ってきた事で文芸部は晴れて存続が決定したらしい。だからあれからも、水橋が彼らと三人で行動している所をよく見た。
悲しいとは、不思議と思わなかった。
単に巡り合わせが悪かったとも考えられる。はたまた、出会ったその日のうちに彼女に声を掛けられなかった私の意気地が無かった、とも考えられる。兎にも角にも、これはしょうがない事なのだろう。そもそも私は水橋と、ただの一言も口を聞いていない。彼女からすれば私など───二年前からずっと、居ないも同然の書割なのだ。そこから動こうとしなかったのは、私自身だ。
まるで夢から醒めでもしたかのようにそれらの事実はあっさりと咀嚼され、消化されていった。夏のあの日から心との接続を失った脳は、それでも未だ私の中で、健在に情報処理を取り仕切っていたのだ。
だが───手紙だけは、やはり増え続けたのである。
もし、水橋にもっと早く会えていれば。
私が文芸部に入っていれば。
夕陽射しに包まれた部室で、二人きりで───ずっと。
爛れた妄想が文字を得て、紙面の上で饐えた臭いを放つ。
伝える勇気も、どうせなかっただろうに。
ここにあるのは、逃亡者の惨めな執着だ。
執着だけが、充満している。
だがそれに気付いたのは、実はつい最近の事だ。
慙ずかしい。
想っていたはずの彼女の不幸を契機に、私はようやく思い知ったのだ。
先週から、水橋は左眼に眼帯を着けるようになった。
ひと月前、交通事故に遭った彼女は左眼を負傷した。その傷が原因で、視力も失くしてしまったらしい。これから一生、そのままなのだろう。
私は───可哀想だな、という考えが過っただけだった。
彼女が学校に戻ってきた日の夜も、手紙を書いた。
その時に、ようやく私は理解した。
筆を走らせている間にずっと思い描いていたのは、あの時と同じ───左眼のある水橋の姿だった。
私はもう、二年前のあの日見た彼女にしか───興味が無かったのだ。
そう考え到った私は、慌てて抽匣から今まで書いてきた手紙を全て引っ張り出し、初めの一行を一つ一つ確かめていった。
何れにも宛名が書かれていなかった。
彼女の名を知ったその後ですら、一通も。
私の手紙は全て、名を知らぬ頃のあの子に宛てて書かれていたのだ。
何処にも流れ行く先が無い訳である。
私はただ、私の心の膿を───
私の記憶の中に吐き出しているだけであった。
ただの、自慰行為ではないか。
───何を今さら。そんな事は解りきっていただろうに。
脳裏に、自分の声が反響する。
そうだ。頭では、とっくに判っていた。
でも心はずっと、脳髄から遁げていたから。
そんな事さえ気付かずに、ついさっきまで。
この手紙たちに込められた気持ちを、恋だと思い込んでいた。
───愚か者。
私の頭が、鬼の首を取ったかのように嗤う。
へらへら。
煩瑣い。
へらへら。へらへら。
脳味噌なんぞに何が解るものか。
そもそも、恋とは何なのだ。
人を好きになる、という事なのか。
そんな言葉で事足りるものか。
好き、などという───猿にでも言えそうな曖昧な言葉で。
違うだろう。
ある日突然、自分の世界の中心に自分以外の誰かが舞い降りて。
その人の周りを、回転木馬のようにただ廻り続ける。
自分の世界が、たったそれだけの単調な日々に侵されたとしても。
それでもいい、それだけで幸せだと───即刻言い切れてしまうような。
果たしてそんな甘美で苦しい想いの事を。
好きだ、などという言葉で言い表せるものか。
───言えるとも。
へらへら。へらへら。
へらへら。へらへら。
───仮令月並みな言葉でも良いのだ。
───伝える事すら儘ならぬ、何処ぞの莫迦に比べれば。
へらへらへらへらへらへらへらへら。
へらへらへらへらへらへらへらへら。
黙れ。
笑うな。
野次馬め。
静かにしろ。
お前が邪魔で、
私の手紙が、あの子に届かないじゃないか。
額を文机に叩きつけた。
心電図のような耳鳴りがして、視界が盪盪と揺れる。
それが治まると、もう不快な嘲笑は聞こえなかった。
執着とは、囚われる事───であるらしい。
恋も、自分の中心に居座るその人に囚われるものだろう。
だからやはり、恋とは執着なのだ。
だがもしそれが、私の中にしか存在しない人間を中心にしていたなら。
それも果たして、恋と言えるのだろうか。
分からない。多分、違うのだろう。
それでも、解る。
正体が判った所で、この想いはきっと鎮まらない。
実際、結局その次の日も私は手紙を書いたのである。
そして───水橋は今日、死んだ。
今も尚、膨張は止まらない。
もう何も、分からなくなってしまった。
だから、ここで開いてみようと思った。
夕闇の降りる、部屋の下で。
私と───あの目が、見ている前で。
あの、橄欖のように鮮やかな色をした瞳が───
私と、私の執着を見ている。
文机の上。
隅に置かれた壜に、視線を注ぐ。
片肘に体重を預け、だらりとした体勢になる。
───どうして、こんな事をしてしまったのだろう。
それも解らない。
これも、執着なのか。
きっとそうなのだ。
壜には、無色透明な水が盈ち盈ちている。
その中に游游と浮かんでいる───これも。
ただの執着なのだろう。
消え入りつつある夕陽の光は弱く、ただ水中に濁った影を象っている。
私は溜息を吐いた。
これはもう、彼女じゃない。
あの子は死んだ。
だから、壜の中で碧の煌めきを失いつつある───この眼球は。
やはり単なる、私の執着の塊なのだ。