文車妖妃・四
空虚が満たされた日の夜。
ひとしきり恋の余韻に酔い痴れた私は彼女に手紙を書いた。文字通りの恋文である。
心という器に満ちるどころか溢れ出んとするそれを、ただ何処かに吐き出さなければならないと思ったのだ。
便箋を引っ張り出し、亡き祖母の遺品であるこの文机に向かい。思いつく言葉を何とか繋がるように並べて、一つの文章にしてゆく。
幼い頃に亡くなった私の祖母は筆忠実な人で、たくさんの人と文通をしていた。当時はそれほどすごい事には思えなかったが、いざ実際に書いてみるとこれが中々に難しかった。
書きたいものは、伝えたい感情。
伝わらねば意味が無いから、順序立てて平易に。
心で思ったことを、頭で考えて書かねばならない。
さりとて、論理を立てれば情緒が薄れる。
筆に任せれば、支離滅裂な乱文が生まれる。
数刻前の名文も、一度読み返せばただの駄文である。
苛々しながら書き進め、煩悶としてはまた消して。
結局私は僅か便箋一枚の手紙に、休日全てを費やしたのだった。
次の日。
週が明け、家の外に出た私はやや仰天した。
愛想笑いの幻覚が見えない。心の洞が埋まり、あの卑しい笑い声が響かなくなったのだ。人も景色も、目に映るあらゆるものが瞭然とした輪郭を抱いている。
晴れやかで、心地好い。
ようやく常人並の世界を取り戻したのだと、私は強く安堵した。
恋とは人の精神にこれ程まで影響を与えるものなのか、と半ば感心しながら登校した。
そうして、決意を新たにしたのだ。
あの子のお蔭で私は救われた。
ならばやはり、この手紙を渡さねば。
私はその日───前日の夜まで書いていたあの手紙を、学校まで持って来てしまったのである。
今考えれば、中々に不気味だ。名前も知らぬあの子に、いきなり手紙を届ける事など出来るはずが無い。まず読まれもせずに気持ち悪がられるのは間違いなかろう。まして直接渡すなど以ての外である。二度と私の事を見てはくれまい。
その時の私も恐らく、その位の事は弁えていたはずなのだ。ほんのお守り程度、という軽い気持ちで鞄に忍ばせたような気がする。
そのはずが、学校───彼女に会える場所───に近づくほど私の感情は膨れ上がってゆき。
今日渡せなくとも、いつかは必ずや。
そんな風に考えるようになっていた。
お守りに掛けた願は僅か半刻ほどで、大袈裟なまでに重量を増したのである。
「ふふふふふっ」
思わず笑ってしまった。
僅かに起こした身体が揺れる。その重みに耐えかね、私はまた文机に片肘をついた。
愚かで初々しかったあの頃の自分を振り返るのが、こんなに可笑しい事だとは思わなかった。
久方振りに訪れた激しい情動に、為す術なく戸惑って。解放感に酔って、みっともなく浮かれて。身も心も真っ赤に茹だって。さしずめ蝦だの蛸だのと同じようなものではないか。
人間の脳というのはつくづく酷い性質のものらしい。当時はあれほどまでに尊かったはずの記憶も、たった二年でここまで無様に茶化せてしまえるとは。だがそんな真似ができるからこそ、辛い思い出も客観の俎上に乗せて笑い飛ばせるのだろう。
そう、それからの日々は───寧ろ以前より苦しかった。
私が恋だと思っていたそれは、漫々と歪に浮腫んでいったのだ。