文車妖鬼
気がつくと私は、林の中に立っていた。
風に木の葉が擦れる音と蜩の啼き声だけが、身体を包んでいる。
昏く深い緑が、さわさわと揺れている。
───ここは、何処だろう。
陽はまだ、完全に落ちてはいないようだ。
少し遠くに目を遣ると、木立の間に小豆色の空が開けている。
目算でおよそ数十米ほどの距離である。彼処からならば、景色が見渡せるかもしれない。少なくとも手掛かりくらいにはなるはずだ。
そう考えて其方へ歩いてみると、目下に街並みが望めた。
見覚えのある景観である。
───ああそうか、ここは。
学校の隣に面している、雑木林の中だ。
教室の窓からも見える位置にある。小高い山のような地形になっていて、そこを登れば街を一望できるのだ。
ある日放課後の校舎で夕焼けを独り見ていた時にふと思い立ち、ここへ一度入った事がある。ちょうど今立っているこの場所から、夕景を眺めてみたのをよく覚えている。
街は茜色に染まり、建造物の直線的な輪郭に劃然と陰影を抱いていた。
まるで、あの時の彼女のように───
それ以降、時折帰り際にここへ足を運ぶようになったのである。
───だが、今は。
もう夕陽は殆ど落ちかけている。
帰り道ではない。そもそも帰宅した記憶自体が残っている。
だが───帰宅前後の記憶が殆ど無いのである。
確か、私は。
家に帰りついた後、文机に突っ臥して。
何かを眺めていた。
そして何故か、俄かに抽匣を開けて───
気付けばここに立っていたのだ。
───私に一体、何があったのだ。
私は暮れゆく街を見下ろし、熟考に耽った。
そうしている間にも確実に、街並みは夜の闇を迎え入れようとしている。
だが、思い出せない。
記憶が、断絶している。
ただ身体に覚える疲労感と、感覚器官を通じて伝わる現状の情報だけが残されている。まるで意識の場から脳だけが排除されていたかのように───
───そんな馬鹿な。
脳が機能していなかったという事は、意識が無かったという事だ。人が考えることも無しに動けるはずがない。単に私が異様な興奮状態にあり、それによって脳の認知機能が麻痺していたのだろう。要は泥酔と同じ状態になっていたという所ではなかろうか。
ならば私は、何に酔っていたのだ。
思い当たるのは一つである。
───執着だ。
恋だと思っていた、何かの残骸。
抽匣の中に満ちていた、その煮凝りのような残骸に───中てられたのか。
そう考えた、その時。
頭の中に、声が反響した。
───けらけら。
声は突如現れ、私に嘲笑を浴びせた。
反射的に辺りを見回すが、誰も居ない。
そもそもこの明るさではもう、何が居たとしても視覚では判るまい。
嘲笑は止まない。
馬鹿はお前だ。まだ解らぬのか、と。
───けらけら、けらけら。
いつまで目を逸らしているのだ。
これ程まで判り易いものを前にしながら。
激しい動悸が、私を揺らす。
そうだ。
私が今───この手に握っているものは、何なのだ。
両手にずっと感じていた触覚。
熟考に明け暮れ、朦けていた感触。
私は恐る恐る、その原因に目を配る。
左手には、水を盈たした壜が。
右手には───
鉄錆のように赤黒い血糊に汚れた、目打ちが握られていた。
「うわ───」
考える間もなく、私は飛び退くように右手を離した。
目打ちは苔むした地表に落ちた。
柔らかな土と草に衝撃を吸われ、音も無く地面に触れる。
自ずと視線がそれを追う。
見れば、足下には数え切れぬほどの便箋が散らばっていた。
震えた手で書かれたような文字。
ぎこちなく強ばった止め撥ね払い。
激情に任せて書き殴ったような筆跡。
涙の滲んだように歪んだ墨痕。
いずれも皆、私のものであった。
その先に。
───やっと見つけたのか。
「え───」
力なく投げ出された長い四肢が、
丈の大きい白のシャツを朱涅く染めた胴体が、
襟元を蝶ネクタイのように滲ませる、抉れた喉仏が、
血の気を失い、土に溶け込むように変色した顔が、
蛞蝓の如く吊り上がった口元を、引き攣ったように硬直させて、
両眼のあるはずの位置に、漆黒の虚無を二つ空けて───
あの蜥蜴顔の男が、私を見上げていた。
穿たれた空洞から、濁黒い血液が溢れている。
それはまるで、涙の如く尾を引いて。
何とも鬼魅の悪い泣き笑いを浮かべたまま転がっている。
けらけら、けらけら。
けらけら、けらけら。
男の死に顔が、声を上げて哂った。
これは、何なのだ。
考えても考えても、整理がつかない。
不可解な情報が満ち満ちて、真っ白になる。
脳が膨張する。
頭蓋が罅割れる。
頭が破裂する。
駄目だ。
私は思わず、顳顬を両手で抑えて蹲った。
その瞬間、
けらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけら
けらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけら
けらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけら
けらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけら
けらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけら
けらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけら
けらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけら
けらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけら
けらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけら
けらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけら
けらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけら
けらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけら
けらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけら
けらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけら
けらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけら
けらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけら
けらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけら
けらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけら
けらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけれけらけらけらけらけらけら
けらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけら
哄笑が。
嫌厭が。
恋慕が。
飽和した頭に殺到する。
臨界を超えた脳髄は、そのまま弾けて霧散した。
──────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────陽が落ちた。
邪魔者は殺した。
厄介者も消えた。
やっと───ふたりきりになれた。
私は、地に散らばった手紙をひとつひとつ拾い上げた。
この一枚一枚総ての中に、あの子は居る。
だから、ちゃんと持っておかなくちゃ。
初めて会った記憶。
教室で待ち続けた記憶。
微笑みを垣間見た夏の記憶。
何があろうと止まぬ想いの記憶。
───これで全部だ。
どの手紙も、憶えている。
触れるだけで、書いた頃の心持ちが蘇るのだ。
脳味噌などに頼らずとも、それで十分だ。
最後に血塗れの千枚通しを拾い直す。
数分ほど前の苛立ちが湧き上がる。
そうだ。
せっかく彼女を、このお気に入りの場所に連れてきたのに。
あの不愉快な男がやって来て。
へらへらと微笑を貼りつけたまま、
───ああ、綺麗な夕焼けですねえ。
などと抜かした。
そして聞きもしない身の上話を、歌でも唄うように。
───今日で転校する。
───素晴らしい体験ができた。
───見るべきものは、全部見た。
そんな眩暈のするような譫言を、次々に吐き散らしたのだ。
鬱陶しい事この上無かった。
だからまず。
ひょろひょろと不快に吟じるその喉笛を、千枚通しで穿いてやった。
───ひゅるひゅる。
耳障りな歌は、滑稽な風音に変わった。
男は笑ったまま、首を押さえて蹲った。
そこへ続き。
がら空きになった蛇腹を、ざくりと刺した。
ざくり、ざくり、ざくり。
女の腕では心許ないから、念入りに何度か打ち込んだ。
男はそれでも笑みを崩さないまま、ひゅうひゅうと藻掻いた。
動作に震えが出始める。かくかくとして、死に際の虫のようである。
状況を理解していないのか、にやけたままで目を剥いている。
不愉快だ。
感触も、反応も、気色の悪い事この上無い。
だからもう、さっさと終わらせる事にした。
ちょうど良かったではないか。
見たいものは見られたのだろう。
ならばこれで死んでも悔いは無かろうに。
これ以上あの蜥蜴顔の蛞蝓のような愛想笑いに、私たち二人の逢瀬を邪魔されてなるものか。
止めに。
仰向けで悶える男の鳩尾を強かに蹴りつけ、動きを止め。
臙脂色の浮き出たシャツに跨り。
両の腕を、沓で躪るように押さえつけ。
此方を睨み続けるその眼へ。
朱染めになった錐の刃先を、振り下ろした。
ずぶり。ずぶり。
男は笑顔のままで、絶命した。
最期まで虫唾の走るような奴だ。
血や臓を漏らしながら、未だへらへらと泣き笑いを浮かべている。こうして転がっている様にすらも、吐き気を催す。
蜚蠊や椿象は居るだけで不快だが、それ故に殺して死骸が残るのも尚更気分が悪い。それと同じである。
服が汚らしい血で穢れてしまった。地面に置いていた手紙の束も、風でばらばらになっている。
幸いにも壜だけは、ポケットに入れていたために無事であった。
だが、慌てて確かめようとしたばかりに。
穿たれた男の眼窩の───その空虚に、壜の中を視られた。
その瞬間、私は一度封じられた。
───目を醒ませ、と。
脳の客観が、覚醒してしまったのだ。
つくづく厄介なものだ。
だが彼奴も今、あっさりと自壊した。
もう心の思いが解体される事は無い。
大変に清々する。
目打ちの血糊を軽く拭い、束ねた手紙に穴を開ける。
元はこのために持って来たのだ。
千切った糸をそこへ通し───記憶の緒は確と結ばれた。
これでもう散逸りはしない。
改めて、左手に握られた壜に目を向ける。
「貴女は誰にも渡さない」
この中に、生まれ変わったあの子の魂が在る。
私の目の前で一度生を終え、
私の目の前で再び生を享けた。
何も変わらぬ姿で。
今も、私の傍に居る。
これからも、きっと変わらない。
───然て。
この場所はもう、虫螻蛄の骸で穢れてしまった。
新しい場所を探さねば。
壜の蓋を開ける。
ちゃぷちゃぷと、水音と共にあの子の魂が揺れる。
誰かの目に触れるくらいならば。
私はなるべく大きく口を開けて壜を傾け───
彼女を、嚥み下した。
ごくり。
喉奥を、弾力のある塊が分け入り。
若干の苦しさを伴って、私の裡へと。
ぬるりと入り、私を満たした。
「ああ───」
声を上げる。
私は、悦楽の内に膨張した。
これが満足なのだと、瞭然と理解できた。
私は際限なく膨れ上がり、心も身体も飛び越えて───拡がってゆく。
私の内側が、むず痒く熱を持つ。
冷めゆく心地も感じない。
きっと私の夏は、もう終わらぬだろう。
汚れた服を脱ぎ捨てる。
素肌に、夜の風が触れる。
湿り気の無い、快い空気に包まれる。
嗚。
世界に私が、満ち満ちる。
私たちは、ひとつになった。
もう、永遠に欠けることは無い。
水橋譲花は───倩兮と笑った。