タフな経験のみが過去になる
ノスタルジックな気分に浸るとき, その思考の対象となる過去は, 往々にして辛い経験である. 楽をしていたり怠けていたり, ただはしゃいでいた経験は, その対象とはならない. というか記憶にない. もちろん, 友人や仲間と残した楽しい経験はその対象になっているような気がしないでもないが, それは少し勘違いで, 楽しい経験の裏に隠れている, 辛い経験を思い出しているに過ぎない. いつも疑問に思うが, 果たして私は, ただ欲して辛い経験をしたいと思っているのであろうか. それとも, 欲しい結果が先にあって, その過程がいつも辛い経験になっているのであろうか. 以下, 仮に前者を認めて議論をしてみよう.
私の記憶にある中で, 最古の辛い経験は, 野球の練習であった. 当時の私は心から練習に行きたくないと思っていた. しかし練習には行っていた. 休むと何かを失う気がして怖かった. 直近の辛い経験は, 大学院における研究活動である. これに関しても進学したら苦しい日々が来ることは容易に想像できていたはずであるが, 進学してしまった. 実際は想像よりも以上に辛かったのだが. 進学した理由は自分の中に数学を獲得するためである. この2つを例にして考察してみよう. 野球の練習は失いたくないという動機が故であり, 大学院進学は数学を獲得するという動機がゆえであったわけであるから, これらは一見すると正反対の感情のように見えるかもしれないが, 私の中では全く同じ感情に分類される. 実際, 元を正せばどちらもただ褒められたかっただけだ. 野球にしろ数学にしろ, 当時所属していた集団の中で少しだけ成績が良かったが故に調子に乗れたので調子に乗っていたのだ. 調子に乗っているうちに困難に出会い, 調子に乗りたいが故に苦しんでいたという具合である. 然るに私は困難を欲しているのではなくて快楽を欲しているということか. であれば次なる疑問として, 快楽が先か困難が先かが問題になる. すなわち,
「任意の快楽に対してある困難が存在する」なのか,
「任意の困難に対してある快楽が存在する」なのか.
前者(1. )は困難が快楽に依存して定まる状態で, 例えば強い快楽を得るためには強い困難が生じる, といった解釈が可能である. 一方後者(2. )は快楽が困難に依存して定まる状態で, 例えば, 困難が小さければそれによって得られる快楽も小さい, といった解釈ができる. さて, 上の話によれば褒められる, といった快楽が先にあり, のちに困難が生じているため, この場合前者が認められるように見える. しかし果たして本当に褒められるという経験が困難に先立っているのであろうか. 褒められるという体験よりも以前に困難な経験をしている可能性はないだろうか. 例えば生まれるという体験を考えれば, これはおそらく壮絶な困難であっただろう. もちろん自我や意識などない状態であるから, これを経験に含むかどうかは考慮すべきである. 仮に生誕それ自体を経験に含むのであれば, 私は, 生誕によって体験した困難から脱却すべく快楽を求め生きているということになる. 生誕それ自体を経験に含まないのであれば, 快楽を求め始めた理由は不明として, その結果として困難が生じているということになる.
ということで次に問題になるのは快楽を求め始めた理由と, 今もなお快楽を求め続けている理由である. 偉大な先人がこの根源的な欲求に理由を与えてきているわけであるが, それらを踏まえると, 快楽を求めることそれ自体を生きているということの公理とするのが正しい態度であると推測される.
以上のはちゃめちゃな議論によって, 私は, 以下を結論とする
: 私が困難な経験を好むようになった根源的な理由は, この世に生を受けたゆえに生じた快楽であり, 常に快楽が困難に先立っている状態で, この繰り返しは快楽を欲しているうち, すなわち, 生きているうちは決して止まることはない.
この結論の上で私はどのように生きていくべきなのであろうか. ここからの議論が本来すべき議論であることは重々承知であるが, 面倒になってしまったのでまた次の機会に書くこととする.
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