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差別上等のオメガバース

「女は身分をつくり、男は階級をつくる」

使い古されたこの言葉が、あらたにあてはまるものを身なれた表現の中に見つけた。
「ないものは見えない」とはよく言ったものだ。

「オメガバース」

BLのジャンルの一つにそんなものがある。
詳しくはpixivあたりを参照してくれればよいが、ざっくり言うと人間には男女の他にα、β、Ωの三種類があり、2×3種の人類が存在するというIF世界のBLだ。


(引用:https://dic.pixiv.net/a/%E3%82%AA%E3%83%A1%E3%82%AC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B9)

不思議なことにこのオメガバースの設定は別に男女でも使えると思うのだが私の観測範囲ではあまり見かけない。
私はこの設定は別に好きではないものの、というか女性向けは創作のための研究以外で好んで読まないのだが、これが差別的であるとXで誰かのポストを見るまで気づかなかった。

言われてみればそうだ。αは生まれつき知能が高く優れた人間、βは平均的、Ωは発情期を理由に蔑まれる最下層。
しかもその属性は生まれで決まってしまい、階級の様に努力や実力を示すことで成り上がれるわけでもない。

これが差別でなくてなんなのだ。
こんな設定を肯定的に書くことが差別の肯定でなくてなんなのだろう。

身分制のある作品を書くな、という意味だと早合点しないでもらいたい。
身分制を肯定しているのがダメだ、と言っている。


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身分制度が出てくる作品などごまんとある。
例えば「ベルセルク」なんかは作中はっきりと貴族と平民がいるし、手塚治虫「ブッダ」は実際の古代インドをモデルにしているためカースト制度が存在している。

しかし、両者に共通しているのはどちらも身分制度を否定的に書いている点だ。
ベルセルクで作中第二の主人公にあたるグリフィスはもと平民の生まれであり、実力で貴族の地位を勝ち取る。

貴族より美青年な元平民

そして何よりグリフィス率いる「鷹の団」は浮浪児~貴族まで入団者の身分を問わなかった。

つまり、身分を問わない側が善、問う側や貴族が悪、(まで行かなくともダサいもの)として描かれていく。
作中出てくる貴族のビジュアルはこんなんだ。

白馬の王子様はどこへやら

そして最初から貴族生まれの人間がそのままストレートに成功することはない。覚えているだろうか?大貴族のご令嬢ファルネーゼがガッツに頭を下げ、教えを乞うたシーンを。魔女っ子シールケを先生とし、弟子入りしたことを。

オメガバースの世界観を当然のものとするならこれはおかしい。
なぜ貴族のご令嬢などというαの女性が得体のしれない黒の剣士やら怪しげな魔法使いやらに頭を下げて弟子などという下につくのか。
しかも彼女は一度はガッツを敵とみなしたけじめと称して髪まで落とす。

α女性が得体のしれない男に頭を下げる

ガッツは強いオスだからαだというのなら、シールケはどうだろう。
ベルセルクの世界では魔女は「そんなもんいるわけない」とハナから存在を否定しており、なによりファルネーゼもかつてはゴリゴリの否定派だった。
その彼女が今や自分よりずっと年下の、一般人からは蔑まれる立場の少女に教えを乞い、先生と呼ぶ。

何より決定的なのが、何も分からない幼児退行したキャスカをファルネーゼが命を懸けて守ったこのシーン。

弱者を命がけで守る貴族のご令嬢

キャスカが元凄腕剣士であることはガッツと読者しか知らず、ファルネーゼにとっては最初から「何もできない幼児のような女性」だ。
この時点でキャスカはΩと言っても良いだろう。

これまたオメガバースの基準から言えば「大貴族の御令嬢α女性が精神に異常をきたした何の役にも立たないΩ女性を守る」というわけの分からないシーンである。


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「ブッダ」の方は序盤の主人公をチャプラと言う奴隷出身の少年が務めるが、彼も身分を隠して成りあがる。

彼にとって身分制度は敵である

ちなみに「ブッダ」内の裕福な商人はこんなビジュアルだ。

奴隷の方が美少年

昔ながらのフィクションによくいる感じのでっぷり太ったオジサンで、これも「金持ち=性格が悪い、傲慢」のイメージにぴったり。
ちなみに「ベルセルク」も「ブッダ」も奴隷や平民の方が貴族や金持ちよりビジュアルが良い。

そして主人公がブッダその人へ移ってからは王子生まれのブッダが苦行を経て悟りを開くまでの試行錯誤や紆余曲折が展開される。

不可触選民と対等に口をきき、世間を学ぶ王子


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フィクションの作品で求められる身分制度像というのは概してこういう「打倒されるべき巨悪」「否定されるべき間違った考え」として描かれる。
だからこそ「スラム生まれの主人公が裸一貫成り上がる」がウケるのだ。

そして元から高貴な身分の者は「人として大切な何かを下の身分から学ぶ元世間知らず」になる。

身分の高いものと低いものが教え合い、学び合い、助け合い成長する姿が「ベルセルク」と「ブッダ」には面白い程共通して描かれる。

そう、身分の高さや低さですべてが決まるのではなく、状況によってどちらが優位になるのかが流動的なのだ。
だから「ベルセルク」では戦闘では何の役にも立たない大貴族の御令嬢がコネを使って船一隻用意したりする。
「ブッダ」では普段蔑まれる不可触選民の少年が金持ち商人を出し抜き、奴隷を救う術を持ち合わせていたりする。

私はそれがなにより面白いと思う。身分制度に真っ向から立ち向かうのもカッコいいが、自身の行動により「そんなもん意味なくね?どっちが偉いとか別になくね?」と示し、実際に人を変え、救ってしまう。
いつの間にか身分制度とかどっちが偉いとか気づいたらなくなっていた、という結末。

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だがこんな声もあるだろう。
「言うても殺人とかレイプとかそういう悪いものを肯定的に書く露悪作品だってあるじゃん」

そりゃそうだ。
「少子化対策のためにレイプが合法になった世界」とか「幼児の松果体から採取したエキスを飲むと超人パワーが得られる世界」とか別に書いても良い。
だが、それは「露悪である」という前提がある。
だからこそそんな作品は一般的に目に入らない。本屋に置けない。
こういう世界が肯定されたまま終わるストーリーを万人向けには出せない。

オメガバースの恐ろしい点はそれなのだ。
悪の自覚がない。差別の肯定への無自覚さ。
あからさまな身分差別を愛という言葉でごまかし描くことに、私は醜悪さとおぞましさを感じる。
そして見る作品見る作品、皆オメガバースが存在する中で幸せな恋愛をするという「身分差別が当たり前に存在する世界で幸せになる」ストーリーばかりで「Ω生まれの主人公がオメガバースという差別をなくすべく、αやベータを従えて差別と闘う」とか「α生まれのエリートが特権を投げうって差別是正の革命の夢に身を投じる」とか「オメガバースを打倒せ!」的なストーリーを全く見かけない。

私はオメガバースは嫌いだが別になくせとは言わない。
ただオメガバースの創作者や愛好者は「自分たちは身分差別を肯定した作品を好む差別主義者である」という悪さへの自覚を持ってもらいたい。

人間だれしも完全に善良な人間などいないのだから、せめてその「悪さ」を自覚をしてもらいたい。


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