「終わった恋」の片付け方。
そのとき私はあんまりよくない恋を終わらせたところで、なんだかなあって感じで三茶のカフェでお茶していた。6月だというのに、外は季節外れな17度で、私は先週トレンチコートをクリーニングに出してしまったことを後悔していた。
その時いっしょにいた俳優さんは(例の嫌なイケメン俳優とも繋がりがあり)、なんとなくその事情を知っていたので
「残念だね」
と言ってくれた。彼は優しい人で、誰に対してもフェアだった。
「もう思い出したくもない。あんな人を好きになるんじゃなかったです」
と、私がやさぐれて言った時、彼はきちんと言葉を選びつつ、こう聞いた。
「彼のことを好きになったことさえも、君は否定するの? 好きにならなければよかったと思う?」
私はちょっと考えて、記憶を整理した。
その人のことを好きになって、いろんなことを努力したのに、酷い形で裏切られたこと。あらゆることが悲しい記憶に変わってしまったこと。そのせいで彼にまつわるすべてのことにもう関われなくなってしまったこと。
「…好きにならなければよかった、と思います今は」
私がテーブルのキャラメルマキアートで手を温めながら言うと、彼は
「そうか」
と言って、それから少し黙った。
「…俺はね」
ちいさく照れ笑いしてから、彼はこう続けた。
「君が観にきてくれた舞台があったでしょう。あれで共演した女優さんに恋をしたんだ」
「え、あのすごい美人の」
「いい子で、いっしょにごはん行ったりして楽しかった」
「だからミュージカルを観に行ったりしてたんですか!」
「そうそう」
その舞台はいろんなタイプの役者さんが集まっていて、その中の一人がミュージカル女優だったのだ。そんな人と共演するのは彼にとって初めてだったけれど、舞台の上で彼らはとても素敵に見えた。舞台を終えたあとも交流があったのは知らなかったが、そういえば舞台鑑賞したことを彼が嬉しそうにブログに書いていたのを覚えている。あれは彼女のステージだったのか。
「俺は彼女を好きになって、付き合いと思った。彼女も俺のことを好きになってくれた。でもね、なにがあったと思う? 彼女は誰とも付き合えない人だったんだよ」
「え」
「…昔の男にずっと暴力をふるわれてたんだって」
私はそこで絶句した。なんと相槌をうっていいのか分からなかった。
「だからどうしても怖くて無理だって。呪いみたいなもんだよね。俺のことを好きでも、恋人同士にはなれないって言われた。俺は待つつもりでいたけど」
「そうですか…」
私はその女優さんの顔を思い浮かべた。綺麗で溌剌としていて、とてもそんな闇を抱えた人には見えなかった。
「だからこの恋は終わった。悲しかった。でも俺は彼女に恋しなければよかったとは思わない。彼女を通してしか知れなかったことがたくさんある。彼女によって大きく変わった自分がいる。彼女に恋することでしか、この体験は得られなかった。言ってる意味、分かる?」
「分かります」
「悲しいことより、幸せだった記憶の方が多いように思う。俺の場合はね。だから君にもすべてを否定してほしくはない」
彼はチャイをすすりながらそう言った。ゆるやかなBGMが流れる中で、私は彼の言葉をゆっくり噛みしめていた。
「俺が守りたかったけどね、あの子を」
彼はきっといろんな手を尽くしただろう。それでもうまくいかなった。お互い悲しかったに違いない。でもそんな終わりがあってもなお、その恋をやさしく抱きしめてる彼は美しかった。この夜のことは、たいせつな記憶として私の心に残っている。
恋愛に限らず、心痛い記憶というのはある。うまくいかなかった人間関係やプロジェクト、あらゆる挑戦と挫折。それを憎み続けることもできるし、その逆も、もしかしたらできるかもしれない。だって時間は進むのだし、それによって気持ちも移り変わるのだから。その「編集」次第で、苦しみもいつかしあわせな記憶にかわる。そう本人が望むかぎり。
私はバカな直情型でそれをよく忘れそうになるから、「好きになったこと」を後悔しそうになるたびに彼の言葉を思い出すようにしている。
好きになることでしか、知れなかったことがあるんだ。だから否定しちゃいけない。悲しさもふくめて愛しく。過ちもふくめて愛しく。だって人間はなにかを好きになることでしか劇的に変われないもの。私もそうやって変わってきたんだもの。そうでしょう?
叶わなかった恋さえ、その人の記念碑だ。彼の美しい思い出を、私は心から肯定したい。そして世の中のあらゆる悲しい恋の終わりも同じく。どれだけ泣いても、そこからまた何かが新しく生まれることを願って。