「花屋日記」41. 祈りの形をした花たち。
人は何万年も前から、死者に対して花を手向けてきたと言われている。それには宗教的・民族的な意味もあれば、「再生の象徴」としてだとか、遺体の腐敗を防ぐ薬効のためだったとか、いろんな謂れがあるらしい。なんであれ死者を悼む気持ちを表すのにこれだけ適したものはないと思うし、美しい花に囲まれた状態で故人を送り出したいというのは、残された人たちにとっての最後の愛情表現なんだと思う。
そういえば臨死体験をした私の祖父も「あちらでは、見たことのないような美しい花畑が広がっていた」と私に教えてくれた。魂がいつか行きつく先に、究極の花畑が待っている。もしかしたら私たちが花にどこか神聖なものを感じるのも、そういった理由からなのだろうか? 私はそのことを、花屋で働き始めてから幾度も考えさせられた。
店には、目を泣きはらした女性がやって来て
「お供えの花がほしいんです」
とおっしゃることもあった。
「枕花でございますか?」
「あの、今朝亡くなって。箱の中に入れてあげようと思って。チワワなんですけど…」
そう言ってスマホの中の写真を見せてくださったりもする。私たちはそういう時、できるだけ優しい色のブーケを組んだ。亡くなったのが人であれペットであれ、悲しみは変わらない。せめてその方のお気持ちを精一杯受け止めて、
「とても可愛がっておられたんですね。寂しくなりますね」
と申し上げるしかなかった。その悲しみに、どんな慰めも届かないのは承知の上で。
お供え用のブーケをお求めになる常連の女性は、相変わらず店に毎週来てくださっていた。花を絶対に切らさないことが彼女の想いの強さを物語っているようで、私はなんだか胸がしめつけられた。この方はいったい誰を亡くされたんだろう? それはいつのことで、どんな最期だったんだろう?
「こんばんは。雨、降らないですね、降るって聞いてたのに」
「そうですね。お盆は忙しいですか?」
「まあ、こんな感じです」
私がそう言って肩をすくめると、彼女はふふ、と小さく笑った。
私たちの会話は、いつもそんな他愛もない世間話だ。でもそれでよかった。私はただの「花屋のお姉さん」で、この方の身内でも友達でもない。なんの事情も知らないし、その距離だからこそ、支えられる部分もあるかもしれないと思った。
彼女が毎週選ばれる、ちいさなブーケ。それを手向けるお相手は、きっと「この人なしにはとても生きていけない」と思えるくらい、大切な方だったのだろう。
私もスガさんを失ってから、その後の人生が変わってしまった。今でもたくさんの後悔がある。
それでも心のどこかで、立ち上がれないような喪失感をおぼえるほど誰かを大切に思えることが、一つの幸福な体験であることも分かっていた。深く深く悲しめるということは、それだけ愛していたという証拠なのだから。
「もうこの世界にいない人のことを、そんなにも愛せる貴方は素晴らしい」
さまざまな事情を抱えてお弔いの花を購入されるお客様たちに対して、私はそんな風にも思う。
今日も世界のどこかで、誰かが誰かを亡くしている。花は、いつだってその悲しみを相手へと繋ぎ、優しく花弁を広げた。どこまでも純粋に、祈りのように美しく。
供花の尊さは、なにものにも代え難い。そのことは、私がこの仕事に就いて学んだ大事なことの一つだ。