98歳堅物のひい爺ちゃんが変わった話
はじめに
私には強烈なひいじいちゃんがいました。どんな方かというと、どれだけみんながおじいちゃんに尽くしても「ありがとう」「ごめんなさい」が言えない。長年連れ添った妻に対しても「死ね」などと、怒ると暴力&暴言など誰にも手につけられない。しまいには、家族の話には耳も貸さない、信用もしない、騙されている不動産会社の職員の話をなぜか信じる。そんなひいおじいちゃんも今は天国にいますが、そんなひいじいちゃんも悪い人ではなく優しい面もたくさんありました。私は小さい時からよくひいじいちゃんの家に通い可愛がってもらった記憶があります。そんなひいじいちゃんとの間に忘れられない話があります。
※戦争についての生々しい描写がありますので苦手な方はご遠慮ください。
堅物だったひい爺ちゃんが変わった話
ひい爺ちゃんの人格形成
ひい爺ちゃんは大正11年7月11日上月隈生まれ。第二次世界大戦戦争経験者で海軍に勤めていた。強烈な性格はどのように培われたのか。私は戦争の経験が大いにあると思った。ひいじいちゃんはお酒を飲むとよく昔のことについて語ってくれた。戦争中には食べるものもなくたくさんいた兄弟は飢餓により亡くなったこと。当時食料は貴重なもので、指揮官によその家から食料を奪うように命令され、見つかると袋叩きにされ殴られ蹴られる。同様に指揮官の命令に背いたときも同様の扱いを受け人間扱いはしてもらえなかったという。おじいちゃんにとって1番のトラウマになったであろう話がある。
1945年4月7日 戦艦大和が撃沈される
1945年(昭和20)4月7日、日本海軍の戦艦大和が、多数の米軍艦載機による攻撃を受けて、鹿児島県の坊岬沖で撃沈されました。その時戦艦大和の隣を並行していたのが、私のひいおじいちゃんが乗っていた駆逐艦の涼月だ。途中、魚雷に当たって損傷し一回は広島県の呉に帰った。その後、ひいおじいちゃんが乗っている涼月に爆弾の直撃弾が艦橋の前の大砲を積んでる所に直撃。への字型に折れ後ろ向きに走行しながら佐世保の相浦に帰船し九死に一生をえたという。その時戦艦大和に着いてきていたほとんどの船が沈んみ、戦死者は3000人にも及んだらしい。ひいおじいちゃんは爆弾が直撃した時のことをこう語っていた。
現在の人には、想像もできないかなりショッキングな出来事だったのだろう。よくこの出来事を語っていた。戦争での出来事がひいおじいちゃんの人格に強く影響を与えたと思います。
おじいちゃんの性格
おじいちゃんは私をよく公園に連れていってくれたり、美味しい中華料理店に連れていってくれた際には「私世界一幸せ〜」と幸せそうな私の話をよほど嬉しかったのか、酔うたびにしていたり。基本優しいのだが、気分屋かつ暴力的だったため、私もよく躾と称しよく暴言や暴力を受けた。おじいちゃんは家族で集まるのが何より好きで、正月には私の祖母がよく朝から起きては手の込んだ豪華なおせちを作ったり客人をもてなしたり。全てはおじいちゃんの為に家族全員動いていたが、家族が動いて当たり前だという考えがあるためどれだけ家族がひいおじいちゃんに尽くしても「ありがとう」と言われることもなく「ごめんね」など到底言われることはありませんでした。
首吊って死んだ方がマシ
そんなおじいちゃんはマンションを経営しており某不動産会社に騙され、マンションも財産も全てを失いかけていた時もうひいおじいちゃんは98歳でした。私が会いにいくたび心から病を呼ぶように身体は痩せ細っていき、いつも「首吊って死んだ方がマシだ」と嘆いていました。そんなおじいちゃんを見るに耐えかねた私は、藁にもすがる思いでお坊さんにおじいちゃんが少しでも楽になるようにお経をあげてもらいにいきました。その時お坊さんにひいおじいちゃんの説明をして、どうすればおじいちゃんは楽になるのか質問すると、こんな答えが返ってきました。
この言葉をひいおじいちゃんに伝えなければ!と思った私はこんな手紙をひいおじいちゃんに書いて渡しました。
この手紙を渡し、後日ひいおじいちゃんに会うと別人のようになっていました。私に対しては「あの手紙をみると涙が出てくる、ありがとう」と言ってくれ、周りの人に対しても何かあったら「ありがとう」が言えるようになったんです。私の祖母も「おじいちゃんから初めてありがとうって言ってもらった!」「あのおじいちゃんが変わった!」と喜んでました。
この出来事を経験して、人ってなかなか変われない生き物だと思っていたし、好きな人のことを変えたいと思った時とかは、怒って「変わってよ!」なんて言ったりしていましたが人を変えるのは「怒り」ではなく「愛」だけなんだと思い知りました。
最後に
ひいおじいちゃんのことを書いていると、ひいおじいちゃんとの思い出が蘇ってきます…ひいおじいちゃん家まで駅からはかなり距離がある為、いつも自転車で幼い私を迎えに来てくれては、帰りも送ってくれて帰り際に500円玉をいつも渡してくれるんです。口が上手じゃないからまた私が来れるように渡してくれていたんだなぁと思います。電車が発車するまでいつも駅のホームで待ってくれていました。発車しておじいちゃんを見つけ私が手をふると無言で頷いていたおじいちゃんがもうこの世にいないことが寂しいです。
おじいちゃんは悪い面もあったけど、不器用だっただけでとても愛のある人でした。沢山いる孫の中から私を特に可愛がってくれていた理由はおじいちゃんは保護司という仕事をやっていて現役の頃はもっと怖かったらしく、誰も逆らう人がいなかったらしいですが、私が初めて逆らってきたらしく、こいつは度胸があるから、将来は豊臣秀吉になるか石川五右衛門になるかどっちかだ。といつも笑いながらいつも言っていました。いつ死んでもおかしくなかった戦争の中、必死に生き抜いてくれて繋いでくれたこの命無駄にしないように生きていこうと思います。ひいおじいちゃん、その他の戦争経験者の皆様命を繋いでくれてありがとうございます。次は安らかな暖かい人生が待っていますように。
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