『ラーメン』という言葉を知っているか
ラーメンという言葉を知っているか。
その意味を、辞書で引いたことがあるか。
私はある。ドイツ語で『額縁』。
建築構造の1つで、長方形に組まれた用材を強化すること。
どんな雨風にも負けないように、内面を守るため外面を固める。
建物も、私だってラーメン構造で生きている。
そうしないと壊れちゃうから。
私が最初に物語を書いたのは4歳の時。
大好きなおばあちゃんが亡くなって、
お母さんに「何かお棺に入れたら?」と言われた。
何をどう書けばいいかわからない、
でもおばあちゃんはいつも私の話を楽しそうに聞いてくれたから。
好きなことを思いっきり描いてみよう。そう思って絵本にした。
寂しがり屋のネズミが友達を探してデパートを歩き回るストーリー。
おばあちゃん大好き、また会いたい、お話したい。
苦しくて寂しくて、泣きながら一生懸命書いた。
ありったけの想いを込めた言葉は、おばあちゃんと一緒に天に昇った。
文章なら感情をぶつけても構わないんだ、
どんな気持ちを表現しても自由なんだ、
そう思ってホッとしたのをよく覚えている。
キャプテン翼にとってのボールのように、
私にとっては文章が唯一の友達だった。 文章さえあれば強くなれる。
言葉を綴る瞬間だけは素直になれる。
そうして気持ちを奮い立たせて、どうにか自分を保っていた。
ときには、それだけでは守りきれないほどの厳しい現実が迫ってきた。
書いても書いても書いても痛くて苦しい。全然助けてくれないじゃないか。 それでも、文章を見放すことは出来なかった。
文章にぶつけた感情こそが、私のラーメン構造の内面だったからだ。
そもそも、私はどうして文章に縋るようになったのだろう。
理由は簡単だった。
小さい頃から自分の気持ちを話すのが苦手だったからだ。
どうやったってこの複雑な感情を言葉で表現できない。
人に正しく思いを伝えるには、語彙も時間も足りない。
何より、否定されることが怖かった。
できる限り、自分の話はしないようにしようと思い始める。
拙い言葉で本音を言ったところでどうなる?弱さを晒して利益はあるか?
他人に期待などしていない。
本当の意味で私を理解することなど出来ない。
それなら、苦しみも悲しみも全部隠しておこう。
幼い頃からそんな挙動を繰り返した結果、私は忍者のように隠蔽の上手い、 かいけつゾロリ並みの嘘付きになった。
すっかり嘘付きに慣れてくると、今度はそれが全身を侵食し始めた。
自分で作り上げたもうひとりの私が勝手に歩いていく。
もはやどれが本当の私かわからなくなったが、それでも構わなかった。
泣かないで生きていくために自信と強さが欲しかった。
口先は勝手によく回り、思ってもいない言葉を吐く。
嘘付きで外面を飾っただけで、そこそこ生きていけた。
私のことなんて何も知らないくせにと、他者をせせら笑ったりもした。
そうして気持ちを奮い立たせて、どうにか守ってきたのだ。
もちろん、自分の弱さをフォローすればするほど、
嘘はどんどん強固になっていく。
偽りの自分こそが、私のラーメン構造の外面だった。
私の作ったラーメン構造は完璧だった。
外面は明るくて面白くて個性的だった。
内面を文章にぶつけることでバランスも保たれていた。
自分を隠して、これからも生きていくつもりだった。
ところが、完璧に組み上げたはずの「形」は、意外な出来事によって、
偽装だらけでスカスカの欠陥構造であることがバレてしまう。
その時期、私は演劇のレッスンに通っていた。
偽りの自分を演じることに慣れていた私は、演技にもそこそこ自信があった。 別人になるなんて容易だ、普段通りみんなを騙すだけと思っていた。 その日のレッスンテーマは「相手を笑わせること」
ひとりづつ教室に入ってきて20人近くいる仲間を笑わせる。
こんなに得意なことはない、私はトップバッタ― に名乗りを上げた。
ハイテンションに飛び出して、
大声で笑いながら仲間たちをひとりひとり凝視していく。
誰も笑わなかったが構わなかった。誰にも期待していなかったからだ。
私のことなどわかりっこない。理解などできるわけがない。
怒りすらこみ上げて、内心では泣きそうになっていた。
それでも笑い続けることをやめられなかった。
私の演技が終わったあと、先生は言った。
「あなたのことがとても心配。あなたは自分に嘘を付いているから」
瞬時には理解が出来なかった。
当時の私は、自分が自分に嘘を付いている自覚がなかったのだ。
内面を守るため外面を固めすぎていることに気付いていなかった。
「泣きたければ泣けばいい。苦しければ苦しいと叫べばいい」
そう言われても私には難しかった。
むしろ1番苦手とすることだった。 私は誰も信用していなかった。
自分の感情を吐き出すことなど不可能だった。
あとでわかったことだが、そのレッスンは俗にいう
「感情開放」という訓練だった。
気持ちを素直に出すことで、自然体な自分を見つめ直す。
それこそが演技の第一歩になるらしい。
実際、私のあとにレッスンを受けた仲間たちは、
みんな泣いたり叫んだり怒ったりして途中で演技をやめていった。
最後まで笑い続けたのは、自分を偽ったままの私だけだった。
あのレッスンで、私の「形」は内面も外面も白日のもとに晒された。
作り上げた自分は一度ぶっ壊れてしまった。
あれから数年後。 正直に言うと、相変わらず私は外面を作っている。
脆すぎる気持ちを隠しながら、いつも元気に明るく振る舞っている。
どうせ伝わらないから自分の話もあんまりしない。
ちょっと変わった部分と言えば、
そんな私も面白いかもと思い始めたことだろうか。
自信のなさも他者への恐れも全部抱えて泣きながら歩いていくしかない。
自分を偽ってでも面の皮厚く生きるほうが好きだ。
こうやって、死ぬまでギラギラしていたいと思っている。
ちなみに、私の内面である文章も、相変わらず唯一の友達でいてくれる。
技術やら経験やらを得てしまったせいで
小手先の嘘を付こうとすることもあるが、
基本的には私の感情を素直に表現してくれる。
だから苦しかったんだ、だから幸せだったんだ、だから文章が好きなんだ、 覆い隠した本音がポロポロと溢れて驚かされることばかり。
新しいアイデアもいっぱいくれる。
文章を仕事にしてからは経済面でも支えてくれているので、
引き続きお願いしたいところである。
メジャー志向じゃないし複雑で伝わりにくいけど、
自分が面白いと思うことを全力でやり続ける。
誰かと比較したってどうしようもない。
これが、私なりのラーメン構造。 私だけの「形」だ。