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『黒猫ストリップ』第1話を知っているか

《あらすじ》

大正時代、東京• 浅草の街に、 寄席、見世物小屋、映写場、ストリップショウなどが軒を連ねる大通りがあった。 その一角に和蘭(オランダ)座という古い寄席小屋がある。 腕利きの芸人たちが出演するその小屋に、ある日、1人の美しい少女が迷い込んだ。 ひょんなことから、その子の世話をすることになったのは、 当代随一と名高い噺家「竜胆(りんどう)」とその愛猫の「シロ」。 2人と1匹は心を通わせ、擬似家族のような絆が生まれるが、 若き奇術師「紅葉(もみじ)」の登場で、その関係も徐々に変化していく。 そんな時、浅草の街を揺るがす大事件が起きる! 古き良き時代を背景に、欲望に塗れた芸人たちと幼い少女の交流を描くミステリーファンタジー。

《登場人物》

●少女
今作の主人公。混血児のような目立つ容姿。過去の記憶を失っている。 寄席小屋「和蘭座」で保護され、成り行きで竜胆の家に住まうことになる。 のちに、紅葉と恋に落ちる。

●竜胆( りんどう)
稀代の芸人として名を轟かす、異才の噺家(落語家)。 口が達者で酒好き、とにかく女癖が悪い。紫色の羽織がトレードマーク。 少女と同居して、保護者役を勤めることになる。

●シロ(しろ)
でっぷりと太ったオスの黒猫。竜胆の飼い猫だが、主人には懐いていない。 餌の時間と女性が何より大好き。愛想が悪い。

●紅葉(もみじ)
有名な芸事一家の生まれの奇術師( マジシャン) 。14歳ほどの色白の少年。 活動写真(映画)狂いで雑学に詳しい。のちに少女と恋仲になる。

●陽炎( かげろう)
和蘭座の支配人。芸人たちの雇い主でもある。 いつもカンカン帽を被って、洒落た格好をしている。 街では名の知れた名士で、物腰は穏やかだが眼光は鋭い。

●若草( わかくさ)
霊感を持っている、風変わりな漫才師。 のんびりとした性格で、他の芸人たちによくツッコまれている。 少女を可愛がる心優しい男。竜胆とは古い馴染み。

●堂前( どうまえ)
和蘭座に所属する、寡黙な腹話術士。 いつも黒い頭巾を被っていて素顔を見せない。 周囲の人間とは、狐の人形を使って会話をする。実は照れ屋らしい。

●宵月(よいづき)
ストリップ劇場「三区座」の主人。 拠り所のない女性たちを拾っては一流の芸を仕込んで、踊り子たちに慕われている。 憂いを帯びた表情が魅力的。高利貸しも営んでいる。

●瀬下( せした)
街の平和を守る警察官。真面目すぎる性格ゆえ、 芸人たちからは「おすべり殿」とあだ名で呼ばれてバカにされている。 怒りの沸点が低く、部下たちにも呆れられている。

●ナオミ(なおみ)
ストリップ劇場「三区座」のトップ踊り子。 豊満な体に明るく可愛らしい笑顔で人気を博している。 竜胆にほのかな恋心を寄せている。

《続話リンク》


プロローグ

さあさあ、お立会い。世にも珍しき、活動写真の時間だよ。 今宵の作品は【黒猫、シロの告白】。 主人公が猫だってんだから面白いじゃないか。 シロには若い男の飼い主がいてさ。これが腕はピカイチな寄席の芸人なんだが、 いかんせん問題事ばかり起こす厄介なヤツでね。そんな一人と、黒猫一匹。つい でに、その男の良い女と仲間たちまで揃っちまって、そりゃテンヤワンヤの大騒ぎ大絵巻ってわけさね。 え?任侠モノか?切った張ったかだって? いんや、そりゃあもう時代遅れってもんだよ、お客さん。 【黒猫、シロの告白】は、一等流行の恋愛浪漫(ラブロマンス)ってヤツでさ。 女子供が喜ぶ甘っちょろい色恋じゃねえ。若けぇ時分のあの青臭せぇ熱い想い まで呼び覚ましてくれる一世一代、男の夢噺さね。 へへ、どうだい、ちっとは観る気になったかい? やあ、そうこなくっちゃな!奥へ奥へずずいっとどうぞ。 お代は見てのお帰り。【黒猫、シロの告白】、まもなく開演と相成ります。

今日は休日だったか。いや、それとも平日だっただろうか。 そんなことは関係がない。時の感覚や、暦の感覚、何なら我が生や、現実でのあ れやこれやすら忘れてしまえるほどに、この街は、ただ一途に『欲』を満たすこ とだけを求める場所であった。眠りたい者は、路上であろうと大の字で寝そべっ て大いびきをかいたし、腹の減った者はやれ鍋だやれクジラだといくつも店を ハシゴしては大いにその胃袋を満たす。またある者は、世の儚さを嘆きに訪れ、 日々の鬱憤の溜まった者は誰かれ構わず喧嘩を仕掛けた。そんな言わば、無法街 とも言えるこの場所に、最もおあつらえ向きな欲求が、『笑う欲』と『色欲』で あることは、この街の内外、誰もが知る事実だったろう。 実際、この街にはとにかく数多の寄席、見世物小屋、映写場、ストリップショウ、 娼館などが軒を連ねていた。欲の数だけ人間は存在するとは誰の名言だったか。 堅気から明らかな裏の者まで、この街の周囲には魑魅魍魎が蔓延るように人が 集まり、彼らは等しく、此処で糧を得て、住処を得て、客たちの欲を満たしてい た。『欲』を求める街で『欲』を売る。外の者は彼らを畏敬の念を込めて『芸人』 と呼んだ。

帝都モダン

そんなこの街の中心には、一等広く大きくのびた通りがあった。古い芸人の名前 が付いたその道は、昼夜問わずたくさんの人間や車が行き交う。高そうな革靴か らおしゃまなハイヒィルまで、十色の足元が流れる中を、ひとつの黒い塊がぬっ そりとゆるい歩調で進んでいた。よく見ると、それは時々大きな体を震わせ人間 の足元にぶつかっては、酷く迷惑そうに顔を顰めている。自分が邪魔になるよう な体形の癖に、さも周りが悪いようにふてぶてしくある。「まるで太巻きが歩い ているようだ」とは、この黒い巨体の飼い主が良くこぼす、お決まり文句であっ た。砂利道を忙し気に進む人々を嘲るように、その黒いもの、もとい一匹の大き な黒猫は、街の中央にある寄席小屋まで、えっちらおっちら歩いて行った。

「よお、シロじゃねえか。旦那に陣中見舞いか?」

賑やかなお囃子に、夜の部が始まるとの呼び込みの大きな声。わき目もふらず進 んでいた黒猫が顔をあげると、そこには、寄席の前でキセルを燻らすひとりの男 がいた。否、少年と言った方が早いだろうか。あどけなさの残るその横顔には、 紫煙の渦はまだ似合わない様に見える。市松柄の粋な流しの裾からは、生っ白 (ちろ)い手足がひらりと伸びていて、その年頃特有の妙な艶を感じさせた。少 年は咥えたキセルをゆらゆらと唇の先で泳がせて、猫をあやそうと試みる。しか し不愛想なソレがそう簡単に釣れるはずもなし。猫騙しなど笑止千万と言った 風情で、淡々と寄席の入口に向かってしまった。少年はやれやれと、吐いた煙を 夕闇に溶かす。

「まあ待てよ。今日はいくら稼いできたんだ?」

三口も吸えば灰になるその燃えカスをトントンと地面にこぼすと、少年は耳に キセルを挟む込む。そして、とうせんぼするようにドッカと猫の前に腰を落とし た。邪魔者の到来に黒猫は鬱陶しそうに身を捩る。そんな態度は知らんぷりで、 少年は黒猫の首元に手を伸ばした。そこに巻かれていたのは、紗の小さな袋。ジ ャラジャラと片手で中身を空けると、いくつかの硬貨と紙幣、そして文らしき紙 切れが転がり出た。

「ひぃ、ふぅ、み… なんてこった。こりゃ随分と大店が着いたらしいな。飲みに 行くんなら、お猪口一杯でもご相伴に預かれそうだ」

見た目の歳相応に、少年がイタズラっぽくニヤッとして見せる。が、猫は澄まし た顔で、今度こそその腕からの脱出を図ろうと後ろ脚をバタバタと暴れさせて いた。その愛らしい姿に、少年はさらに笑みを濃くする。猫をひょいっと抱き上 げ胸元に閉じ込めると、ソレはほんの少しだけ大人しくなった。少年は満足げに 頷くと、人をかき分けかき分け、寄席の入口の暖簾の奥に消えていった。

ずずいと勝手知ったる我が家のように、少年は寄席の深く深くへ進んでいく。 「おはようさんです」「おはようさん」すれ違う者たちはみな一様に忙しく走り 回り、短く挨拶を交わしていく。そのそれぞれにぺこりと会釈をされるのを、少 年は一々律儀に片手をあげて答えていた。黒猫がこうして寄席の中を移動する ことも日常茶飯事のようで、おまけとばかりに猫に目くばせしては、会釈の代わ りとする者もいる。少年は、時々猫の大きな体がずり落ちそうになるのを寸でで 捕えながら、木造のギシギシ言う暗い廊下を器用にすり抜け、歩いて行った。や がて、暗がりの奥に、ひとつだけ赤々と電灯の明かりが漏れる部屋が見えてきた。

「竜胆の旦那、シロ様のお戻りだぜ」

カラカラ… と小気味良い音を立てて、引き戸が開かれる。少年は、その狭い隙間 からいつものようにひょいっと顔を出した。平素なら、この巨大な黒猫の飼い主 である紫色の羽織の男が『おお、俺の聡い相棒か。今日はどこ行ってメス引っ掛けてきた?』と軽い調子で聞きながら、少年の腕から猫を抱き上げるのだが。今 日はどうしたことか、かの人はおらず。少年の視線の先、決して広くはない8畳 ほどの楽屋の中央には3人の男がいた。何かを取り囲むように集まった彼らも また、この寄席で常連となっているこの街の芸人たちであったが、普段の楽屋の 賑やかで煩い調子とは違い、皆一様に言葉少なであった。

「なんだ?穏やかじゃねえ様子だな」
「紅葉、良いところへ来たな。近こう寄れ」

声を掛けたのは、高級そうな背広とカンカン帽をかぶった、石膏の像のように整 った容姿の美しい男だった。左右非対称の少し長い髪が切れ長の瞳をより妖し く見せていて、ただの洒落者ではないと分かる。口元には穏やかに笑みを湛え、 親し気に少年を手招いた。

「近こう寄れって、華族様じゃねえんだから」
「ははは、ずっと言ってみたいと思っていたのだ」

紅葉は、招かれるままに芸人たちの間に向かう。そこで、皆が「何」を取り囲ん でいたのか、なぜか普段よりも静かであったのかを悟った。部屋の中央、すよす よと穏やかな寝息を湛えて横たわっていたのは、この辺では見慣れぬ顔の少女 だった。歳の頃、14・5だろうか。透けるような白い肌に頬にはほんのりと朱 が灯っている。瞳には深い金色が宿り、漆黒の濡れた長髪が、肩を過ぎた辺りま で真っ直ぐに流れていた。一目見るからに、純和製ではない混血児。それもかな りの上玉だった。見目麗しさでおまんまを食うショウバイ女ショウバイ男があ また生息するこの街では、特段珍しくもなかったが。紅葉はぴゅうとひとつ口笛 を鳴らす。

「こりゃあ別嬪さんだな。誰のコレだ?」
「それが分からんのだ。今朝がた、暖簾の下で倒れていたらしい。 名を聞いても生まれを聞いても、分からぬ忘れたの繰り返しでな。 少し話をしたと思ったら、糸が切れるようにパタッと寝入ってしまって、ずっと この様だ」 「ほお、そらまた難儀だな」
「近所の医者にも診てもらったが、どうも我を無くしているらしい」
「我を?おあつらえ向きに活動写真のマドンナのようじゃねえか!」

確か、今度四番街の映写場で掛かるヤツがちょうどそんな話だったな。金がない なりに劇場の女を口説き落とし、たまに映写場に無銭来場しては、その異国の不 思議な物語を楽しんでいる紅葉は、高鳴る興奮を抑えられずにわずかに身を乗 り出す。

「どこぞでこの娘を見たことがあるかと小屋の者にも広く聞いては見たが、 昼の部の芸人たちもみな揃って知らぬと言う。 もっとも自分のツレだと嘯いてこの子を連れ帰ろうとする奴ならいたがな」
「そんな奴がいるせいで、最近俺たちがなんて言われてるか知ってるか? ̈ 和蘭(オランダ)座の芸人と目が合ったら孕む̈ だとよ」
「はっはっ!それは良い!芸人冥利に尽きる悪名だな!」
「… アンタな、自分の持ってる小屋がそんな言われようでいいのか?」

紅葉は呆れ返って見せたが、背広の男はさも面白いといった様子で、 帽子で口元を覆いながらカラカラと笑い転げる。

「まあ、この娘の、我を知らぬという言葉が真実であれ芝居であれ。 何某かの理由があるのだろう?大方、家出した迷い子か、あるいは食い減らしか」 「俺は、お父(とう)を探しての道中に十銭掛けるぜ」
「赤線に売り飛ばされそうになったところで逃げ出した娘さんと言うのも有り 得ますぞ!嗚呼、お労しや!こんなに麗しく歳若いおなごがそのような悲劇 を!おーいおいおい!」
「… 大げさ」

ゆるゆると少女の考察を交わす紅葉と背広の男の、その隣で、突然甲高い声が響 く。少女の哀しい物語を勝手に想像し、殊更に嘆いているのは、なんとキツネの 人形であった。キツネは、黒頭巾を被った男の肩の上で、芝居がかった口調でお いおいと泣いている。頭巾の男はそれに低く呟き、ツッコミを入れつつも、眉を への字に曲げて少女を心配そうに見つめていた。彼らもまたこの寄席の演者で あり、この街で腹話術師として生きる芸人のひとりであった。凸凹のようでいて 何とも絶妙な1人と1匹の掛け合いに、紅葉は苦笑いする。一方、少女の傍らに はもうひとり、少女と言うより少女のために煎れられたお茶のほうが気になっ ている様子の男がいた。

「旦那は?どう思う?」
「俺か?うちには愛しい妻がいるんでな。これ以上は養えないぞ。それ飲んでい いか?」
「あんた本当にぶれないお人だな」

緑色の前髪をさらりと揺らすと、男は冷め始めていたお茶に手を伸ばした。その まま、ずずぅと言わせて旨そうに味わっている。この男もまた芸人のひとりであ ったが、菫草と言う名前の空想上の愛妻と組んで行う漫才を生業としており、 「妄想夫婦漫才」と言ってこの街でも一等人気者であった。玉露のように濃く、 宇治のように風味が過ぎる。まこと芸人とは茶の道のごとく不可解な生き物だ なと紅葉は肩をすくめた。 そんな芸人たちの間にあって、少女は相変わらず滾々と眠り続けていた。ふと見やると、その少女の足元、柔らかそうな太腿に、くだんの黒猫が沿うようにぺっ たりと張り付いて、顔を擦りつけるなどしている。ただ毛繕いをしているだけの ようにも見えるが、その表情は澄ましているようでいてどこか嬉々としている。 そう言えば、シロはオスだったはず。男同士だから分かってしまうのは、その隠 しようのない下心。さすが色好きのあの人の飼い猫だ。紅葉が片眉を上げて咎め るように視線を送ると、役得だと言わんばかりに黒猫はにゃおんと低く鳴いた。

「それで、どうするつもりなんだ? こんな芸人の肥溜めに置いていたんじゃ、本当にどれかの子を孕まされちまう のがオチだぞ」
「まあまあそう急くな紅葉や。俺に考えがある。お前の案を採用だ」
「俺の案?」
「ああ。『ある者』に、このおなごの引き取りも身元捜しも同時に請け負わせる 妙案を思い付いた。この子には可哀想だが、そう長く此処におられては商いにな らんのだ。致し方あるまい?」
「…… おう… 」

紅葉は疑わし気に瞳を細めた。とても嫌な気配がする。その予感は今回に限 ったことではないのだが。飄々として見えるこの男の突飛な思想に、芸人たちは 毎度翻弄されているのだ。まあ、この寄席の支配人であり、この街の芸人はもち ろん国の要人や軍関係者とも繋がりがある、『陽炎』と名を言えば誰もが無条件 で道を開けるような一角の男が、こうも高らかと「妙案」があると言うのだ。た まには言うがままに聞いてみるのもいいかと、紅葉はため息つきつき様子を見 守ることにした。 そうこうしている間に、楽屋の外は俄かに賑やかしくなっていた。まもなく夜の 部の開場の刻と言う頃合いなのだろう。お囃子の連中が鳴り物を弾く三味線や お太鼓の音色が聴こえ始めている。

「さて、板の様子でも見てくるか。あやつが来たら呼んでくれ」

そう言って腰を上げた支配人の一言を合図に、芸人たちもそれぞれ出番の準備 に入っていった。ちらと確認してはいたのだが、今一度楽屋口に貼られた番組表 を見に、紅葉は楽屋前の土間に出る。わら半紙に寄席文字で丁寧にしたためられ たそれは、毎回陽炎の手によるものだ。今夜の演目順は、壱:漫才、弐:腹話術、 参:紙切り、そして紅葉の出番である四:奇術、最後のオオトリに伍:漫談とあ る。

「トリ前か、こりゃ気合い入れねえとな」

紅葉は、誰に言うでもなく自分に言い聞かせるようにつぶやく。楽屋に戻ると、 懐から商売道具である奇術の道具を取り出した。大ぶりの花柄のハンケチがバ サッと宙に舞う。ひらひらと揺すってやると、あれよあれよという間に沢山の桜 の花が零れ出てきた。紅葉もまた、この街界隈では一等名の知れた奇術師であり、 初代紅葉の名を引く芸事の名門の生まれであった。彼曰く、彼の奇術のそれは全 て「カガク」を元にタネが作られているらしい。パチン!と紅葉がひとつ指を鳴 らすと、今を盛りと舞っていた花びらたちは、神隠しにでもあったようにスパン といなくなった。

楽屋の中では、漫才師と腹話術師がそれぞれ、おのれの相方とネタ合わせに余念 がない。そんな横で、シロは少女の傍らに寝ころび、色事の世界で育った猫らし く、チントンシャンと鳴り響く三味線の軽快な音に合わせてコロコロと喉を鳴 らしていた。紅葉は歳相応の無邪気な表情でふわりと笑う。この街と、笑いと言 う欲にまみれた人々を彼は人一倍愛していた。 と、その時。廊下の奥、入り口の付近からドタバタと、豪快な足音が聞こえてき た。羽織を蹴り上げ、時々ヨタヨタと壁に追突しながら、徐々にこちらに近づい てくる。

「来たな」

舞台の様子を見て、戻ってきたのだろう。いつのまにやら気配もなく楽屋にいた 陽炎が、紅葉に向かってニヤリと悪い笑みを浮かべる。足音の主は、小屋を壊さ んばかりの大声ですれ違う者たちに朝の挨拶を送りながら、楽屋の光に向かっ て駆け込んできた。 スパン!!! 扉が摩擦など感じる暇もないほどに滑り良く開く。紫色の羽織をはためかせて、 彼の人は肩でぜぇぜえ息をしていた。

「今日は早かったな、竜胆」
「はあはぁ…… 今、何時(なんどき)だい?!」
「ちょうど開演の5分前だぜ」
「はぁはぁ… そりゃ驚きだな、明日は雪か雷か。俺が自分の出番に間に合うなん てな」

歩きながら、話しながら、外着を脱ぎながらと忙しく動きながら。楽屋に入って きた紫色の羽織の男。彼こそが、黒猫シロの主であり、この街で稀代の芸人とし て名を響かす、異才の噺家、竜胆輝元である。その一席は一度聞けば忘れられぬ ほどであり、頑なな軍人の頬すらも緩ますとされ、慕情にも似た形で魅了されて しまったおなごの客が昼も夜も問わずひと目ひと席ひと笑いと、寄席に詰めか けるほどであった。 これはどの女が贈ったものだか、洒落た金糸で縫われた草履をパタパタと土間 に放り投げると、竜胆は、傍で座っていた漫才師の男の座布団を、俺のだと軽く 奪い取る。楽屋の入り口では、舞台袖からやってきた者が、陽炎に何か告げると 足早に戻っていった。どうやら数刻、押しているらしい。腹話術師と、その相棒 の狐の人形も、一通り準備を終えて、楽屋の中央にある円卓に寄って来た。

「旦那、今日は何をやるんだ」
「この陽気だろう。季節相応に怪談噺でもと思っているが」
「そりゃいいな。久しぶりに『死神』やってくれよ」

紅葉の声に耳を傾けながら、竜胆はどっかと腰を落ち着ける。ひと心地ついたか ふうと細く息を吐いた。と、なぜ今の瞬間まで気付かなかったのか。それとも、 男所帯のこの楽屋の風景に見慣れてしまっていたのか。竜胆は、部屋の隅に、自 分と同じように白い肌の少女がいるのを捉えた。珍しい金の瞳にみるみる好奇 の色が灯っていく。半脱ぎの衣を腕に引っ掛けたまま、竜胆は横たわる少女の顔 を覗き込んだ。

「なんだ、俺が時間を守った褒美かなんかか?陽炎」
「ああ、そうだ。古いのばかり食らっていい加減飽きただろう。 見ての通りの上物、しかも初物で身の締まりも抜群だ。パックリ吸い付いて離れ んだろう。この手のモノは脚が早いゆえ、うんと味わって佳くしてやってくれ」 「……… 冗談だろ?」
「冗談だが?」

まことに食えないやつだ。紫の羽織の男は、下劣な下事情をにこやかに語る陽炎 を憎々しげに一瞥する。この男がこうゆるゆると笑顔でいる時は大概が他人を 何かに巻き込まんとしている時だ。散々面倒な目に遭ってきた竜胆は瞬時にそ れを悟っていた。陽炎の次の一手に身構えながら、手癖の様に少女の傍らにいる 愛猫に手を伸ばした。撫でようとしてその鼻っ柱を摩るが、シロは澄ました顔で 俊敏にそれから逃れる。猫はまるで少女を守るように、再び彼女の頭の横で小さ く蜷局を巻いて寝そべった。

「こりゃどうしたことだ、俺の相棒が懐いてやがるぞ」
「血は争えんという奴だなあ」
「血、だ?俺に猫科の血は混ざってないぜ?」

陽炎が、ワザとらしくその作り物のように整った唇で穏やかに弧を描く。竜胆は 努めて無感情にそれを受けた。陽炎の罠は既に仕掛けられている。何食わぬ顔で しかし用心に用心を重ねながら、その言葉のひとつひとつを拾って探るように 返していく。ここから先は、話を商いとする自分と、駆け引きを商いとする陽炎 の一騎打ちの勝負なのだ。陽炎は相変わらず飄々とのたまう。

「ほんに見れば見るほど良く似ているなあ、竜胆」
「君はとうとうボケたか?良おく見てみろ。俺はシロみたいに肥えちゃいない し色も真っ白(ちろ)い方だ」
「ははは、お前こそ阿呆なことを言っているな。似ているのは猫の方ではないさ」
「じゃあ誰のことだってんだ?」

普段なら落ち着いて策を練っている竜胆も、ふわふわと宙を掴むように的を得 ない陽炎の言葉に、早速翻弄され始めている。ただでさえ急ぎ走ったばかりで頭 が回っていないのだ。ボサボサ髪でまだ羽織も脱ぎかけのその様子に、今日の合 戦の勝者は陽炎かも知れんな、と腕を組み傍観している紅葉は一人ごちる。竜胆 は冷静を取り戻そうと、それでもやや苛立った様子でコツコツと爪先で畳を叩 く。それを見た陽炎は、殊更に笑みを深くした。

「竜胆や。まさかお前、覚えていないとは言わせないぞ」
「何のことだ?またお前の謎掛けか?」
「『ストリップショウ』と掛けて『馬鈴薯』と解く。その心は?」
「簡単だ。俺を誰だと思ってんだ?」

竜胆は、得たりと手近な扇子を持ち、ずいっと身を乗り出した。 江戸の花形役者よろしく、見得切るように立てた片膝をパシッと叩く。

「どちらも『め』に毒、だろ?」
「ご名答!さすが稀代の噺家、竜胆輝元だな」
「随分となめられたもんだな。君も腕が鈍っているんじゃないのか?」
「あなや。俺はただ、お前とこのおなごの関係もまた、 我々独り身の男衆には感動に満ちて目に毒だと言いたいだけだぞ」
「はあ?このおなごと俺?」

竜胆は謎掛けを解いたご機嫌も束の間、陽炎の言葉に再びキョトンとする。 一方で陽炎は、最後の推しとばかりに畳みかけた。

「この金目、真っ白な肌、混血児のような容姿、そして利発そうな口元。 まさにお前の写し鏡のようじゃないか、なあ竜胆」

名指しされた竜胆は相変わらず得心が行かぬという風で首をかしげている。 ここで、紅葉は先ほどの陽炎の台詞の意味に気付いて小さく手を打った。 『俺に考えがある。お前の案を採用だ』陽炎がそう言った前に、 紅葉は確かに、この我を無くしたおなごについてこう言ったのだ。 『俺は、お父(とう)を探しての道中に十銭掛けるぜ』 点と線と全てが繋がる。こうあってはもはや竜胆の付け入る隙はない。陽炎の口 車に乗って、今日は言うことを聞くしかねえみたいだな旦那。紅葉はご愁傷様と 心の中で手を合わす。

「何が言いたい?」
「竜胆よ、よく聞け。このおなごはな」 お前の、娘だ」
「はあああああああああ??!」

街一番の寄席小屋『和蘭(オランダ)座』。その軒先で、ツレを待っていた赤目 の男が、小屋奥から響いた誰かの奇怪な大声に小さく眉を寄せた。今の声は一体 何なのだろう。噂には聞くが、まことこの小屋の芸人は得体が知れぬ。目が合う ただけで子を孕ませたとは本当なのだろうか。そちらの欲だけでない、この街は あらゆる欲が満ちると聞く。あるいは自分の叶わぬ想いもまた、この街の欲のひ とつとして遂げられることがあるのだろうか。そんな空虚を埋めながら、赤目の 男は、西洋風の靴でもって足元の砂利をザザリと鳴らした。 まもなく、宵闇に寄席の幕が上がる。

胸元に桜桃を


意識の奥に、最初に訪れたのは、鼻孔をくすぐる甘ったるい穏やかな香りであった。クチナシか、茉莉花か、モッコクか、あるいはそれ以外の何かか。その香りは、喉を通り思考を巡り、最後には胸いっぱいに吸い込むほどに、少女の体を満たした。もっともっとそれを味わいたくて、わずかに唇を開く。はあ、と息を吐くと、代わりに心根いっぱいにその匂いが満ちていった。

「ああ、そうじゃれるな。お前は自分の重みを少しは考えろ」

首元に何か大きくて暖かいモノがすり寄る感触。次に、少女の意識に浮かび上がったのは、肌触りの良い温もりであった。それは春の桜並木を撫でる東風のようで、触れたことこそないが羽毛と呼ばれる布団もきっとこんな風に抗いがたい心地になるのだろう。余りに気持ちが良くて、少女は瞳を閉じたまま、ふるふると震える小さな動物のようなそれに、顔を寄せて撫ぜる。

「しかしまあ、随分と平和に育てられたと見えるなあ、おひいさん。
さすがに途中で目覚めるかと思ったが。ここまで隙だらけとは」

最後に、少女の瞼の奥にぼんやりと映ってきたのは、夏だと言うのに秋口の水辺のように紫色の羽織。それがわずかに左右に揺れるたびに、リンと耳をくすぐる鈴のような音色がした。音のする方を確かめたくて、開かない瞳を恐々と開く。するとそれが羽織を捕らえるように飾られた金色の鎖だと分かった。そう遠くはない距離に、これもまた真っ白な腕と細い指が蠢いている。視線を上げると、鎖と同じ金色の眼が「おや」と見開かれた。それがゆっくりと自分に手を伸ばして来る。
そこで少女は、飛び起きた。

「触れるなっ!!!」

咄嗟に、目の前の者から距離をとる。低い姿勢のまま上体を起こした。体が、手が、ひとりでに動く。まるでそれがかつては自然であったように。胸元に忍ばせておいた懐刀を裏手で向けると、視界の下にいた大きな黒猫が小さく悲鳴をあげて飛びのく。剥き身の刃が薄い夜の明かりにギラリと光った。今確かに、視界の中に誰かがいたはず。少女ははっはっと口中だけで荒く息をついた。するとふいに、耳元でのんびりとした声が響いた。

「前言撤回だな。そんな小刀、どこに隠してたんだ」

驚いて声のほうに振り返ると、そこには、先ほど薄ぼんやりと意識の中で瞼に移していたはずの紫の羽織の男の姿があった。いつの間に背後にいたのだろう。感じる風からもその動きの気配はなかったのに。少女は刀を握りしめたまま驚愕する。男は、少女の手首をくるりと返すと、自分の胸元に切っ先を向けて、こう言った。

「傷を付ける覚悟もないのにそう簡単に刃を振るうな。
そんなへっぴり腰では猫一匹守れんぞ?」

ニヤリと声だけで笑う。少女の白い肌が、ぞくりと粟立った。その男の瞳は決して笑っていなかったからだ。金色の奥の奥、深層の中に、自分の持った刃の煌きが映って、少女はずりっと後退る。そのまま、ペタンと腰が砕けて座り込んでしまった。怯えるままに男から視線を外せないでいる少女を見て、羽織の男はわずかに苦笑した。今しがたまで少女が横たわっていた、布団の傍らに鞘を見つけ、カシャリと鋼の音を立てて小刀を仕舞う。そのままひょいっと少女に投げてよこした。それらは一瞬の出来事だったが、少女はまだ動揺を残しているようで、肩で荒く息をしていた。

「俺は、竜胆輝元だ」
「竜胆… 輝元…… 」
「ああ。リンドウは、あの花の竜胆だ。
輝元は… あとは適当に想像してくれ。生業は噺家だ。
寄席で馬鹿馬鹿しい小話を語っておまんま食っている。
ちなみにここは俺の家で、この肥えた黒猫は俺の相棒だ。
随分と君にご執心のようだから、
まあ猫と交わって猫又が産まれんようにさえしてくれれば、
あとは煮るなり焼くなり仲良くしてくれていい。
ちなみに、俺もコイツも好物は女、三度の飯より好きだ。
ああ、年上専科だから君は安心していいぞ。
おぼこは驚きが足りないんでな」

リンドウと言うその男は、名乗りから此処までを一気にまくし立てた。まだ畳に尻餅をついている少女は、目の前に仁王立ちした男を見上げながら、呆然とその言葉を聞いていた。おはじきを弾くように軽妙に繰り出される単語のその端はじに、酷く聞こえの悪い表現が混じっていたのは気のせいだろうか。男は、飄々とした様子で、少女の顔を見下ろす。

「他に、何か聞きたいことはあるか?」
「… どうして、私はこの家にいるんだ?」
「陽炎と話したのだろう?」
「陽炎?」

質問に質問で返す、相変わらず掴みどころのない男の言葉に、少女は不安を募らせる。何かの「目的」を持って、あの街を歩いていた。暗闇の中を、朝焼けが差す頃まで歩きに歩いて。気付いたら寄席の中の部屋に寝かされていた。支配人と名乗る、女の様に顔の綺麗な男に、根掘り葉掘りと様々なことを問われて…… 何も答えられぬまま、知ったのだ。自分が、自分の名前すらも忘れているということを。記憶はそこで途切れている。

「舶来の陶器みたいに整った顔の男だ。いつもカンカン帽を被っているが」
「ああ… 」
「アイツに袖の下を握らされてな。いや、首根っこ掴まれたのか」

竜胆は何かを思い出したのか苦々しい顔で、小さくため息をこぼす。厄介な女に手を付けた時、様々な事情で金子が入用になった時。寄席の芸人たちが最後に頼るのが陽炎であった。それなりに痛い目に遭ってきている竜胆も、その背に甘えたことは一回や二回ではない。冗談めいているようで、その言葉には抗えない。正直なところ、稀代の噺家と言え、陽炎には頭が上がらないのであった。『これでどうだ?』と、過去に難事を持ち込んだ女の遺物を見せつけられては、指し物竜胆も、首をうんと縦に振るしかなかった。

「まあ、そういったわけで。
君が我を取り戻すまで、ここが君の住まいだ。幸い部屋は余っている。
好きに使ってくれていいぞ。
男ひとり猫一匹。花ひとつない侘しい我が家だ。
君の様に若いおなごがいれば、
少しは日常に色がつくってもんだろう?」

『花』と言う言葉に、少女は一瞬ピクリとした。夢うつつの中、意識をくすぐったあの穏やかな優しい甘美な薫り。あれはなんだったのか。何かの花が飾ってあるのかときょろきょろと室内を見回したがしかし、目につく限り咲いた花も、蕾のような小花もどこにも見当たらなかった。

「時に、君」

まだ香りの元に心を奪われていた少女の傍らに、どこに消えていたのか、先ほどの大きな黒猫がすり寄ってきて、母猫に甘えるようににゃおうと鳴いた。それの喉元をころころと撫でてやりながら、少女は男の声に顔を向ける。男は、お勝手の土間に腰かけたまま、懐からパイプを取り出していた。夜も深い時間、丑三つ時はとうに越した頃合いだろう。部屋のすりガラスの向こうには、朝を知らせる鈍い日の光と、深い霧とが立ち込めていた。男は、一呼吸置いて、すうとパイプの中のとげとげとした葉煙草に火を点ける。遠目でもそれが燃え朽ちていく様が見えた。

「君は、その。俺の娘ではないよな?」
「は?」

数刻前、寄席の楽屋で自分が発した音と同じ音が、少女の唇から漏れるのを聞いて、竜胆はぶふっと思わず噴き出した。ゲラゲラと大声で笑うその姿を見て、少女は訝し気に眉を顰める。しかし、五感のどこかで、きっと害のある男ではないのだろうと感じていた。

この男は、刀を、『守るもの』だと言った。襲い掛かってきた相手に向かって、傷付ける覚悟を持てと切っ先を自らに向けさせたのだ。懐に収めた刀、少女は、強く鞘を握りしめていた指先を、そっと緩めた。

それからの日々と言うのは、細かく事象を連ねれば黄表紙5冊分、いや10冊分にはなるのかもしれないが、少女にとっては等しく興味深く、また新鮮な日常であった。我を取り戻すための一端はようとして知れなかったが、幼い少女にとっては映り巡る出来事を追うだけで必死だった。

毎朝、竜胆は、その日の出番が昼の寄席・夜の寄席問わず、明け六つには家を出る。まだ鶏も鳴き止まぬ街の中心を、主人よりも我が物顔で歩く黒猫を連れ、ぬっそりと背中を丸めて歩く姿は、街の職人たちの朝の風物詩となっていた。そのおシロ様行列に、最近は少女も新しく加わっている。人好きのする笑顔で、そこらの人々に声を掛ける紫色の男と、周囲を見回しおっかなビックリながら、淡いお天道様に負けんばかりに透けた黒髪をなびかす白い少女。その先頭を、相変わらずふてぶてしい様子で歩く黒猫の組み合わせは、さぞかし人目に面白おかしく、しかし奇妙に映っていることだろう。

「ほれシロ、いつものだよ」

家の前の通りで、尺でもって水まきをしていた呉服問屋の男が、小さくシロを手招いた。シロは澄ました様子でツンと顔を上げると、たっぷりたっぷりと時間を掛けて男の方へ歩み寄る。男は、懐から数銭の小銭を取り出して、シロの首に掛かった小袋にそれを流し入れた。小銭同士がぶつかってちゃりちゃりと小気味良い音を立てる。

「おお、旦那。いつも悪りぃな」
「良いってことよ。こないだの一席、中々に泣かせてもらったぜ。
あんた人情物もいけるんだな。
たまには『芝浜』なんか演ってみるのはどうだい?」
「ありゃあ特例中の特例だ。陽炎の上客が見に来ててさ。
人情物ばっかじゃ辛気臭くて、寄ってくる女も寄って来ないだろ?」
「ははは、違げえねえ!」

竜胆の言葉に、男は声を上げて笑う。そして、竜胆の傍らにいた少女に目を止めると、少し照れた様子で「おはよう、おひいさん」と優しい声音で挨拶した。

「今朝はちょっと多めに入れといたぜ。
シロと可愛い子ちゃんの朝餉代くらいにはなるだろうさ」
「ありがとうよ。ま、幾ら貢いだとこで
コイツはアンタに微笑みもせんと思うがな」
「んな、ご無体な。独り占めなんてずるいぞ、旦那」
「はっはっは、せいぜいご機嫌を取るんだな!」

呉服屋の男に軽く返しながら、竜胆はまた道の真ん中を、少女を連れて歩み始める。こうして、毎朝通りを練り歩いては、出会う人、ごひいき筋から金子の援助を得るのが、竜胆の日課であった。竜胆だけではない。この街の芸人たちは、皆そうしてわずかな出演料を補い、生計を立てていた。もっとも竜胆は街でも一等稼いでいるほうではあったが、懐に入る分出て行ってしまうというのも、宵越しの金は持たない粋な芸人らしさと言ったところか。呉服屋の男の悔しそうな表情に、訳が分からずきょとんとしている少女を見て、竜胆はやれやれと肩をすくめた。シロにするように、やわやわと視界の低いところにいる少女の頭を撫でてやる。

「君ももう少し愛嬌があればな。
そのひと笑みで三途の川の花畑が見えるとの
たまう、酔狂な男衆も多くいるようだし。
サァビスとやらをしてみちゃどうだ?」

馴れ馴れしく触られたことに対してか、あるいは芸人でもない自分に世辞を言えといわれたことに対してか、少女は口元をへの字に曲げて、竜胆の手を払いのけた。

「笑わないのがそんなに悪いことか?」
「そうは言わないが、男は度胸、女は愛嬌と言うだろう?
今少し朗らかにしていたほうが、男には良くされると思うぞ」
「男など興味はない」
「おお、そうか。それじゃあさっきの銭は、俺の今日のお八つ代としよう」
「それはダメだ!」

少女がさらにぷうっと膨れて竜胆の腕を叩くと、竜胆は「痛い痛い」と愉快そうに笑った。悪戯な掛け合い、たわいもない軽口の応酬。これもまた、竜胆と少女にとっては日常の一部となっていた。もっとも、最初の頃は少女も今より頑なで、掛けられた言葉にしか返さないような有様だったのだが。そこは天外の人をも魅了す職業芸人。好むと好まざると、飼い猫宜しくじゃれつくように絡んでくる紫色の男に、少女も次第に絆されてきているのを自覚していた。食うにも困らず、寝床もある。ぬくい柔らかな黒猫も可愛らしいし、何よりこの日々を満ち足りていると感じる自分がいる。ないものはただ、我の過去の所在だけ。あれができる、これができる。例えば基礎的ではあるが剣術が出来たこともそうだし、どう言うわけか料理も一通りできるようだった。その他にも、生活の中で断片的に見えてくるものはあったが、相変わらず奇想天外な芸人とその相棒と暮らす日々は忙しく、それを反芻して振り返るような余裕も興味も今の少女にはなかった。
否、まるでそれは意図的に考えないように、少女が思考に埋没してしまわぬように仕向けられていたような気さえしたのだが。

「竜胆さん」

前方をえっちらおっちら進んでいく黒い塊の、飛び跳ねる尻尾。それを、お囃子でも聞いているように同じ感覚で揺れながら見つめていた少女の耳に、小さく呼び止める声が聞こえた。顔を上げると、大通りから少し入った小道の脇。長屋の連なる地帯から、小袖を翻して、ひとりの女が走ってきた。寝間着姿のままなのか、しどけなく緩んだ胸元を掻き合わせながら、こちらに歩み寄る。名を呼ばれた竜胆も、すぐにその声の主と気付いたのか、自らも女の方に近付いて行った。

「おはようさん、良く眠れたかい?」
「… ええ。お陰様でぐっすりよ」

何気なく挨拶の言葉を掛ける竜胆に、女はぽうと頬を火照らせる。少女の位置からは見えなかったが、竜胆の右腕は、女の腰、少し下辺りに抱き寄せない程度に添えられていた。竜胆は、わずかに角度をつけて顔を傾けると、女の耳の中に吹き込むように何かを囁く。女の顔が殊更に真っ赤に染まった。
竜胆はそれを見て、真っ白な長い睫毛を薄く瞬かせると、くすりと意地悪く笑った。

「シロ、おひねりを頂けるそうだぞ。礼を言え」
「シロちゃん、今日もお天気で良かったわね」

女は、少女の隣にいたシロの前に跪く。走って来た時に乱れたのだろう。寝間着の裾を整えようと、わずかに前屈みになった。少女は、その女性らしい優雅な所作を、見惚れるように見つめていた。女は、シロの首元の袋を手に取ると、先ほどの旦那がしたように、小銭と数枚の紙幣。そして、折られた小さな紙切れを差し入れる。すとんと袋奥にそれらが届く時、もっと前のめりな姿勢になった女の襟元の隙間から、零れんばかりの豊かな乳房が覗いた。少女は見てはいけないものを見てしまったような気がしてビクリとする。少女は目を逸らしていたが、女のその健康的な桃色の透き通った肌には、桜を散らしたように朱色の花が点々と咲いていた。

「おひいさん、あなたも。おはようね」
「おは、よう… 」

シロは、相手が女と言うこともあり、また小袋に入った施しの重さも相まって上機嫌で、女と少女の間を行ったり来たりしながら愛想を振りまいてゴロゴロとじゃれついている。少女が小さくどもって挨拶を返すと、それを可愛らしいと感じたのか、女は淡く微笑んでそっと少女の頭を撫でた。竜胆とは違う、女っぽい細い手が緩く髪を漉く感触に、少女は目を細める。と、女と顔と顔が近づいた時、いつぞやか嗅いだ、甘い優しい花のような香りが鼻を掠めた気がした。しかしその香りは感じた瞬間、あっという間に風に飲み込まれてしまった。女は竜胆に軽く手を振ると、元来た路地に戻っていった。竜胆はそれを、目で追うこともせずに後ろ手に手を挙げるだけで見送る。大通りには、そろそろ街の人々も慌ただしく動き出す時間なのか、少し前よりも往来が激しくなっていた。

少女は、ちらと竜胆の横顔を見上げた。その表情は、いつもと一緒で飄々としていて何ら変わらないように見える。名の通り竜胆のように紫色を湛え、女の様に繊細な美しさを持ち、子どもの自分よりもずっと無邪気に笑う。しかし、その隣からの角度、少女の目線からだけは、何がとは上手く説明できないが、時々、竜胆が違って見える時があって、少女はそれをいつも不思議に感じていた。竜胆が自分をどれほど幼いと思っているかは知れない。けれど、少女はある程度は理解しているつもりでいた。芸人としての芸の肥やしか、男としての正直な本能に基づいてか。竜胆はその欲について隠そうともしなかったからだ。さっきの女のような出来事も、一度や二度ではなかったし、終演後の小屋の裏で、竜胆にしな垂れかかる女客の姿を見たこともあった。寄席の芸人に竜胆の所在を聞いたら「旦那ならヨシワラだよ」と笑いながら言われたこともあった。「色欲」、それはこの街で生活し、竜胆とともに過ごしている少女にとって、身近なものになっていた。もっとも、少女の認識としては、それは寄席に集うほとんどの芸人たちが日々嗜んでいる遊戯のようなものだと思っていたのだが。

「腹が空いたな。角の店で朝餉にしようか。
小屋入りにはまだ早いだろう?」

ふいに、竜胆の視線が自分に降ってきて、少女はぴくりとする。我知らず随分長いこと、その横顔を見つめてしまっていたようだ。気付かれたのではないかと慌ててそっぽを向いたが、竜胆は変わらぬ様子で、今日は粥か、それともうどんかなどと、人の気も知らずに朝餉の品書きに夢中になっている。幾らか気を許し始めている自分が言うのもなんだが、こんなに欲望に真っすぐな男の、一体何がそんなに人の気を惹いているのだろう。少女はふと思ったが、道まで漂ってきた白米の炊ける匂いに引き寄せられてしまって、それ以上考えることをやめた。

「さあさ、往来往来!」
「御用とお急ぎでない方は、どうぞゆっくり和蘭座へ!」

昼の寄席小屋の前で、若い芸人衆が声を張り上げ客寄せしている。竜胆より少女よりも先に、いち早く最前を歩いて入り口に到着したシロは、悠々とその間を通り過ぎていく。男たちは、そんなシロの姿をみとめると、一斉に屈んで大げさに挨拶をした。昼の部の開始まではまだ時間がある。ちらほらと番組表を覗く通りすがりの人々をぬって、2人と1匹は、いつものように暖簾をくぐり楽屋へ向かった。

「やあ、今日も早いな」

引き戸を開けると、戸側で書類に目を落としていた陽炎が顔を上げた。竜胆の背後から、ひょっこりと顔を出した少女を見つけると、溶けるように美しい笑顔を向ける。竜胆はと言えば、部屋に入って早々羽織の胸元を寛げ、パタパタと手近にあった団扇でもって自分を仰いでいる。いつもの芸人衆はもちろん、昼の出番を控える多くの芸人が密集して、ただでさえ夏の最中で暑い楽屋は、輪を掛けて男臭くなっていた。

「お前さんが来てからというもの、
毎度あの男がきっちりと出番に間に合うようになってな。
俺も他の芸人たちも、本当に助かっているのだ」

陽炎が、筆で何かを書き記しながら、脇に小さくなっている少女に話し掛ける。それに答えて、その場にいた芸人衆も、そうだそうだと話し始めた。

「昔は、もぎりの者が慌てて家に迎えに行ったりしてなあ」
「まだ寝ているのかと布団を覗いたら、もぬけの殻だ。
厠か居間かと探してみるがどこにもいない。
一体いずこへと庭に出てみると、どさっと屋根から何かが飛び降りてきて」
「お決まりの『俺の眠りを呼び覚ますのは誰だ!?』と来たもんだ」
「結局そいつ、尻餅ついて腰をいわしちまってよ」
「『もう俺に竜胆師匠のお守りを頼むのはやめてくれ』と笑っていたな」
「ありゃ、自分でも良い前座だったと思うぜ?」

隣に座っている腹話術師の肩に背を預け、両の足を伸ばした竜胆が、話に乗ってにやにやと笑う。芸人衆はそれを見て、師匠にゃ適わねえやとまた笑う。楽屋の中では笑いが途切れることはなかった。彼らは、自分たちが笑いを与える以上に、自分たち自身も笑うことがこの他好きであった。少女はと言えば、自分が此処に来る前のことは分からないが、竜胆の日常にわず
かな変化を与えていると聞いて、少しだけ嬉しかった。芸人たちは揃いも揃って曲者揃いであったが、彼らの中にわずかでも自分の居所があり存在できていることは、少女に安心感を与えていた。

「さて出来たぞ。出順を見ておいてくれ」

いつものように陽炎が、手書きの番組表を戸口に張り出す。連中もわらわらと腰を上げて、それを確認しに立ち上がった。少女の傍らで、静かに丸くなっていたシロが、男たちの大きな足音に目を覚ました。くわあと大あくびをかいたその柔らかい頭を少女が撫でていると、今度は自分が誰かに頭を撫でられた。

「おはようさん。今日も頼むぜ、俺たちのお運びさん」

見上げると、それは紅葉だった。着流しの上から、舞台用の衣装である真っ白な羽織に身を包み、銀縁の眼鏡を掛けた紅葉は、いつもよりグッと大人っぽい印象を受ける。淡い眼差しで優しく髪をくすぐってくる姿は少し眩しすぎて、少女は目を伏せながらこくんと頷いた。実は少女は、先週の寄席から、舞台上の座布団を運んだり、演目のめくりをする「お運び」の仕事を、任されていた。竜胆の付き添いとして寄席に来るだけでは退屈かろうと言う陽炎の計らいからだったが、ただでさえ男ムサイ花のない寄席の環境である。若い芸人衆が喜んだのは勿論のこと、客の中にも、あのお運びの娘は誰かと目を止める者がいて、平素よりも少しだけ舞台を沸かせる要因になっていた。『笑わない花をどうやって咲かせるか』。芸人たちは前よりもずっ
と、競うように自らの芸を磨き始めたし、客も少女の反応を楽しみに小屋を訪れ始めていた。

「皆さま、本日もひとつ、大笑いをお願い致します!」

舞台袖を守る男衆のひとりが、楽屋の芸人たちに声を掛ける。四方から、おうよ!任せとけ!と勢いのある声が返される。それに合わせて、少女もわずかに体に気合いを込め立ち上がった。少し遠く土間の先で、緑色の幻想漫才師と談笑する竜胆が見える。少女と目が合うと、竜胆はニヤリと笑って、パチンと片目を瞑って見せた。

『黒猫ストリップ』第1話終わり


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