『黒猫ストリップ』第4話を知っているか
東京節
「これで最後か」
荷物か、無機物の様に重い音。 少女の眼下に、失神した観客の男が放り投げられる。 その顔は抵抗したときに殴られたのか真っ赤に鬱血していて、少女は小さく息 を飲んだ。
「女もこれで全部だな。隠していないな」
男たちは、緞帳の陰から楽屋の奥、客席の足元に至るまで、ひとっこひとり、猫 一匹逃がさぬようにと場内を探し回っている。 少女は、浅い息を繰り返していた。唇も咥内もガサガサに乾いているのに、どこ までも体が呼吸を求めていた。両手の自由を奪われても、懐に忍ばせている刀は、 待ちわびるようにそこで存在を主張している。鎬造りの鋭い刀身が、我を振るえ、 皆を守れと少女に訴えかけていた。
それは一瞬だった。 場内に乗り込んで来た男たちは、入り口付近にいた観客たちを真剣でもって威 圧しながら、群衆を分け入るように進んで、舞台にあがってきた。お立ち台にい た踊り子たちは、毅然として立ち向かったが、男たちの刃に峰打ちされ、その場 に倒れ込んだ。 真っ先に危険を知らせた少女もまた、袖から引きずり出された。
「金なら奥の金庫だよ。お客さんは開放しな」
張り詰めた空気を割くように、踊り子の中のひとりが声をあげる。 女たちは、努めて冷静でいた。みな凛と背筋を伸ばし、抗うことも暴れることも 泣き叫ぶこともしない。取り押さえられ、柔肌をキリキリと凌辱的に縛り上げら れても、真っすぐに客席を見つめていた。その姿は、本来美しさを引き出すため の照明に灯されて、不安を募らせていた観客たちの目に、より神々しく映っていた。 主犯格らしき男の中のひとりが、その言葉に下卑た笑いを浮かべた。女に近寄ると、顎を掴み、無理やりに顔を上げさせる。
「自分たちの立場ってもんを分かってねえらしいな。
この大きなお乳と同じ立派なオツムで考えてみたらどうだ。あ?」
掲げた刀が翻り、切っ先が女の左胸に添えられた。その間には薄い衣一枚。一度でも身じろげば、切り裂かれる。踊り子たちの間から、はっとかすかに声が漏れた。それでも女は微動だにせず、煽るように文句を返す。
「アンタらこそ分かってないんじゃない?
宵月率いるこの三区座に押し入るなんざ。運が悪かったね」
にやりと笑うような声。明らかに不利な状態であるにも関わらず、その口調には 絶対的な自信が垣間見られる。ストリッパーの、誇りにも似た強い意志。 じっと状況を見守っていた女たちも、その声に支えられるように、グイッと豊か な胸を反らす。これ以上は口が我慢しないとでも言うように、一斉に男たちに向 かってわあわあと騒ぎ出した。いわく「貧相な金玉しやがって」だの「姉さんに お触りしたいだけじゃないか」だのと暴言放言の大行列である。少女も便乗して 「ガキめ」「帰れ」だのこっそり言ってみる。
「ああああうるせえうるせえうるせええ!!! 商売女がガタガタと!」
ぶんぶんと風を切って刀が振り回される。 かしましい女たちの集中砲火は思ったよりも衿持を傷付けてしまったようで。 男は先ほどまでの横柄な態度もどこへやら、真っ赤な顔で喚いた。 楽屋の奥では、他の強盗たちが、どたばたと家探しをしている。あっちこっちと 箪笥を開けては、金目の物を物色しているのだろう。金庫を暴く派手な破壊音が 響いていた。
「『生かして奪え』と言われちゃきたが。
価値もねえ売女、殺めようが罪はねえよなあ。そう思わねえか?」
威嚇するように刀地を見せつけて、頭領らしき男は、女たちの輪の周りを物色す るように歩き始める。クックッと下衆に喉を鳴らし、愉快そうに目を細める。場 内は再びしんと静まり返った。観客たちは縋るような目で舞台を見やる。女たち も、口は開かないまでもじりりと睨みを効かせ、男の行進を射殺すように辿っていた。
少女の心には、とろ火のような怒りがじりじりと湧き上がっていた。男の発する 言葉に、女たちが歯を食い縛るのが、目で見なくとも手に取るように分かる。彼女たちの気高さを、こうも愚弄されることなど許せない。飛び掛かって切り裂い てやりたい。少女の心身はもはや女たちと一蓮托生となっていた。 こつこつ。 男が歩くたび、踵の厚い西洋風の靴が音を鳴らす。 等身の低い少女には、見上げたとて男の顔までは見ることができなかった。だか ら、小さな胸で挟むように懐の刀を確認すると、いつどの瞬間でも動けるように じっと耳を澄ましていた。
こつこつ こつ。 ふいに、男の足音が止まった。
少女は瞳を見開く。 ひゅうっと音を立てて銀の鋼が頬に当てられる。
右目のすぐ横で鋭く光った。
「ガキ、お前からだ」
凍てついた声に皮膚がぞわりと粟立った。覗き込まれたその顔には、およそ理性 も何も捨ててきたような冷たい温度だけが感じられる。男の肌は浅黒く小さな 傷が幾つも印を描いていた。まじまじと舐めるように全身を視線で侵される。そ れだけで少女は反吐が出そうだった。
「… やめろ」
「おうおう、威勢が良いな」
背後から、女たちの怒りの声が幾重にも重なる。その子は関係ない、手を出すな。 言葉の勢いでもって男を打ち挫かんとするがごとく、どれも強く激しく乱れ打 たれる拳のように聞こえた。ひとりであったなら、すでに気弱さが顔を出してい たに違いない。しかし今は彼女たちの声がある。それらは、少女の心には力水の ようにじっくりと染み込んでいた。 少女は、身をよじり懐刀を手にしようとしていた。両手を縛った縄は、皮膚に食 い付いてぎりぎりと自由を奪う。視線はギラギラと煽られる刃先に釘付けになっていた。手に携えられればすぐに応戦出来るものを、右頬を割くように添えら れた刃が、容易にはその動きを許さない。
この刀は、何の為にある。記憶を失う前のことは分からない。しかし、以前の自 分だってただ戦うために傷付けるためにこれを持っていたわけではないだろう。 護るために。弱きを守り、ただ力だけで振り回される一撃を挫くために。それを 少女はもう、身を持って体感していた。この街で過ごす中で、彼女はもう守るべ きものを多く見つけていたからだ。
隙(げき)を見極めよ。その間合いをもって切り掛かれ。 少女はじりじりと男を見つめ、片時も目を離さないでいた。 男もまた、光の失われた黒目で少女を見つめたまま、何かに憑かれたように口元 だけで下衆いた笑いを浮かべていた。ふいに、男の指が、少女の着物の合わせに 添えられる。少女はハッとした。
「っ… 触るな!!」
「良く見りゃ中々の器量良しだ。すぐに殺めるのも惜しいな」
少女は体を大きく左右に揺さぶって、それから逃れようとするが。もがけばもが くほど、男の息は野生の猪のように荒くなる。男の切っ先が頬に添えられゆらゆ らと動かされると、身じろぐことすら出来なくなった。浴びせられる踊り子たち の罵声は続いていたが、男はもう、それに視線を動かすような素振りすらなかっ た。男の太い指が、合わせを強引に大きく押し開いた。
「いやあああ…… ッ!!!」
「兄ィ、相変わらず良い趣味してるぜ」
「生娘の生まな板ショウ、ってわけですかい」
少女の悲鳴が小屋中に響き渡る。着物の袖が、少女の肩からずるりと滑り落ちる と、手のひらに収まる程度の小さな乳房が、剥き出しになった。絹のように滑ら かな肌に、薄桃色の小さな尖り。 晒されたそれを、他の強盗たちは、狂喜の目でもって厭らしく視姦している。ふ るふると震える少女の唇を見つけて、男はうっそりと舌なめずりをした。
「客が見てるんだ。ちっと愉しませてくれよ」
乱暴な手が、少女の無防備に晒された裸体に伸ばされる。女たちは髪を振り乱し、 身をよじって必死になって男を留めようと怒声を飛ばし続けていた。
「……… あ」
体が、炎に焼かれているようだった。 熱くて熱くて、視界の奥が真っ赤に染まる。 まるで時が止まったように、男たちも踊り子たちも客も、周りの情景全てが、鈍 くゆっくりと動いていた。届きかけていた小刀は、懐でカシャンと情けない音を 立てた。 いやだ、やめろ。いくらでも声は出せたはずだった。 首を絞められたように喉が締まる。脳裏までじわじわ霞んで虚無に満ちていく。 自分が信じられなかった。悔しくて悔しくて、悔しくて仕方なかった。 握りしめた手指から、血が噴き出しそうだった。
『おひいさん』
『おひいさん!』
意識の沼の深い深いところで、踊り子たちの声が響いている。 自分を呼んでいるのだ。自分だけの「名前」。 それは我もなかった自分が、最初に与えてもらったもの。 初めは馴染まなかったが、次第にその響きに温もりや安らぎを覚え始めていた。 幾重にもかさなって、その名前はうねりをあげる。 まもなく、それはひとりの声になっていく。
「… 、う…… 」
よりにもよって。浮かんでしまったのは。あの自分と同じ金色の瞳だった。 とろとろに溶かして煮詰めた飴のような甘い色。いつも飄々として子供扱いし て、やたらとからかったりふざけたりする癖に、自分のこととなると深く踏み込 ませない潔癖なところもあって。その分、何よりも少女を甘やかしてくれていた。 大切にしてくれていた。喧嘩すれば折れてくれたし意固地な少女の機嫌を取り つつ笑わせてくれた。 あんな奴。 そう思うほどに。心があの純白に包まれていく。追いつきたい追いつけないとあ がくほどに苛々がこみ上げて。半ばそれは、届かぬ怒りとなって湧き上がる。
「…… りんどう!!」
飛び出した声が、空気を震わせた。そもそも和蘭座はずっと遠く、届くわけがな いし来るわけもない。現実はお伽草子ではないのだ。あの男だって神でも英雄で もない。それでも。
「竜胆!!!早く来い!!それでも『おとう』か!!!」
赤の他人である、自分と彼とを繋ぐ名前。それ以上でもそれ以下でもない代わり に、それは絶対だった。唯一、自分が竜胆と共にいていい免罪符。それがあるか ら、どんなことが起きても帰る場所があると思えた。瞳の端から一滴、とうとう 水粒が零れ落ちる。少女は悔しくて悔しくて上を向いた。両手が自由であれば、 腕を伸ばし無我夢中で空を抱いていただろう。縋る付くものが今すぐ欲しかった。
「五月蠅ぇ口だな」
「兄ィ、俺たちもあとでいいすよね」
男の手が、乱暴に少女の顎を掴む。 はらはらと落ちていく涙に舌打ちすると、男は少女の唇に武骨な口を寄せた。 厭らしい真っ赤な舌が、興奮気味に少女の咥内に向けて差し出される。 少女はきゅっと瞳を閉じた。
「バカりん、どう…… っ!」
ドスン!!!!!!!
大きな「何か」が落ちる音がした。 同時に視界が紫に染まる。
「待たせたな、おひいさん」
優しい低音が響く。 肩にはふわりと、柔らかい羽織の感触。 傍らでは愛猫が勇ましく鳴いている。 大きな手の平に頭を撫でられ、少女は初めて安堵の涙を流した。
踊り舞うように、紫と黒が疾走する。 その姿は、まるで神の化身と、その忠実なる式神のようだった。 鬼のような怒りを孕んで、敵に襲い掛かる。 後に続けと、芸人たちも勇壮な雄叫びをあげる。 さながらそこは、戦国の世の合戦場。 ぬらりと引き抜かれた白銀色の刀身が、 歓喜するように煌く。
「さあ、真打の登場だ!!!」
☆
『場内を強盗に乗っ取られた』
三区座の受付の男が、転がり込むように知らせに来たのは、わずか前。 いつものごとく談笑に涌いていた本番前の楽屋は、一瞬で静まり返った。真っ先 に立ち上がったのは、竜胆とシロ。そして紅葉と宵月だった。楽屋の物入れに閉 まっていた刀が、次々に芸人たちにわたる中、3人と1匹は夕暮れ迫る街に疾風 のごとく飛び出した。
三区座に向かって走る影。紅葉は、自分の体が戦慄いていることに驚いていた。 少女が巻き込まれているかもしれないと言う怒り。か弱い女たちの園を狙う卑 怯な強盗への激憤。しかし。それら正当な感情とは別に、自らを突き動かしてい るものがある。
頭の回る敵らしく、劇場の裏口には見張りがいた。 宵月の先導で、竜胆たちと紅葉は地下の通路に入り込んだ。奈落のあるそこは、 じっとりと熱が籠っていて一寸先も見えないほどに真っ暗だ。下駄を擦る小さ な物音さえも、耳奥に木霊するように響く。真上に位置する舞台上からは、強盗 らしき男たちの下種に歪んだ笑い声が聞こえている。女たちの怒号が、口々に 「やめろ」「手を離せ」と飛び交っていた。状況は一刻の猶予もない。
「俺と紅葉は、天井の犬走りから降りる。
宵月は舞台袖から後続の奴らを連れて出てくれ」
「分かりました」
地を這うように低い声で、竜胆が次の動きを告げる。犬走りへ向かおうと、3人 が身をひるがえした瞬間。舞台上から、時を切り裂くような叫び声がした。それ は紛れもなく、あの愛し子の助けを求める悲鳴。紅葉の血が逆流したように沸き立つ。弾かれるように、3人は再び、息の詰まるような地下通路へ走り出した。
「……… ちっ!」
竜胆が、犬走りから飛び降りたと同時。紅葉も舞台へ踊り出た。 板に足がついた直後、行く手を強盗二人に遮られる。
「紅葉!!!」
自分を呼ぶ少女の声が響く。それだけで脳天が焼け付くほど力が漲った。深く息 を吸い込んで、竜胆は懐刀を翻す。奇術用にと兄に預かった、家宝たる名刀。そ の刃が、少年自身の肌のように青白く光る。竜胆と対峙した強盗のひとりは、そ の表情にゾッとした。まるで血が通っていない無機物のような冷え切っている。
「そこ、どいてくれや」
じりじりと強盗たちと距離を詰める。幼い頃から不思議だった。どう動きどう切 り裂けばいいのか。実戦経験などない時代に育ったにも関わらず、不思議と体は それを知っていた。兄や道場に習わずとも、呼吸をするように腕が覚えていた。 すらすらとすばしっこく動き回る竜胆を捉えようと、強盗たちは総出で切り掛 かってくる。
「うらあああああああ!」
竜胆は、それらを切っ先で抑え込むと、弾くように払う。 ぐんぐんと攻撃を押しのけ、進んでいった。振るうたび、その刀は快いほど軽快 に敵を薙ぐ。峰打ちと言わず、身の奥まで思いっきり貫き通したくなる衝動が沸 き起こる。
「おひいさんを頼む!!」
ギィンギィンと鋼の唸る音が当たり一面に響く。 竜胆の声が飛んでくる。その腕は、強盗の頭領と激しく組み合い、対峙していた。 少女の背後では、シロが少女の捕らわれた縄を噛み千切ろうと奮闘している。 宵月を先頭に、他の芸人たちも舞台の四方で大暴れしている。ある者は刀剣で、 ある者は銃でもって応戦する。未だ身体を拘束されたままの女たちを、ひとりまたひとりと開放して行った。最初は息を殺すように、行く末を案じていた観客たちも、演目中のように歓喜の声をあげている。 芸人たちの登場によって空気は確実に変わり始めていた。
シロの奮闘の甲斐あって、少女の縄はすぐに断たれた。 身動きが取れるようになるや否や、少女は懐刀を握り締める。今、この瞬間も、 紅葉の周りには強盗の数人が群がり、隙を狙っている。少女は、それに自らで飛 び掛からんと鍔に手を掛けた。しかし。
「… 紅葉!?」
紅葉が、少女の頭を包み込むように、かき抱いた。 腕の中にすっぽりと収まる小さな体。その温みを決して離すまいとするように、 強く強く少女を抱き締める。 そうすることで、紅葉は必死に落ち着こうとしていた。 野犬のように獰猛な気が全身を満たしている。今、どんな顔をしているのか分か らない。得体の知れない感情に飲み込まれそうで、自分で自分が分からない。 強盗たちは、芸人たちの猛攻によってその数を減らし、焦りの色を濃くしている。 じりじりと距離を詰められる中、紅葉は微動だにしない。刀を抜くこともせず、 浅く短く息をしている。その呼吸は、まるで何かに支配されているように、次第 に荒く早くなっていく。
「… どうしたんだ?」
紅葉の明らかな異変を感じ、少女は顔をあげた。見つけた紅葉の紫瞳に、ビクリ と震える。その色は、怒りとはまるで真逆の、狂喜に似た感情に染まっていた。 右手からは、ギリギリと柄を握り締める音が鳴って、そのまま自らの力で燃え尽 きてしまうのではないかと思うほどだった。
「もみじ」
「…… あいつか」
「え?」
「あいつがあんたに触れたのか」
少女に駆け寄った時。竜胆がかぶせた、せめてもの隠し羽織。しかしその胸元か らは、肌蹴て晒された、少女の真っ白な肌が覗いていた。手首には痛々しく縄の 跡が残っており、頬には掠めた程度だったが鋭い刃の切っ先で引いたらしき浅 い傷が付けられていた。唇は、噛み締めたのかわずかに血が滲んでいる。 紅葉は、ゆらりと立ち上がった。
「紅葉、やめろ」
ザシン!!! 敵の放った一太刀が、鮮やかに払い捨てられる。 切っ先は曲線を描き、そのまま真っすぐに喉元目掛けて飛んでいく。 竜胆の刃は、ついに、敵の頭領を捕らえた。 カランカランと高い音を立てて、敵の刀が地に這う。 咎めるでも諫めるようでもなく。感情もない調子で、竜胆は投げかける。 少女を背後に護りながら、紅葉はゆっくりと頭領に近付いてきていた。矢のよう な速さで、残党を立ちどころに打ち倒す。その動きには一寸の躊躇もない。手元 が狂ったら最後、加減もわからず、相手を殺めてしまう。 竜胆の声に、紅葉は返事をしなかった。 紅葉の意識は、すでに自我を保っていなかった。心よりも腕が先に動こうとして いる。押さえつけても押さえつけても、刀身が自らを先導するように、仇を目掛 けて襲い掛かろうとしている。
「クッ、ククク…… !」
ふいに、空気にそぐわぬ笑い声が響いた。さも込み上げるものが噴き出したとば かりにゲラゲラと笑い始める。それは、喉元を捕らえられ、身じろぎすらも取れ なくなった強盗の頭領の、断末魔の叫びだった。
「そうだ、わっぱ。俺があのガキを犯した。 悔しいだろ?」
「貴様!!!」
「うあああああああああああああ!!!」
宙をがむしゃらにかいて、紅葉の懐刀が敵に切り掛かる。 その切っ先を、寸でのところで竜胆の刀が受け止めた。
ガキィン!!!!!
竜胆に抑えられ、紅葉の刀はキリキリと鳴き声をあげていた。何としてもあの敵 を討たねばならない。肉深くまで切り裂かねばならない。戦慄く腕は、興奮を増 していく。この刀は、醜い血に飢えている… !!
「落ち着け!こんな奴に煽られるな!」
「紅葉!!!」
「やめなさい紅葉!!!」
竜胆と少女の声。それに宵月の、張り詰めた叫びが重なる。 強盗を捕らえていた他の芸人たちも、何事かと竜胆たちのほうを見やっている。 もはや誰の声も、紅葉には届かなかった。 絡みついた竜胆の刃をそのままに、勢いまま敵に突進していく。 竜胆は息を飲んだ。紅葉の刀身は、橙色にも満たない鈍い炎を湛えたように、不 気味に光っている。さながら怨みを超えた絶望の灰色。 紅葉は、ゆらりゆらりと踊るように揺らめく。
「な、… っ!!」
竜胆の一瞬の隙を突いて、紅葉の懐刀が、白銀色の刃を抜ける。 気付いた時には、真っすぐに、敵に向かって飛び込んでいた。
「でやあああああああああっ!!!」
刀が、強盗の眉間に引き寄せられる。 その切っ先が、突き刺ささらんとした、その刹那。 紅葉の手は、ピタリと止まった。
「…… っ!!」
紅葉の喉元に、か細い打刀が、吸い付くように添えられている。
「いい加減にしなさい」
それは、宵月の刀だった。 静かに囁くように、宵月は告げる。その声は、誰もがハッとするほどに悲哀に満ちていて、ともすれば泣き出しそうにも聞こえた。普段は、透けるような緑の瞳 が、まるで自分が傷付いたかのような痛みを孕んで、深い深い青に変わっている。 蝋燭の火がざくりと消えるように。紅葉の瞳は、焼き切れて色を失っていった。 虹彩に漂っていた血の匂いも、いつもの彼の穏やかな草花の気配に戻っていく。
宵月の声によって、まるで憑き物が落ちたようだった。 紅葉は振り掲げていた腕を下ろす。 湧き上がった怒りを惜しむように、懐刀がカシャンと小さな音を立てた。
「お上の主命だ!!引っ立てろ!!」
いつの間にやってきたのか。出遅れも良いところなこの街詰めの警官たちも、せ めて仕事をと強盗たちをお縄に付かせている。観客たちや踊り子たちも全員脱 出し、芸人たちの活躍によって、史上も稀なストリップ小屋での強盗劇は、あっ けなく終演を迎えたのであった。
ゴンドラの唄
「だぁかぁらぁ。 アタシらは知らないって言ってるじゃないか!」
我ら警察の、一日は長い。
ハレであろうが、ケだろうが。この街は、年がら年中浮かれた情緒に、気狂い輩 が蔓延っている。油断や躊躇はもってのほか、見つけた時にしかと曇りなき眼で 精査することが最も重要である。選び抜かれた先鋭たちは、みな鶏の鳴く前には 持ち場に付き、昼夜問わず怪しげな者や出来事に鋭く視線を光らせる。当然、昼 餉も夕餉も八つ時などもないに等しい。いつ何時善良なる町民たちの悲鳴が耳 に届いてくるかも分からない。俊敏に動ける身軽さこそが、凶悪なる犯罪に真っ 向勝負を挑める基本中の基本と言えよう。 最も、日がな一日交番の前で警棒片手に立っているだけで、何も起こらない日も あるにはあるが。それはそれ。お上の誓いを確実に行使し平和を護ることこそが、 我らが警察官に課せられた、一等誇らしき任務である。
「嘘を言うな!!!」
ダァン!!と派手な音を立てて、交番の安べったい木組みの机が揺れる。入れた ばかりの熱々の緑茶が、瀬下の怒声と打ち付けた拳によって華麗に迸る。アチチ、 アチと、火傷した腕を苦々しく見やる瀬下。脇に佇んでいた宵月は、その様を仏 像のように平べったい目元で見つめる。 もはや様式美のようにもなった、深い深いため息をついた。
「どうしてこの街の警察はこんなに無能なんでしょうか。
強盗に知り合いなん ていませんよ。
馴染みも一見も、うちは健全病気なし明瞭会計がお題目なんです から」 「では、やはり痴情沙汰の線か。
おい女。どこかの芸人と諍いでも起こしたんだろう!」
「ちょっとヤダ!!失礼しちゃう!!」
花のかんばせが、ぷうと不満に膨らむ。宵月率いる三区座一の名踊り子は、食い 気味に反論した。黙って聞いていれば小屋や店主のみならず、私情にまで警棒を 振り下ろさんとするとは。牛乳色の衣装を脱いでも、隠しきれない乳をグイと張る。
「そりゃ好いたお人はいるけどさ。恨みを買うような恋はしないよ。
まして、店を襲うような野蛮な男は、鼻から願い下げだね!」
あと、アンタみたいなお堅い石頭も下手クソそうでヤダね。真っ赤な紅を引いた 唇から、踊り子はペロリと舌を出す。只でさえ、昼間の事件の諸々で傷付いたま まの繊細な乙女心なのだ。これ以上無粋に踏み込まれては、なけなしのユウモア も脆く一人寝の涙に変わってしまうと言うもの。
「分かりましたか。うちの者は一切、何一つ関係ありません。
大方、不佞なあなたたちの見落とした、罪人たちではないんですか」
ぐぬぬと眉間の深い深い皺を寄せて、瀬下は二人を見やる。宵月は相変わらず、 鞣した安皮のように冷冷たる表情で、くあと小さく欠伸をした。 事件からすでに数十刻。その場に居合わせた全ての人間を呼びつけて、高圧的な 詰問にも似た取り調べは長々続いた。しかし、こうして最後のひとりになっても、 その口からは決定打となる情報は拾えなかった。これではお上の主命が果たせ ない。ついでに言うと、この高飛車で傲慢な、やたら憂い顔の男の鼻を明かして やることも出来ない。
「口割らせんのがアンタらの芸当でしょ?
時間かけてシコシコ搾り取れば、イイ顔で吐くんじゃないかい?」
卑猥染みた言葉を並べながら、踊り子の女は妖艶に笑う。無論、警察だって素人 たちの答えだけを指を銜えて待っているわけではない。成すべきことは成しつ つ、裏ではこうして地道な公務を積み重ねている。とは言えども、この街で起き る事件はこれ一つではない。昨日と明日とその次の日も、平穏なる日々を地獄に 落とそうと、凶悪犯は手ぐすね引いて待っている。解決は常に急を要するのだ。
「写真は全員分届いている。待っていろ」
そう言い残して、瀬下は奥の部屋に消えていった。 ああ言うとこだよ、あの警官。きっと女を抱いたこともないんだ。客なら上手に 返して来るのにさァ。わざと吹っ掛けた踊り子は、つまらなそうに口を尖らす。
態度にこそ出さないまでも自分の非を感じていた宵月は、彼女の明るい振る舞いに、幾分か救われていた。 瀬下に告げた事柄には、勿論、嘘偽りなかった。 あれだけ多くの人間に顔を晒しておきながら、彼奴ら強盗は、名前や身分はおろ か、その目的すらも口にしないのだと言う。だれの指示か、黒幕は誰なのか。宵月は確かに高利貸しも営んでいるから、ただの物取り、金目当ての線が最も濃厚 ではあったが。奴らは明らかに手練れであった。特に頭領は、あの刀の名手であ る竜胆とも対等に渡り合っていた。ただの強盗とは思えないほどに、ひとりひと りが確かな剣術の心得を有し、即席の子悪党とは違う統率の取れた集団だった。 今回は運が良かったが、知らせが遅ければ結末は変わっていたかもしれない。
これは、欲望に塗れた刹那的な犯行ではない。きっと深い闇が…… と、ここまで考えて宵月は軽く首を振る。昨日読んだ流行りの推理小説のせいだろうか。そもそも踊り子の女たちに煽られ刀を振り回したり、非力であることを 良いことに少女に手を付けようとするなど、玄人と一言では言い切れない言動 もある。きっとはけ口もない独り男だったのだろう。瀬下ではないが、アッチも 無能の類に違いない。
「やれやれ…… こんな事件が起きたとあっては、
しばらくはお見舞金だけでお足が出せそうですね」
無駄な思考を散らすように、宵月は独りごちる。もっとも、急に静かになった傍 らの従業員が乗ってくることを踏まえての言葉だったのだが。パーマネントの 巻かれた髪をクルクルと弄びながら、踊り子は物思いに耽っていた。綺麗に爪紅 の塗られた指先が、飽きることなく毛束を透いていく。
「ねーえ、宵月さん」
「なんですか」
「アタシにもいつか竜胆様とあの子みたいに、
深く慕い合える殿方が現れるかしら」
おや、と宵月は驚いた。 黙っているかと思えば、この子は想像もしないことを言う。 彼女が竜胆に想いを寄せていたことは、宵月も知っていた。竜胆は、気まぐれに 三区座にやってきては踊り子たちの喜ぶものを差し入れて、上手に遊んで帰っていく。いつ来るとも分からないその想い人を、彼女は、彼好みの化粧で特注の 衣装で、大きな胸を震わせながら待っていた。
こんな身を切る生業だからこそ、店の女たちはみな、見た目に反し純粋無垢なと ころがある。紳士的だなんだと乞われて、竜胆が店の女と関係を持ったことも一 度や二度ではなかった。とある子など、和蘭座の裏で竜胆とまぐわっているとこ ろを陽炎たちに目撃され、「もうあの方とは縁を切りたい」と、こちらのお仕事 まで引退されてしまって苦い思いをした。 真実を知る機会だってあっただろうに。 それでも彼女は、一途にあの男だけを想い続けていた。
「あの子って。 まさか、あの少女のことを言ってるんですか?」
「そうだよ」
「冗談でしょう!まだ子どもですよ。
それに、あの少女なら、紅葉と恋仲と聞きましたよ」
長い付き合いだからこそ分かる。今日のような紅葉の姿は珍しい。 ただでさえ歳に似合わず取り乱すこともない、可愛げのない少年なのだ。輪をかけて、あの子は自分に鈍感なところがある。物憂げな横顔の意味を問うてみても、 しばらくは何も話してくれなかった。彼自身、真っ向から落ちてきた隕石のよう な恋情を持て余していたのだろう。惚れていると心を決めれば、持ち前の男気が 火を噴いて真っすぐに向かっていく。その想いが、危険な方へ向かうこともある のだろうが。 いずれにせよ。自分に無頓着であった紅葉にとっても、また竜胆に思慕を寄せる彼女にとっても、あの少女の恋心は朗報に違いない。
「あなたの案ずるような関係じゃないでしょう」
宵月は、さもありなんとさらりと返す。すると、踊り子は顔じゅういっぱいで驚 きを露わにした。ころころと転ばすように笑い始める。
「なんです?」
「宵月さんもやっぱり殿方なのねェ、意外だわ」
「どういうことですか」
そこへ瀬下が、いくつかの銀塩写真を抱えて現れた。 反対の腕には、急須の乗ったお盆が見える。先ほど自分でぶちまけたお茶を、入 れ直そうと言うのだろう。ゆらゆらと立ち上る湯気は、めっきり秋めいて宵には 冷え冷えとし始めた昨今の陽気に、寄り添うように温かい。
「静かにしろ。続きをやるぞ」
茶をくべる瀬下に、空になった湯飲みが2つ突き出される。どうやら彼女も同じ ことを考えていたようだ。澄ました顔でおかわりを求める善良なる一般人に、も はや警察の威厳も糞もあったものではない。地金を見せたように瀬下は小さく 舌打ちをする。
「それで。教えてくれないんですか?」
「女の勘は残酷だ、って話よ」
「いまいち的を得ませんね」
「仕方ないなァ。それじゃあ、 宵月さんには特別に教えてあげるからさ」
踊り子は、ちょいちょいと宵月を手招きする。 呼ばれるままに近付くと、彼女は瀬下から隠すように小さく囁いた。
「今晩、ちょっとだけ飲みに付き合ってくれないかい?
アタシの失恋祝いにさ」
そう言って彼女は、いつものように悪戯っぽく微笑む。その瞳は誤魔化されそう なくらいにうっすらと潤んでいた。その表情の意味は、やはり宵月には分からな い。けれども、ああとひとつだけ思い至った。そうなのだ。彼女もまた、酷く不器用で素直さのない、生きることが下手な可愛い女なのだ。 宵月は、そんな彼女に気付かないふりをする。 何食わぬ顔で瀬下に向き直った。淹れたての粗茶はそれなりに美味しそうだ。
「さあ。とっとと終わらせましょうか」
☆
ジリジリ、ジリジリ。
独特の音を立てて、ターンテーブルは回っていた。 ぜんまい仕掛けの歌姫は、夜長の静寂を包むようにゆったりと奏で始める。 曰く、明日の月日はないものを。ただ戀せよ、戀して生きよと。しばらく前なら ば、感傷的すぎる陳腐な歌詞だと笑い飛ばしていただろうが。浮かされた熱冷め やらぬ紅葉にとっては、それもまた自分に向けられた戀唄のようにさえ感じられていた。
「やっと寝付いたな」
「ああ」
天井を見つめたまま、竜胆が呟く。 紅葉は、掠れた声でそれに応えた。 少女の眠っている隣で、竜胆は大の字で寝そべっている。少女を挟んだ反対側で は、紅葉が同じように身を横たえていた。二人は正直のところ、とても心地良く、 疲労困憊していた。 言うなれば、小さな嵐が過ぎ去った後。 大立ち回りを演じたせいでも、堅物警官の詰問が長々と続いたせいでもない。 事件後、少女が大荒れしたせいである。 取り調べの交番でも竜胆の家に帰ってきても、眠りに落ちる直前まで。少女の火 山のような憤怒は収まらなかった。
可愛らしいのは、その原因が自分に対する憤り、だったからだ。ストリップの踊り子たちや観客を護れなかった、刀が抜けない状態で辱めを受けた、あまつさえ仇に切り掛かった紅葉を怪我させてしまっ た。その全てが余程口惜しかったらしい。ギリギリと歯噛みしてはむくれるので、 本来怒っていたはずの紅葉すら宥める側に回ってしまうほどだった。
男二人で聞くには余りに甘ったるいこの流行歌。これも竜胆が鎮静剤代わりに 蓄音機に掛けたものだ。一等お気に入りの唄でも流せば落ち着くと踏んだのだ が、一定の効果はあったらしい。怒り疲れた少女は、二人の間で穏やかに寝息を 立てていた。
「とんだじゃじゃ馬だな。強盗よりタチが悪い」
起こさない程度の力で、竜胆はツンと少女の頬を突く。痛々しく残っていた傷は、 紅葉が細身の絆創膏を貼って手当てをしてやっていた。怖かっただろう、痛かっ ただろう。内包していた小さな火種が、今更になって膨れ上がりそうになる。 ゆっくりと上下する少女の胸。 その向こう側でフッと紅葉が息を漏らした。情けなさそうに眉を寄せる。
「俺は助かったぜ。 お
陰でこれ以上カッコ悪りぃとこ見せずに済んだからな」
宵月に窘められ、紅葉の刃はしばらく宙を彷徨っていた。 いきり立つ想いの行き場もないまま、荒い息を繰り返す。紅葉を落ち着かせたの は、誰あろう当事者であり一番に傷を負っていたはずの少女だった。気遣う余裕 などないほどだったろうに、怪我はないか痛いところはないかと、眉を下げて紅 葉を見つめる。その眼差しに、口から零れ落ちる心配そうに自分を呼ぶ声に。紅 葉の心は次第に冷静さを取り戻していた。
ため息を零す、紅葉の横顔。 それは、言葉の割に喜色を湛えていた。こんなに情緒の豊かな男だったかと、竜 胆はわずかな驚きを感じる。歳の割に落ち着き払って、砂糖菓子ほどに甘い気障 な言葉をさらりと宣う。女人の頬を染め上げることなど容易にやって見せるほ どの紅葉が、ああまでも我を失い、たったひとりの少女の為にここまでコロコロ と表情を変えて見せる。理由など深く追わなくとも分かっている。初めて見せる、 紅葉の若く瑞々しい『男』の顔。
「なあ、旦那」
「ん?」
「俺は、この子が好きだ」
呼吸をするように、紅葉は言った。 その声には、明確に相手を試すような響きが乗せられている。 誰でもない、竜胆の本意を探る直球の言葉。 もう逃げられないのだろう。竜胆は他人事のように思っていた。 自分も紅葉も、今までのようには歩んでいけない。 元はと言えば、二人とも独り身芸ひとつで身を立てる一介の芸人風情でしかな かった。笑いを取ること、客を喜ばせることだけを考えて生きていれば良い。あ とは欲の赴くままに芸の肥やしとお遊戯を貪れば良い。野蛮な無法地帯ゆえ、健全な世間様に比べれば、今回のような出来事は多く起こる方ではあったが。それ でも元来、人は平穏を好む。二人の毎日も、起伏があるようで同じような刺激を 追い求める、陽気で楽しい平凡な日々だったのだ。 少女と言う非日常が、日常を染め上げるまでは。
「俺も好きだぜ」
性欲。独占欲。支配欲。欲と名の付く全ての醜いもの。あらゆる欲望を固めたひ とりの男の汚い我儘と、いっそ割り切れればどんなに良かったか。ただ、自分の 為に微笑んでくれる、自分を無邪気に求めてくれるこの少女が惜しいだけなの だ。恋や、まして愛などと言う与え続けるだけの無償の精神では、断じてないと、 自分に言い聞かせられればどんなに楽だったか。 言うほどに大人ではないと思い知らされる。 紅葉が、少女の怒りに声に落ち着きを取り戻していたように。自分もまた、少女の自分を求める叫びに、正気を保っていられた。湧き上がる血を無用に暴れさせずにいられた。地獄のような奈落で響いた、自分の名前。頼られていると思うだけで、無限の力が漲るのを感じた。人を想うことなど面倒なことだと感じていたのに。人の過去を背負うなど重荷でしかないと思っていたのに。
とうの昔に、少女の存在は自分を生かす大きな要因になっていた。 自分も、この純粋な少年と同じなのだ。 ただ、この子を護りたい。与えるだけの恋をしている。
「そりゃ『娘』としてか?」
「どう思う?」
質問を質問で返す。竜胆の十八番に、紅葉は片眉をあげる。吹っ掛けた問いにやっと正攻法で返してきたと思えばこの様だ。そう言えばと長い付き合いを思い 出す。この旦那はどこまでも「愉快さ」を求める。それは他人に対してだけではな く、自分自身に対してもだ。決まりきって先の見えることよりも、定めない未来ほど面白いものはない。
「場合によっちゃ聞き流せないぜ」
「街一番の奇術師に、種も仕掛けも使うもんか」
音楽は、気付くと終わっていた。 布を割くような音で、レコードはまだくるくると回っている。 竜胆は、畳に手を付くと立ち上がった。部屋の隅にある蓄音機に歩み寄る。 ハンドルを回すと、ターンテーブルは再び回転を始めた。 トーンアームが内側に向けて動き、針がレコードの溝をトレースする。 奏でられたのは、少女の好きなあの戀唄。
「『男』としてに決まってるだろ」
竜胆は、悪戯坊主のようにニヤリと笑う。その顔は、芸人『竜胆輝元』の会心の 笑みだった。謎かけで絶妙な掛け合いを魅せる、高座での男の姿。観客や仲間の 芸人たちすらも魅了してやまない、当代きっての噺家のとんちの効いた小技。ふ ざけていないからこそその返答は太刀が悪い。
「まさか旦那が男色家だったとはな」
「おっと分からなかったか。きみも腕が落ちたな」
「言っておくが、大喜利での成績は俺のほうが上だ」
「今週はな。来週は俺だ」
なんだ、自分よりずっと子どもじゃないか。と紅葉は思う。 ガキだなんだと人のことばかりを言っているのに。その表情は晴れ渡った空の ように清々しくさえある。子どもと大人の違いなど、積み重ねる年月以外に一体 何があると言うのだろう。奥底に残っているものは、幾年月を経ようと変わらな い。ただ欲しいものは欲しい、護りたいものは護りたい。いくら飾りや技術で包 み込んでみても、持っている刃は変わらないのと同じなのだ。 男と生を受ければ、みな等しく欲を持つ。 芸人と言うのは、殊の外その欲が強すぎる生き物なだけだ。
「そうと決まれば、俺はもっとこの子に惚れてもらわんとな。
何といっても、今一等頼りにされてるのは旦那のほうなんだから」
思いのたけ、僻みっぽく紅葉は言い投げる。 本当はずっと口惜しく思っていたのだが、一方的にそれをぶつけるのは誇りに 反すると黙っていたのだ。『男たるもの、見せるなら行動で』と言うのが、目下 上京中であるはずの長兄、貞国の教えである。ただ、感情は同じ恋敵とあれば、 そこは素直に子どもの身分を遣わせてもらって、宣告させて貰うが道理。
「唇への接吻くらいは良いだろ?」
旦那とこんなやり取りをしているとは。少女が起きていたらきっと顔を林檎の ようにして恥ずかしがるに違いない。いやさ、ひょっとしたら勝手なこと言って と怒り出すだろうか。目覚めてもらっては困る。でもほんの少し聞いて欲しい気 もする。さらさらと流れるような少女の黒髪を、紅葉は指先でそっと撫でる。
「ダメだ。許したのはデエトまでだろ」
「あんたは同じ屋根の下にいるんだろ。分が悪いぜ?」
「ただでさえ掌まで許したんだ。これ以上まで許せるものか」
竜胆が、元いた少女の隣にどかりと腰を下ろす。懐から、手に取ろうとしていた パイプが転げ落ちた。反対の手は、少女の髪を透く紅葉の手首をがしりと掴んで いる。
「『おとう』ぶりやがって」
「『おとう』でもあるからな」
顔を見合わせると、竜胆と紅葉はほぼ同時に噴き出した。 起こさないように、声を漏らさぬように、肩を震わせて笑い続ける。少女の温も りの恩恵を誰よりも預かっていた愛猫が、少女の足元でみゃあとひとつ声をあげる。寝ているのかと思えばひと鳴きもせず、随分と殊勝な様子で事の次第を見 守っていたらしい。ひょっとすると、一番二人に疎まれるべきは、常に少女の傍 にいることを許されたこのお猫様なのかも知れない。
あれほどの騒動と、これほどの変化があったと言うのに。 お天道様はいつもと何ら違わぬ様子で、新しい日の透けるような空を照らし始 めている。 中心におますは、寝つきの良すぎる赤き唇の乙女。その両隣では乙女の護り人が、 競い合うように紫煙を漂わせている。少女と二人きりならば、そのかんばせに乞 いの煙を吐きかけてもやりたいものだったが。生憎と部屋には、むさ苦しく男二人と雄一匹。
場にそぐわぬ戀唄も相変わらずで、紫の男が零すように「陳腐な歌 詞も悪くないな」と口にしたので。紅葉は派手に煙をむせる羽目になってしまった。
あの子のジンタ
『十二階』と呼ばれる塔がある。
もっとも、その名はその麓にある街の芸人たちが呼んでいる通称のようなもの だ。 正式名称は『凌雲閣』。雲をも凌ぐほどに天高い塔と言う意味だ。街をあげて海 の向こうから職人を呼び、鳴り物入りでつい一年ほど前に建造されたものだっ た。地上十二階と言う、どの御代でも建てられたことがないほどの高さを誇り、 一番上に昇るにはハイカラにエレベーターとやらを使うらしい。 流行り物、新し物好きの芸人たちは勿論こぞって出来立てほやほやのそれを拝 みに出掛けていた。その筆頭は勿論「新し物好き」を自称する竜胆であった。
し かし、何度登頂をしようと竜胆が十二階へ行くのはいつも一人きり。仲間の芸人たちと連れ立って行くことはあっても、少女と共にいる時は近付こうともしない。この街に迷い込んでから、家の窓から見えるその塔の頂きとその彼方に憧れ続けている少女には、それが酷く不満であった。それがある日のこと。 急に思い立ったように、竜胆は「十二階へ行こう」と言い出した。
「なんでだ」
「なんでって、行きたがってただろう?」
時は、夜の部が終わったばかり。寄席小屋の袖よりの廊下。
今日の片付けに明日の準備にと、小屋の男たちは忙しく走り回っている。導線を 塞ぐように立ち話をしている一組の芸人の親子は、正直邪魔でしかない。それで も気の良い彼らは、器用にそれをすり抜けながら「今日も大入りで」「お二人で 夕餉の算段ですかい?」と一声掛けて去っていく。
竜胆は、一瞬楽屋のほうを見 やると、廊下の脇に避けた。少女の袖を引くと、小さな体ごと自分の方へと引き寄せる。
「関八州の山々まで見えるぞ」
「こんな晩にか?」
「山は見えなくとも何かしらは見えるだろう」
「怪しい」
竜胆の挙動は、どう甘く見ても不審この上なかった。何かを隠そうとする時、こ の男は今少し上手に隠すものだ。隠蔽しつくそうと思えば、周りを丸め込んででも嘘を付く。遊びに行ったり、女と時化込んだり、そのたびに一々とご丁寧に騙 されてきた少女は、もうその手には乗らぬと強固な姿勢で迎え撃つ。
「紅葉と約束でもしてるのか」
急に紅葉の名前を出されて、少女は一瞬怯む。あの三区座での事件が起きて以来、 紅葉は前にも増して少女を甘やかすようになった。寄席にいる時も例えそれが 楽屋であったとしても、まるで見せつけるように何くれと少女の世話を焼く。デ エトのお誘いも、ほとんど一日おきに声を掛けられるようになった。極めつけは、 その帰りがけだ。必ず家の玄関前まで送ってくれるのは変わらないのだが、去り 際に耳元で甘く囁くのだ。
「好きだ」
「ひゃうっ!!!!!」
少女は思わず声をあげる。考えていたことを読まれたように、紅葉のその台詞が 聞こえたからだ。 声のした方を振り向くと、そこには目をまん丸にした堂前が立っていた。肩に乗 った人形のキツネまで一緒になって毛を逆立てている。普段ぶっきらぼうな少女の面白い悲鳴。竜胆は、土盛りの床に膝から崩れ落ちて、全身を戦慄かせて大 笑いしていた。
「おひいさん!なんだ今のは!!」
「舶来のお酒の話だったのですが。そ、そんなにお嫌いでしたか?」
堂前の台詞すらも、紅葉の声で聞こえてしまうとは。ほとほと自分ものぼせ上が っているらしい。毎度ああ囁かれては、耳に残って気になって気になって仕方が なくなるのだ。人の気も知らないで。地面にうずくまって腹を抱えている竜胆は 勿論、罪なき腹話術師御一行様すらも、今の少女には腹立たしく感じる。ぷうと 頬を膨らましたまま、少女は竜胆の尻をばつんと平手で叩く。竜胆が、オウ!と 色気のない声をあげた。
「紅葉は今日は、ご兄弟と会うそうだ」
「じゃあ良いな。行くぞ。準備しろ」
竜胆の様子は、いつもに輪をかけて怪しい限りだが。兎にも角にも、念願敵うの だ。気持ちが上がらないはずもない。最近では、夜半は息が白々とするほどに寒 くなる。きっと塔の天辺は地上よりもずっとずっと凍えるように違いない。楽屋 に備え付けられた箪笥から、冬用の羽織を取り出そうと背伸びをしていたら、背 後からひょいっと盗み取られた。声に出さずに口元だけで「はやく」と宣う、すでに羽織に身を包んだ竜胆。
やはり今日のこの男は、何かおかしい。
☆
竜胆が、十二階に少女を伴わなかった理由。
それは、十二階の階下の通りを歩けばあっという間に分かってしまった。
「竜胆様、今宵は可愛がって下さらないの?」
「最近はどうしたんだい?おっぱいもあそこも
綺麗に磨いて待ってたのにさあ」
慣れっ子と言えば慣れっ子なのだが、こうも赤裸々に見せられてしまうともは や呆れるを通り越して馬鹿馬鹿しい。しかもこの大の男は、それを自分のような 歳も離れた少女にずっと隠そうとして来たのである。今更、それこそ十二階のご とく積み上げてきた贖罪を悔い改めよという権利も提言する気も自分にはない が。それでも同居人として「おとう」として、この体たらくはいかがなものだろうか。
予想すらしていなかったが。十二階の麓は所謂、赤線地帯であった。 マッチ箱のような長屋やシナ料理屋やおでん屋などの立ち並ぶ界隈に、夜も昼 もない青白い夢や、季節はずれの虫の音、またはどこからどう掘り出して来るか とも思われる、少女とさして年の頃変わらないと思われる娼婦が、ふらふらと、 小路や裏通りから白い犬のように出てくるのだ。それは、どの子も半分田舎めい て半分都会めいた姿で、鍍金の紅い指輪や八十銭ほどの半襟やチカチカ光る貝 細工の束髪ピンなどで体をかためている。 綺麗だが悲しい。哀しいけれど綺麗。三区座の女たちの派手さや賑やかしさとは また違う。彼女たちもまた、身を売り芸を売り、男の欲を満たしておまんまを食 っている。随分と贔屓にしていたらしく、路地を行くたびごとに、竜胆の元には 女たちがひとりまた集団で駆け寄ってくる。白く細い手を差し伸べて、今宵の閨 をと少女がいるのもお構いなく誘ってくる。
「悪いな。またいつかな」
少女は、驚いた。平素ならば「今日はこぶつきなんでな、また明日来る」「金が入ったらな」などと、正面から断ることはまずなかった。馴染みの街なら尚更だ。 日を置かず遊びに訪れているだろうに、その言い方ではまるで見えない先まで 来る予定はない、と言っているように聞こえる。 案の定、娼婦たちは衝撃を受けたようで、中には顔をくしゃくしゃにして泣きっ面で路地裏に走り去っていく者までいた。
「竜胆?」
さすがの少女も心配になる。この色狂いが一体どうしたと言うのだろう。男の物 にでも異常を来したのかと、下世話にも眼前の下腹部を見つめてしまう。夏先までは正常だったのを確認している。もっとも思い出したくもない真黒な記憶と して、もはやそれは心の奥の蔵に仕舞い込まれていたが。ひょっとして淋病か何 かだろうか。少女も街に慣らされて随分と耳年増になっていた。
「無駄打ちは極力控えろと息子に叱られたんでな」
竜胆の歩幅がぐんと広がった。速足でこの通りを抜けようと言うのだろう。後ろ 向きに手を差し出されて、少女はその小指を小さく握る。竜胆と少女は正面にそ びえる十二階の入り口目掛けてぐいぐいと進んでいった。降り注ぐ女たちの声 が背後にかき消える。竜胆の速さに着いていくのがやっとで、半ば犬の散歩のよ うになっていく。竜胆は一瞬少女を顧みると、掴んだ小指ごと、その大きな手で 少女の手を包み込んだ。
「はい。旦那は8銭。お姉さんは4銭な」
『江湖の諸君、暇のある毎にこの高塔の雲の中に一日の快を得給え』
手渡された縦長の入場券には、むつかしい漢語でそう書かれている。その意味は 良く分からなかったが、それよりも。値段こそ子ども扱いだが、受付の初老の男 に「お姉さん」と呼ばれて少女はわずかに上機嫌になった。小屋とその周囲にい れば散々、おひいさんだガキだと言われて暮らしてきたのだ。あすこを出れば、 少しは大人の女の扱いをしてくれる人もあるらしい。
「おいで」
しかして、目の前の小狡い男の扱いは何ら変わらない。もくもくと立ち昇る塔は、 間近で見るとなお大きく雲を突き抜けていた。はやる気持ちが抑えられない。竜 胆が手招くのも無視をして、少女は入り口の渦巻きのような階段を駆け上がり 始める。 昇れば上るほどに、階段はその蝸牛のような渦を増した。昼間でもきっと薄暗く足元も見えないほどなのだろうが。晩も深いその頃合いともなると、もはや足元 どころか一寸先すらまともに見付けられないほどだった。
竜胆も、他の同じお客たちも追い抜いて、ずいずいと階段を一段飛ばしで来た少女は、その段になって 少しだけ後悔する。ところどころ空いていた光取りの窓も、煉瓦造りの柱に埋め 込んである蝋燭も、周囲を見回せどどこにもない。 階下からは、コツンコツンと人が上がってくる足音がする。それは階上からも聞 こえているような気がする。ボウフラの様にゆるゆると揺蕩う生ぬるい空気が、 東西南北を余計に分かりにくくさせる。振り落ちて来る物音は、次第に全てこの 世のものではない声のように反響しておどろおどろしく鳴り始めた。じっと黙 っていても、自分の鼓動の速さにすら怯えて身が竦んでしまう。身じろいだ時に ザザリと鳴った足元の砂が、パラパラと階下に向かって墜ちていく。
情けない。また自分のせいでこんなことになってしまった。三区座の時と同じ。 またも自業自得で怖い思いをする羽目になってしまった。そうは思っても、自分 自身では本気で反省をしているつもりでも絶望しているわけでもなかった。今 日はあの時とは違うのだ。階下には竜胆がいる。私が置いてきてしまったのだか ら、私を追ってやってきているのだ。そのゆるぎない事実だけで、少女は幾らで も気合を取り戻す。竜胆は決して、自分を置いてどこかに行ったりしない。自分を残してひとりでいなくなったりはしない。
ふん!と小さく息を吐いた瞬間。ぐらりと斜めに倒れ込む。
真っ暗な背後から、長く真っ白な骨ばった腕が、少女の体ごと捕まえた。
「今日は呼ばれる前に来たぞ」
どうせ暗闇だから見えてなどいない。少女はニヤリと不敵に笑って見せた。手探 りで進まないといけないような真黒の中にあって、竜胆の姿は月夜に輝くよう にはっきりと発光して見える。 ほら。例え私が見失っても、竜胆が見つけてくれる。だからこの街は、どこにい ても安心していられるのだ。
「もう逃げるなよ」
「はーい」
気のない返事を返す。竜胆は、わざとらしくはあとため息をつく。そのまま少女 の足を抱きかかえた。突然地面から離されて、少女はわたわたと足をバタつかせ る。見えないことを言いことに、その力は中々にしぶとい。背中まで竜胆の片手 に捕らわれて、何とかその拘束から逃れようとする。頭は混乱を極めていた。今 まで、どんなに転んで膝を擦りむいたとて、竜胆はこんなことをすることはなか った。こんな、まるで、おなごにするような。
「下ろせ、バカ!」
「暴れるなって。また迷子になったらどうする」
「こんなこと、紅葉にだってされたことないんだぞ!」
竜胆の動きがピタリと止まった。先ほど少女がこっそりしたように、ニヤリとお 得意の不敵な笑みを浮かべて見せる。足を抱えている腕に、ぐんと力が入った。
「そりゃどうも。お初を頂こうか!」
それからはずっとそのまま。どこまで続くかもわからない長い長い階段を、竜胆 は少女を抱えたままゆっくりゆっくり足元を確かめるように昇って行った。途 中までは少女も下ろせ離せと脱走を試みていたが。自分で昇るよりも存外楽で あることに気付いてからは、もう抵抗することもせず。むしろ竜胆の首に腕を回 してみたりして、ひとときの高い視線からの見物を愉しんだ。
どれくらい掛かったのだろう。随分と長かった気がする。
着いたぜ、と耳元で言われて、後ろを振り返ると。そこには今まで見たこともな いような絶景が広がっていた。眼下に広がる街々は、どこまでも宝石のように光 を湛えている。赤や黄色や緑の提灯の明かり。見世物小屋や人形芝居に吹き矢店、 興行を行うオペラ座の賑やかな喧噪まで聞こえてくるようだ。階下には、先ほど 速足で駆け抜けた赤線も見える。高いところから見ると、それらは近くで感じた 物悲しさも覆い隠されているようで、夢のような美しさだけが残って見えた。少女は猫のようにぬるりと竜胆の腕から地面に降りる。
「シロも見たかっただろうな」
珍しく今日は、二人も愛猫を伴っていなかった。いつもなら二人が歩きだすと後 ろからのっそりと付き従うのだが。寄席を出た途端、すたすたと家へ向かって歩 き去ってしまった。少女は、背後で見守る竜胆を振り返る。展望台の塀によじ登 ろうとするのを支えてくれた。
「空気を読むってのは芸人の基本だからな」
ほら、あの辺が和蘭座だぜ。あっちは三区座だ。相変わらず得心の行かぬ言い回 しで、竜胆は愛猫の話題を切る。少女が首をかしげている間にも、あっちだこっ ちだと普段行き慣れた通りや店店を指さし案内をする。寄席のある通りは、すで に閉まった店も多くて暗くなっていたが、チラホラと灯篭の明かりの漏れる人 混みがあった。少女は目を凝らして、その中に紅葉を探してみたが、生憎と今夜、 彼はこの街にいないことを思い出して少ししゅんとした。
雲までは手が届かなかったが、想像した以上の景色は堪能できた。 少女は、まだ興奮冷めやらぬ様子で遠くを見回している。夜深まるほどにキラキ ラと色彩を増す街を背に、竜胆はぎこちなく口を開いた。
「なあ、おひいさん」
「なんだー?」
「ちっと真剣な話なんだ。ちゃんと聞いてくれ」
声色が含む低音に、少女はハッとした。壁にもたれかかって、人もまばらになっ てきた展望台を見つめたまま。竜胆は薄く瞼を伏せている。手元では所在なさげ にパイプを回している。
「…… なに」
「怖がらなくていい。知りたいことがあるだけだ。
きみのその懐刀。前に『鎬造り』だって言ってたよな」
「うん…… 」
竜胆の片手が差し出される。少女は肌身離さず刀を持っていた。誰の手にも渡し たことがない。それは竜胆にも同様で、今までこれだけ一緒にいてきちんと見せ たことは一度もなかった。我を失った過去に繋がって居るかも知れない。そう思 うだけで預けるのも嫌だった。自分自身はと言えば、憑りつかれているかのよう に、この一振に魅せられていた。街外れに一軒だけある貸本屋にまで出向いて、 この刀の造りを調べていたのだ。
「銘は?」
「分からない。削ったような跡だけ残っている」
「そうか」
幸い、周囲は景色に夢中で気付かない。少女の手渡した懐刀を、竜胆は鞘を抜い て抜き身で携える。飾り紐や柄の造形、薄っすらと浮かんだ銘の後まで、じっと 鑑定士のように見定めていく。竜胆の表情は険しく、次第にその金色の瞳には困 惑の色が浮かび始めた。街の明かりを飲み込んでざわざわとそれが揺れるたび、 少女の同じ色の瞳もまた、ゆらゆらと不安に染まり始める。
「もう、良いだろ」
思わず手が伸びる。刀を握る竜胆の手首を掴んだ。これ以上、移り変わっていく 竜胆の表情を見るのが苦しかった。これ以上、何かに『気付かれてしまう』こと が恐ろしかった。竜胆は大きく息を吐くと、だらりと腕を下す。小さなその刀身 を、カシャンと音を立てて鞘に閉じ込めた。竜胆は、思案気に視線を漂わせる。 もはや少女には景色を見る余裕もなくなっていた。
「た、ただの刀だろ」
「いや、違うぜ。やはり思った通りだったな」
竜胆の手が、少女の小さな両手に懐刀を乗せる。わずかに震えているのは自分の 手だと思っていたが。竜胆の手もまた小刻みに震えていた。竜胆は一度深く目を 閉じる。次の瞬間には、少女の目を真っすぐに射すくめていた。逃げ出したい、 聞きたくない。背後に映ろうすべての絶景がまるで、所詮絵空事だったのだとで も言うように灰色に濁っていく。
「これと良く似た刀を、陸奥国で見た人がいた。
刃紋も切っ先の造りも、旧仙台藩伊達家伝来の宝刀にそっくりだと」
「『鎬唐十郎政宗』。その刀の名だ。歴史書に残る、折り紙付きの銘刀。
きみは、伊達家に関係する娘なんじゃないのか?」
竜胆の言葉を聞いた途端。脳の中で、キンと甲高い音が鳴った。
視界が路頭に迷ったように、ふらふらと真っ白に染まっていく。次いで現れたの は、幾つもの声。 幾つもの血の海。幾つもの刀同士のぶつかり合う様。伊達、宝剣、初めて聞く単 語のはずなのに動悸が泳いで泳いでもっともっとと深層に食い込んでくる。息 の吸い方と吐き方がまたしても困難になる。ハッハッと短い吐息が漏れ続ける。 頭ごと振り回されたように、ぐわんぐわんと体の重心が狂っていく。
「おひいさん」
強く抱き止められ。ぼんやりと映ったのは真っ白な肌。金色の瞳。雪原の湖畔に、 たった1本きりで風に靡くでもなく佇んでいる、優雅で甘美な花。氷のように冷 たい舞を魅せながら、冬が過ぎればあっという間に姿を消してしまう。ひと時だ けの出会い。ひと時だけの逢瀬。また必ず会えると言ってくれたのに。あなたは 尊いお方の元へ行ったきり、二度と戻って来なかった。 繰り返し再生される記憶は、どれも酷く断片的で。どれも自分勝手で。こちらの 都合などお構いなしに流れ込んできては立ちどころに消えていった。当然どれ も身の覚えのないものばかりで、知らないことばかり畳み掛けられる感覚に、少 女は混乱していた。吸い込み損ねた空気が肺を乱して、酷く咳き込む。
「大丈夫か」
「りん、どう…… 竜胆!」
拠り所のないその手を漂わすと、竜胆の羽織に辿りつく。少女はそこに、引き千 切らんばかりにぎゅっと縋りついた。チリンと一音、金色の鎖が物憂げに鳴った。
「どこにも行かないでくれ」
「安心しろ。ずっと傍にいる。例え全てが分かったとしても、共にいる」
凌雲閣、十二階。 最上階からのその景色は、夜の濃さを増していく。街の色は、総天然色から灰色 へそして最後に真黒な闇へと誘われていく。ひとりの男、ひとりの女。たった二 人きりのカリソメの家族。担うことになった手探りの運命図は余りに大きすぎ て。遠くから眺めるだけでは、まだその正体はようとして知れなかった。
☆
「元気そうだな、兄様、篤志」
ビフテキ、フライの類にオムライス。スパゲッティにアイスクリン。 美味しそうなほろ甘いソースや、珈琲の芳醇な薫りが相俟って、その場はいつ行 っても座っているだけで腹の虫がぎゅうぎゅうと鳴き出しそうだった。入り口 には洋風のステンドグラスが整然と虹色に並んでおり、漆喰で塗り固められた 真っ白な壁は、一等高貴な神殿のように食事を楽しむ者の仕草までも上品にさ せる。 京の都にも新しい店が次々に出来てはいるが。さすがは帝都一の繁華街に座す るカフェー。見るもの聞くもの全てが珍しいものばかりで、紅葉の兄弟、篤志は 目を白黒とさせて周りを見回していた。
一方、紅葉の兄、一族の長兄である前田 十郎太は、堅苦しい軍服を身にまとい、普段と変わらずピシリと背筋を伸ばして いる。フリルで飾られた揃いの真白なエプロンの女中さんに「お紅茶を」と澄ん だ通る声で告げた。
「ああ、この通り。他の兄弟たちも元気だぜ」
「紅葉や宮緒には負けられないと日々芸に励んでいるよ」
紅葉がこうして兄弟たちをこの街に招くのは初めてのことだった。ただでさえ 物騒で治安の悪い場所だ。自己防衛できる程度の武術を仕込まれているとは言 え、名家の出身でそれなりに育ちが良い兄弟たちに、わざわざ危険な思い出作り をさせる訳にもいかない。盆と正月は寄席も稼ぎ時だ。世間が休む時期に休める わけもなく、紅葉もここ数年は帰省できないでいた。そんなわけで、こうして兄弟水入らず三人で顔を合わせるのも久々だった。
「訓練は無事終わったのか?」
「昨日、市ヶ谷のほうまで行ってきたよ。
さすがに帝都は防衛が行き届いている。勉強になった」
長兄の仕事は、軍事学校の教官。
今回篤志を伴って、珍しく長兄が上京をした目的のひとつは、その研修のためだった。京のほうでは随分な鬼教官として知られているらしく、罰則を犯した者が十郎太の「お仕置き」を食らい、即日離脱する事案が後を絶たないのだとか。
元来自分にも他人にも厳しい人物ではあったが。兄 弟に接するときはその持ち前の物腰の柔らかい笑顔を見せる時もある。兄弟に 対するように、今少し他人にも緩やかに振る舞えばよいのにと、紅葉は弟ながら 思っていた。
「明日はゆっくりしてってくれ。寄席で呑刀を見せるから」
日頃の鍛錬具合を披露したい。納涼の寄席で見てもらえなかったこともあり、紅葉はとっときの奇術を用意していた。兄弟を仲間たちに紹介しよう。あの子も会いたがってくれていた。兄様に「嫁に欲しいと思ってる」と告げたら、あの子は どんな顔をするだろう。篤志も随分と羨ましがるに違いない。考えるだけで愉快 な気分になってくる。
紅葉の上機嫌をよそに、呑刀の言葉を聞いて、十郎太は顔 を曇らせた。それまで朗らかに茶でも啜りながら話を聞いていた兄の変化。最も 近くにいた篤志は、敏感にそれを感じ取っていた。
「兄様、どうした」
「紅葉。兄の約束は覚えているね」
篤志の声を遮って、十郎太は紅葉に向き直る。軍人に接する時のような厳しい眼 差し。幼い頃から何度も見た、何かを叱る前の険しい表情。「お説教」の気配。 条件反射的に、紅葉と篤志は居住まいを正す。
「… 覚えてるぜ」
お守りに。と上京の際に手渡された懐刀。元々家宝として前田家に伝わっていたものを、唯一紅葉のためだけに与えるのだからね、と十郎太には何度も言い含め られていた。一家の宝剣ともあれば、そう易々と日常使いする訳にもいかず。紅 葉もしばらくは家の奥底に隠すように持っていた。適当な刀でも奇術は可能だ ったが。携えてみれば驚くほどに手に馴染み、軽やかに動かせるばかりか、燃え るような気力まで満ちて来る。まるで自分の為に誂えたような。 約束を改めろ、と言うのだろう。十郎太は一差し指を一本立てる。 この兄の意外に頑固な性質には抗えない。紅葉は素直に口を開く。
「一」
「無暗に人に渡さないこと」
「二」
「火に近付けないこと」
二本まで立った指が、最後の一本を立てる。三番目を言おうとして、紅葉は少し だけ視線を反らした。咄嗟の事態だった、あの場であの子を救うためにはどうし てもあの懐刀が必要だった。破りたくて破ったわけではない。約束を忘れていた わけでもない。
「三」
「実戦で使わないこと」
三区座の事件で、初めて人相手にそれを振り翳した時。紅葉の中には確かに狂喜 にも近いような感覚が湧き上がっていた。仇を切り裂く感触、深く肉身まで突き 刺す手応え。味わったことなどないはずなのに、それは実体験をしたかのごとく 生々しく体に伝わってきた。紅葉自身はそれを憎い仇を攻める正義の喜びと捉 えようとしていたが。
「ちゃんと守ってるぜ」
何気ない様子でニヤリと笑って見せる。 「人を切りたい」と思っているなど認めるわけにはいかない。 久しぶりに会った兄にも、そして自分自身にも、紅葉は嘘を付いたのだった。
『黒猫ストリップ』第4話終わり
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