事業報告書04:ヤバいはダルい
ありとあらゆる「ヤバい」がどうでもよくなってきた。アートでもエンタメでもツイートでも、確かにヤバいやつは多い。ただ、それを受容するのは「私」という単一の存在でしかなく、そこに意味が収斂されるならば、自分が見てる対象なんてヤバくてもヤバくなくても、別にどうでもいいんじゃないか?
いや、コンテンツに感動する心を失ったわけじゃない。そんな単一の存在を拡張するような、もしくは解体ようなものに出会った時には、自分だって心の底から感動する。例えばフジロックで見たYves Tumorなんかは、あらゆる価値判断のラインがくしゃくしゃになるくらい感動した。
規範の拡張 / 解体は、自分からすれば「ヤバい」とは真逆の体験なのだ。「ヤバい」の受容は意味の収斂のプロセスを踏むことによって自己の限界を再認識させるけども、規範の拡張 / 解体は自己の可能性に際限がないことを教えてくれる。むしろ、それまで設定されていた限界をいとも容易く消失させる。Yves Tumorのステージは、ジェンダーに関する自分のボーダーラインを破壊した。それはもうロジカルに、破壊の過程を余すところなく記述できる(ように錯覚させてくれる)くらいには、言外のニュアンスに感情を仮託する「ヤバい」とは全く異なる体験なのだ。
既存の規範からの逸脱を「ヤバい」と括ったところで、結局のところは受容する存在が既存の規範からの参照なり借り物でしかなく、そんなものは汎用でつまらない。だからもう、クリシェじみた言い方になるけど「ヤバいって言った瞬間にヤバくなくなる」。JAZZ DOMMUNISTERS的に、「ヤバい」よりも「キモい」の方がまだマシだと思う。
そもそも、「ヤバい」は褒め言葉じゃない。これはサブカル村の話だけど、別に結局のところ「ヤバい」とか安易に言うのは、存在の固有性を否定して差異化ゲームの汎用な1プレイヤーに引き摺り込む営為でしかない。そこを自覚できないプレイヤーが「ヤバい」の言われ待ちをし出しても、全く感動しない。それで誇られても「エイム合わせるの上手いですね」とか「連鎖作るの上手いですね」くらいしか思えない。
ただそれでも、自分もカジュアルに「ヤバい」とは言う。Yves Tumorを見た後も言ってた。それは先述したように「言外の感情に仮託」せざるを得ない、埒外の対象に対してひれ伏す気持ちが優った場合に、ラブコールとして漏れ出るものだ。それでもどこかに「あなたのことを理解したわけでもないのに易々と鑑賞者ヅラしてサーセン」の気持ちはあるし、「勝手に差異化ゲームの参加者にさせてサーセン」の気持ちはある。少なくとも、サブカル村での「ヤバい」に浸りすぎると、他の場所での酸素の吸い方がわからなくなる。
自分にとって「ヤバい」は白旗だ。自分は白旗を上げるために生きているわけじゃない。結果的に上げざるを得ない瞬間だけを愛しているのであって、ド広い銃口を突きつけられて降伏を迫るようなコンテンツには、もう何も思うところはない。気持ちよく「ヤバい」と言わせてくれないコンテンツに、ちょっと出会いすぎたのかもしれない。