事業報告書06 / ¥$『VULTURES』(レビューではない、間違っても)
サークルの卒業旅行で伊豆に行って、そのあと沼津で寿司を食べたり、深海水族館に行ったり、古着・レコード・昔のPOPEYE・映画のフライヤー・コーヒー豆・クラフトコーヒー・多肉植物が8畳くらいの空間に敷き詰められている店に「カルチャーすぎる」などと文句を垂れたりしていたら、カニエ・ウエスト+タイ・ダラー・サイン=¥$のアルバム『VULTURES』がドロップされた。年明け前から何度も延期を繰り返しており、「どうせ出ないっしょ」とタカをくくっていたので、存外すんなりリリースされて驚いた。それから沼津の漁港でiPhoneのスピーカーを耳に押し当てて、「カニエのリリック、なんかキツそうだな〜まぁトラックの作りが懐かしいしポップだから全然楽しめるけど」みたいな雑感を抱きながらトボトボ帰路に着いた。
一通り聞いた後はバシャウマの総集編を見ながら電車を乗り継ぎ、旅行の疲れで帰宅後に即寝した。翌朝、ベットの中でTLを漁ると『VULTURES 1』の話題ばかりが並んでいた。拙いリスニング能力+iPhoneのスピーカー音質+浜風でぼんやりとした理解だったが、どうやら想像以上にタチの悪い言葉が並んでいたらしい。確かにキツかった。個人的には、ユダヤ関連であれ#MeTooへの言及であれ、誰の目で見ても有害さは残留している上に、自身の政治的正当性をフレックスで克えようとする魂胆がキツかった。「テイラーの6倍稼いでんぜ?」みたいなパートの過激さとは訳が違うし、こういうのとヘイトに繋がるリリックを一括りにすんのはな〜というモヤモヤが今の今まで自分の中にある。具体例を連ねたいが、漏れが発生しそうなので他稿に一旦譲りたい。詳細なアルバムのあらましと問題のリリックなどはこのレビューが一番まとまっていた。し、これがあるなら自分が大手を振るってレビューで書くこともないなと思った(実際、自分なんて書いても門外漢扱いされるだろうし)。
「アーティストに正しさを求めるな」という言説がある。倫理観や道徳観とはクリエイティブの枷でしかなく、理の外にある表現を叩きつけることこそアーティストの本分だ、と。確かに社会通念に疑問を投げかけ、政治やビジネスとは全く別の角度から個々人の価値観に訴えることができるのは、社会におけるアートの役割の一つに違いない。ただ、カニエの政治的正しくなさは、一アーティストの表現という次元を超え、社会通念に蔓延する毒として機能してしまう恐れがある。「カニエ・ウエストがスペシャルすぎるから」という単純なことではない(まぁ音楽家としては間違いなくスペシャルだけど)。アメリカ大統領選に立候補したり、セレブリティの誇示としてユダヤを引き合いに出すなど、彼は積極的に政治的であろうとしている。そんな人物が政治的に正しくないリリックを言い立てることは、自らの影響力を笠に着た確信犯としか形容できない(ただ、彼が以前から公表している双極性障害がこの“確信犯”に寄与している面を否定できる術もなく、だからこそ彼は断罪されるべきではないのだろう)。
また、有害さを孕むリリックは、その発言が他のゴシップ——ほぼ裸みたいなパートナーと写真に撮られるとか、一律$20で服を売るとか——と並列に扱われることによって、またフレックスの一構成要素に擬態することによって、「カニエ・ウエスト」というポップスター像の肯定と氏の思想/発言の肯定を分つことを困難にしている。これは『VULTURES』に関して、Anthony Thee Fantanoのように、その有害さを前に閉口するか、それとも狂信者としてレビュワーを燃やして回るかという、極端な二つの反応へとリスナーを誘った(実際、Fantanoのこの動画はカニエのファンダムによって大いに燃やされた→ファンの反応もまとめられた動画の解説記事)。
ここからは個人的な感慨だが、『VULTURES』について黙ることは、特段意味がないと思う。Fantanoの”unreviewable ”という態度は、一レビュワーとして誠実ではあるけども、じゃあそれが有害さと向き合う態度として正しくて、ヘイトへの対抗処置として機能しているかどうかは——あくまで長期的には——厳しいと言わざるを得ない。それがキャンセルのつもりならば、尚更意味がない。これは自明なのだが、今やどのメディアよりも影響力を持ってしまっているカニエに対してキャンセルは効かないし、むしろカルトヒーローとしての色を強めるだけだ。むしろ、閉口することがカニエに対する対抗処置だと信じてやまないならば、それはアテンション・エコノミーを過度に内面化しすぎているし、その競争から降りない限りは“セレブリティ”という究極のアテンション職人たちに跪かざるを得ない。永久にクリティカルを放つことはできないだろう。
断っておくと、口を開くことを強制したいわけじゃない。閉口しているレビュワーにも、彼らなりの逡巡が存在していて、自らの道徳観に背くことを必死で拒んでいるのだろう。その真摯さを称賛したい反面、「無視によるキャンセル」という行為の無力さは訴えたい。それよりはむしろ、「レイシズムやセクシズムは“ゴシップ”ではない」と強調して、メンションするトピックを精査する方がよっぽどまともだろう。アート内の表現と現実世界を結びつけることに躊躇せず、むしろアーティスト側が積極的に結びつけようとしているのだから、問題があると判断するのならば積極的にトピックを取捨選択してしまえばいい。「問題はあるけど、これはアート作品だから」という言い訳は、ことカニエに関しては適用できないだろう。とにかく、ヘイトをゴシップのフォルダに格納させないことが何よりも重要だ。そうすることによって「作品は良いんだけど、人格に難があってな……。」という態度を打破できる。荒技だけど。ただ、自分はこれからそうする。少なくとも、カニエに関しては。「果たしてそれは、ゴシップで片付けていい問題なのだろうか?」と絶えず問うべきだろう。
そんなこんなで、『VULTURES』についてあれこれ思案することは、自分と社会のコードとの距離を考える契機になった。というか、ここまで考え込んでしまう時点で、やはりアートとしては成功してしまっているんだろう。あーあ。行儀良くないアイデアばかり浮かぶ今、「なんで『VULTURES』がいいんだよ〜」というの感想に軟着陸している。ただ、ライターの末席も末席として、いくらラジカルであろうとこのモヤモヤにケリをつけたかった。ただ、もっとつまんなくて、みんなが無視しても問題ないような作品だったら、どれだけ楽だったろうね。