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TSUTAYAなんか好きじゃないもん|ニュータウンV『ニュータウン宣言』ライナーノーツ

以下に続く文章は、ニュータウンVの1stアルバム『ニュータウン宣言』のリリースに寄せたライナーノーツです。しかし、これは四角四面な解説などではなく、この作品が放っている匂いの鈍色、水垢の赤、セブンの親子丼の容器の白、に乗っているネギの緑、ハンガーの黒、黒、黒、そしてTポイントカードに額装された青と黄色に関するエッセイです。

 

  僕が生まれ育った北陸の小さな街には、なぜかTSUTAYAが2軒あった。自宅から近い方のTSUTAYAは文房具ばかりの狭い店舗だったが、もう一つの方はレンタルCDの棚が充実していて、そこからレンタルしたCDを聞いて僕は10代の大体を過ごしていた。料金が安い旧作のアルバムばかりをレンタルしていた。日本のポップスから海外のロックまで、僕が欲しかったものが貸出中だったことは、たったの一度もなかった。そんなはずはないのに、「世界でこんなに音楽を聞いているのは僕だけだ」と、インターネットに明るくない中学生の自分は本気で信じていた。僕が上京した2年後、そのTSUTAYAは更地になった。跡地には無印良品が建っている。

  ところで2000年生まれの僕には“最後のTSUTAYA世代”という自負がある。SpotifyやApple Musicが日本でローンチし、本格的に人口へと膾炙し始めたのは2015年前後だと記憶している。それまでの15年間で、僕は大量のCDをTSUTAYAから借りた。7泊8日の記憶から、僕はまだ抜けられていないような気がする。


  年明けに小山くんから音声ファイルが送られてきた。彼がバンドを結成したのは覚えていたものの、送られてきた音源が共同作業ではなく単独によるものであることは再生してすぐにわかった。20分弱のアルバムを聞き終えて「ファズギターの音色が好みだった」と感想を伝えると「エフェクターを持ってないからクリーンで録った音をGarageBandのエフェクトでそれっぽくした」と返された。『ニュータウン宣言』というタイトルが腹の底に落ちきって、痛快に笑い出してしまったのはその時だ。

 2000年生まれの僕にとって、“ニュー”とは諧謔的な記号に過ぎない。ニュータウンも、ニューミュージックも、ニューアカオも、ニューアカデミズムも、若気の至りで彫った“ニュー”というタトゥーは、約20年後の僕が生まれる頃には効力を全然失っていた。リバイバルの中でしか、僕は“ニュー”と呼称されるものに出会っていない。むしろ僕たちの世代は“オルタナティブ”という言葉で、内から湧き上がる新規性への欲望を発散しているような気さえする。“ハイパーポップ”が“ニューポップ”と名乗らなかったのは懸命だった。時代に要請されているのは未来への成長志向ではなく、漠然と広がる海から的確に選択するセンスの有無のみだ。新しいということは“ニュー”では最早ない。そのどん詰まりが、GarageBandの中でペシャペシャになったギターのトーンには宿っているように思えたのだ。ここから出て行けない。


 『ニュータウン宣言』のリリースと共に、小山くんのブログでこのアルバムの制作記(の体をとったここ1年半くらいの近況報告)が投稿された。僕と出会った2022年の夏に仕事と学校をやめていたこと、バンドの関係に悩んでいたこと、バンドが自然消滅していたこと。僕の知らないことが沢山書いてあった。
そこから彼は、作品に関わる(ほぼ)全てを独力で進めて、約2ヶ月で『ニュータウン宣言』を作ったという。ブログの最後はこうだった。

  そうして「ニュータウン宣言」を2024年の1月にリリースした。全てがオマージュであ ることを示さないと欺瞞になる時代に、都心やタワマン街から外れた架空の平成的な住宅 地で生まれた私の、シラけたレペゼンとして

 “ニュー”自身が自他の境界を失ってしまっている現在、自分が持っているものが借り物かどうかを確かめる術もまた、街の中に霧散してしまった。”自立“を創作におけるオリジナルの要件とするならば、レンタルによって肥えた僕と僕らの体からは、永久にそれらを吐き出せやしないのだろうか? ややもすれば激しい絶望に駆られてしまいそうになるこの問いに対して、小山くんはスマホのボイスメモ越しで回答した。

 『ニュータウン宣言』は、徹底して引き受けている。何を? ある郊外で生まれ育った青年が20代の中盤で抱えた鬱憤を、その生活を。発散と閉塞が、この作品の中では混然としている。嘆息まじりの爆音が誇張されればされるほど、簡素なリズムマシンの音色は強調される。それこそハイパーポップ的な音像の中で、リズムマシンのループが生活の影写しとして、ハイパーの真裏にある日常のポップスであることを淡々と主張している。オートチューンやピッチシフトによって声もまた誇張されているが、読み上げられているのは湿り気のある日常の光景だ。GarageBandで誇張されたクリーントーンのギターは、のっぺりとした騒々しさでもって主張してくる。かと思えば、軽く爪弾いた生々しいギターの音も使われている。スマホの中でどん詰まったままの、クネクネと生活のうねりが匂ってくる。その板はあらゆる障壁を砕きうるポテンシャルを有した圧砕機であり、虚脱の象徴でもある。だからこそ、『ニュータウン宣言』は徹底してスマホ的に発せられなければならない。ここから出て行けないなら、ここをどこにでもすればいい。なんと痛快な開き直りだろう。そうしてオリジナルもオマージュもついてるラベルの何もかもを見ずに、端から端まで口に放り込んで捻り出されたのが、このリアルなシットだ。それが極上なのか、それとも醜悪なのかは、あえてここでは言わない。ただ、あなたがこれを聞いて、少しでも顔を背けたくなったのなら、その瞬間からこのブツのスメルは永遠になれる。あなたの鼻腔が感じ取ったそれは、スマホを挟んだ誰かが既に嗅いだことのあるカレーの匂いであり、見知らぬ誰かがこれから嗅ぐ洗濯物の匂いなのだから。

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