ひとを<嫌う>ということ
『ひとを<嫌う>ということ』中島義道 角川文庫
そもそも著者自身が妻と息子に絶望的に嫌われてて気の毒になったし、さんざん人を嫌い、嫌われてきたからこそ「人を嫌う」ことについてめちゃくちゃ考えてきたんだろうなっていうのが伝わる。
前提として、明らかに自分に危害を加えてくる相手を嫌うのは、その人を「敵」として認識して危険から逃れるためで理由が分かりやすいので、その意味での「嫌う」は省いている。
そうではなく、なんとなく嫌い、ほんのり嫌い、生理的に無理、といった理由がいまいちはっきりしないものをこの本では扱っている。
「好き」と「嫌い」は表裏一体で、しかも自然な感情である。
人に関心があれば、誰もが人を好きになったり嫌いになったりするのは当たり前でそれもなんとなく好きになることもあれば、なんとなく嫌いになることもあるのはごく自然なことだ。
だけど私たちは、正当な理由もなく人を嫌ってはいけない、嫌われてはいけないと思い込み過ぎている。
嫌ってはいけないと思っている人は、嫌いな感情を隠してゼロにするか、無理やり理由付けして相手を悪者にし、「自分は被害者」という立場をとって全力で嫌うかのどちらかになってしまう。
そして、嫌われてはいけないと思っている人は、少しでも自分が嫌われていることを知った途端(思い込みかもしれないのに)、思い当たる節を探し回り、明確な原因が分からないとどうしようもなくパニックに陥り、それに対抗するためには全力で嫌い返すしかない、という風になってしまう。
人が人を好きになる以上、それと同じように人が人を嫌うことも自然なことなので、自分がよくわからない理由で誰かに嫌われることがあっても不思議ではない。
さらに、自分自身を嫌う場合もある。
「人間嫌い」は自己嫌悪からきている。
自分が自分を嫌っているために、他人から非難されることを極度に恐れているのである。
その恐怖があるために、他人に対して先手を打って攻撃されないように、先に嫌っているということだ。
同じ理由で「自己愛」が激しい人も、自己嫌悪しているからこそ、他人を見下して「自分は特別だ」と思い込むことによって自分の価値を上げようとしている。
人と関わっていく上で、ふとした瞬間に誰かを嫌ったり、誰かに嫌われたりすることは必然であって避けようのないことだ。
この自然に発生する「嫌い」という感情とうまく付き合っていくことができるかどうかで、現実を正確に認識できるか、現実を歪めてしまうかどうかが関わってくるのだと思う。
そしてまた、嫌いという感情がないとしたら、自分に対しても他人に対しても特に深く考えることもなくなって、面白みのない人生になるのだと思われる。
人が人を嫌うからこそ、自分の利益だけでなく他人の利益など様々なことに考えを巡らし気を使うことによって、強く生きることができ、人生を豊かにしているという側面もある。
ってこと?