不完全な絶対音感の話
「え、絶対音感あんの?すげーな」
よく言われる。ただ私の絶対音感はある意味「不完全な絶対音感」だ。この話はtwitterとかでもしたことがあるが、改めて今回真面目に語ろうと思う。
1. 私は絶対音感持ち
バンドなどで音楽を演奏する際、多くの人が苦労するのが耳コピであろう。そんな中、私は有り難いことにすぐに終わる。羨ましがられることも多いが、これは言語的な感覚なのだろうと思う。
世界的にも有名なベーシスト、victor wooten氏がかつてTEDの中で語った、「私は音楽を言語と同じように学んだ」と。家族がバンドをやっており、物心つく前からおもちゃのギターをかき鳴らしてバンドとともに音を楽しんでいた。楽器の弾き方は二の次で、まずは音を理解すること。これは我々が母国語の文法を取得する以前に、自然と話せているのと同じ感覚だという。
私の家族はバンドをやっていなかったが、幼い頃からヤマハ音楽教室には通わせてもらった。「幼児科」というカリキュラムの中には、リトミック的な「音を楽しむ」もののほかに、鍵盤の指遣いを覚える、歌を歌う、そしてメロディー視唱や聴音といったものもあった。メロディー視唱とは、その文字の通り楽譜をみて、メロディーで歌うものである。「ドレミファソーラファミッレッド」でおなじみの池の雨は歌ったことないが、まああんな感じである。
このメロディー視唱と聴音、すなわちソルフェージュ訓練こそが、絶対音感を身につけるステップであると思う。ヤマハ音楽教室(少なくとも担当だったNM先生)は、これを固定ド(つまりAmajorならラシドレミと歌う、ということ)で行っていた。これをただ訓練するだけでなく、幼児科基礎グレード(理解力テスト的な)やエレクトーングレードで確認するといったプロセスのおかげで、私は耳コピには困らなくなったのである。
もちろん訓練内容は先生によってはまちまちなので一概には言えないし、先生以外にも家での練習・訓練は不可欠であったように思う。母親がピアノを弾けたのも一助だったかもしれない。
2. 「不完全な」絶対音感
これは昔から親には指摘され、最近になってAlejandroさんからも指摘されたことなのだが、「ここはG♭で表現するべきなのに、なぜF♯で書いてるの」といったことが起きている。
私は、白鍵/C♯/E♭/F♯/B♭はどんなときでもその音に聞こえてしまう。つまりD♭、D♯、G♭、A♯には絶対聞こえない。だからC♯majorの階名は「ドレミファソラシド」でなきゃいけないのに、「ドミファファソシドド」と聞こえてしまう。F♯のコードは「ファラド」と読むべきなのに「ファシド」のほうがしっくりくる。自分の譜面でも、聞こえたままに書いてしまう癖があるので、読みづらいと指摘さえされることがある。
このことを「不完全な絶対音感」と呼ぼう。このメカニズムはどうして起こったのだろうか。おそらくこれは、初期の音楽学習における環境が引き起こしたのではないかと考えている。
その環境とは、「ソルフェージュする調はせいぜいC、E♭、F、G、A(各長調)とその平行調」という環境だ。幼稚園時代にC♯major(♯が7つ)なんか出されたときは、多分教室のドアを開けて自力で家に帰っていただろう。簡単な調にすることで、音楽的な理解を早める効果もあるはずだ。E♭の訓練は「E♭」を、Fの訓練は「B♭」、Gは「F♯」、Aは「C♯」を定着させてしまったのだ。G♯/A♭はそれぞれAとE♭の調で両方出てくるので、なんとか定着せずに済んだのかもしれない。
またそれより難しい調(といってもせいぜい♯/♭4つまでだが)は聴奏という形で行われたために、階名を言う必要がなかった。これもまた一つの原因だろう。
そうしてるうちに、私の「不完全な絶対音感」が出来上がってしまったのだ。
3. 対策と克服
たぶん、克服はできない。意識はできても、今から覚え直すのはいまから新しい言語をネイティブのように取得するくらい難しい事だからである。
対策として有効なのは、楽譜を書く際に全てC/Amのキーで書いて、それを転調する、もしくはすべてを調号の♯/♭に合わせることくらいなのだろうか。
他人に読みやすいように記譜するのは配慮の一つとして有効なのだろうが、今後もA♯M7とかいう譜面を見ると、発狂してしまうかもしれない。
4. 最後に
宣伝で恐縮であるが、新しいアルバム「the end of the moratorium」の2曲目のcausal linkの譜面は全く調号の配慮をせず、結果として混乱させてしまった。
ただこのアルバム自体はいいアルバムだと思うので、私のnoteバックナンバーから裏話も読みつつ、ぜひ手に入れていただきたい。そのアルバムはboothからも手に入れることができる。
ぜひ、よろしくおねがいします!!