Dr.スランプ~スランプとの付き合い方~

何もアラレちゃんの話ではない。曲作りのスランプの話である。よくあるスランプとしては「曲が全く書けない」だの「歌詞が全く書けない」だの、そうした「全く書けなくなる」ような現象を指すように思う。

私としては、あまりそういった意味でのスランプに陥ることはない。ただし、「どうしてもクソ曲しか書けない」時期というのは存在する。このネタを書いているということはつまり、現在がそのフェーズであるということだ。以降、スランプとは「いい曲/詞が書けない」として、論を進めていく。

wavelength(1, 2023)から始まる「山本が歌うシリーズ」も、かなり定着してきたように思う。これまでは曲だけ書けば、誰かが歌詞を書いてくれるし、誰かが歌ってくれる状況が存在した。今も仲間を頼ればそのことは実現可能なのであるが、いつの間にか現在の「作詞作曲歌唱は基本的に俺」というスタイルになってきた。まあよく言えばそうなのだが、自分に縛りを設けてるということだ。

このスタイルになった背景としては、「楽曲の最終の責任は、フロントに立つ人がどうしても負うものではないか?」という疑問を持ったことである。一般的なロックバンド(V/G, G, B, D)というスタイルを考えてみよう。ほとんどの曲がリードギタリストによって書かれたとしても、結局のところボーカリストの曲になってしまう。至極当たり前ではあるのだが、この作曲者がバンドを去ったとしても、「同じ」音を奏でることは可能なのである。ただ、ボーカリストが交代した時は、どれだけ似せた声の持ち主を連れてきたとしても、その曲は「別の」音を奏でるものなのだ。

山本の旧来のスタイルでも同じことが言える。作曲者は9割が山本であったが、結局楽曲のカラーは山本の鍵盤で作るものではない。体感だが、全体の7割をボーカリストが支配する。旧来スタイル、つまりKYBandがいびつな構造だったのは、「作曲者≠表現者」であった点だ。
・山本が欠席した場合
  ⇒ライブは中止、となる暗黙の了解。
・ボーカリストが欠席の場合
  ⇒ライブは可能だが、観客の期待外れになる可能性大

そうした反省も踏まえて、あくまでもフロントに立つバンドになろうと考えた。周囲からの反対はいまだに強いものの、「作曲者=表現者」の構造をとることができている。

で、ここからが本題。
このスタイルになってから、多くのものを自分で抱えるようになった。つまり、作詞/作曲/歌/演奏(Gt, Key, Ba, EWI)/ミックスなど。その分、スランプとして現れる箇所も増えてくるわけである。これまでであれば「メロディができない」だけがスランプの構成要素だったわけだが、「歌詞が書けない」「自分の歌い方がわからない」「ミックスがごちゃごちゃしてる」などもスランプの構成要素となったわけである。

その付き合い方も難しい。先述の通り「全く曲ができない」わけではないので、なんとなーく曲もできてしまうし、なんとなーくミックスができてしまう。ただ、その曲が「クソ曲」なのである。「クソ曲」を作ろうと思ってできるクソ曲(例:『恋愛について』wavelength2収録) とは別格で、ただただダサい。今のところ対処法としては、「2000年代前後の良いとされていた音楽を聴く」ことで、ちょうど先ほど直太朗氏の「さくら(独唱)」を聴いていたところだ。ちなみに僕はMV版が好きである。ちょっと音を外したりと、後年の「完璧な」直太朗氏ではないのだが、あの時のあの部屋にいる二人にしかできない、良い世界観が出来上がっているからである。
音源と別に一発撮りのMVを作ってしまう…これって、20年先行したfirstTakeなのか?

いつも通り結論は突然やってくる。「現在スランプなので、いい対処法があったら教えてください」というものだ。久しぶりに曲から作るのもありかもしれない。ずっと詞先でやってきたので、たまには曲先で…そうしてスランプに陥った事例を知っている。松田聖子氏の「ガラスの林檎」制作時の松本隆氏だ。マンネリ化を懸念した細野氏から曲線を提案されたものの、良い歌詞ができず、結局詞先になったというお話。

肩を並べるのはおこがましいが、恐らく私もそうだろう。曲を先に作ってしまうと、良い歌詞が書けない。
結局、慣れた手法で、良い曲ができるのを待つほかないのだろうか。


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