変わりゆくもの、成れの果て
「人間だし、考えが変わるのは仕方ないと思う」
大学時代からの友人が、ふと会話の中で放った言葉。当時の私はその言葉を頭では理解していても、心の底から共感することはなかった。「そうかもしれないけど、少なくとも自分は違う」と思っていた。恥ずかしい話だが、当時の私は今よりもかなり尖っていて、「一貫性のないことは悪」くらいのスタンスでいた。だからその時点では友人には賛同できなかったのだが、あれから二、三年、様々なことを経験して、ようやくその言葉を実感として受け入れることができる。私も考え方が変わったのだ。人間だから。
でも、「変わることが悪」と考えていた当時の自分にも何か理由があるのだろうと思い、何故当時そこまで「変わること」を毛嫌いしていたのかを分析してみることにした。論理的に矛盾することが嫌いだったのは、恐らく父からの理不尽な暴力に対抗する術が論理的な反抗しかなかったからだ。(詳しくは「おとうさんのはなし」参照)論理的に正しくないことを見つけて反論していくしか身を守る方法がなかったから、こんなにも「筋が通るか否か」に拘泥していたんだろう。それが理由としては一番大きい。でも、きっとそれだけではない。今でも私は多少なりとも「正しさ」に拘っている部分があるから。
多分、私が恐れているのは「副作用」なのだ。
考えが変われば立場も変わる。今まで同じ側に立っていた人と突然対立するようになることもある。それによって相手は混乱するだろうし、結果的に相手を傷つけたり、喧嘩になったり、あるいは批判されて自分も傷つくことになるかもしれない。プラスよりマイナスなことの方が目先の課題として現れてくるだろう。だから自分の考えを変えるのは怖いし、変えたことを誰かに伝えるのは尚更勇気がいることだ。
変わった後の考えが正しいかとか、その後の人生にプラスになるとかならないとかは正直問題ではない。ただ、考えが変わったことを自覚して相手に伝えておくことが重要なんだと思う。自分にとってマイナスな結果をもたらす可能性があろうとも。それは大変な労力を要するし、傷ついたり大事な人とのつながりを失ったりするかもしれないからとても怖い。だけどその手間から逃げることが、一番の不誠実なんじゃないかと思う。私はきっとそれが許せなかったし、今も許せないのだ。
自分の考えに蓋をして相手に合わせたり、予防線を張って何かあった時の逃げ道を作ることも少なからずあると思う。でも結局、本音がいつかは出るものだ。そのときに自分の狡さや弱さを受け入れて、誰かと向き合えるか。その勇気こそが、誰かと本当の意味で繋がる上で必要なのかもしれない。
人間は変わりゆくものだ。その成れの果てが美しいか無様なのかは、人生が終わる瞬間に判断すればいい。とりあえず今は、少しでも最期が美しくなるように足掻こうかと二年前よりずっと短くなった髪を束ねながらそう思った。
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