毒の致死量

いま、ラジオパーソナリティワークショップで、某AM局のアナウンサーの方から色々教えていただいている。元々ラジオをやってはいたものの、きちんとしたレッスンを受けてはいなかったので私がやっていた番組は完全に我流だった。その中で身につけて正解だったものもあれば、そうでなかったものもある。

たくさん教えていただいた中で印象に残っているのが「毒を少しだけ混ぜる」ということ。綺麗すぎるコメントは面白みに欠けるのだと。なるほどな、と感心したのだが、ふと、以前似たような言葉を耳にしたことがあるのを思い出した。

私の後輩が不幸にも車の事故に遭った。運転中、トラックに後ろから衝突されてしまったようだった。その子幸い軽症で済んだものの、やはり精神的なショックが大きかったと聞いた。その話を隣で聞いていたその人はその子があまり好きではなかったらしい、「そのまま二度とここ(職場)に来なければいいのに」と笑いながら言っていた。流石に冗談でも酷いと思い、その方は私にとって先輩に当たる方だったが「流石にそれは言い過ぎですよ。撤回してください」と苦言を呈した。するとその方はこうのたまったのだ。

「パーソナリティは多少毒を吐くものだ」

いやいや、違うだろうと思った。たしかに多少毒を吐くものかもしれないが、じゃあその毒とやらは電波に乗せて喋れるのか?と私は思った。

そりゃあ誰かが痛い目に遭ったりとか、誰かの不幸をネタにして笑いにすることはラジオやお笑いでもよくあることだ。多少物事を面白くするために必要なことなのかもしれない。ただ、先の講師の方の言葉はあくまで「誰かを傷つけないようフォローをする」のを前提としている。しかし後者は「自分が誰かを傷つける免罪符として使う」としか思えなかった。誰かを傷つけるかもしれない毒は、他人(この場合はリスナー)のために使うものであって、自分を守るために使うものじゃない。

同じ毒でも正しく使えば薬になるし、使い方を間違えれば人を死に至らしめることができる。そういう使い方を知らない人間が毒を扱っていいわけがないのだ。

その「先輩」とはもう暫く顔を合わせてないが、元気だろうか。まだあの時と変わっていないようなら、多少の「毒」としてこの記事を贈ろうと思う。容量が正しければ、きっといい薬になるはずだ。


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