妾の一生
最近、朝のニュースのアイドルオーディション番組のコーナーにハマっている。
彼女たちは15〜19歳。まだまだ若く将来なりたいもの、なれる可能性が無限に広がるゴールデンエイジ。残念ながら脱落してしまった子、そもそも最終審査に残れなかった子もたくさんいるだろう。というか、そういう子の方が圧倒的マジョリティだ。
ふと、自分が彼女たちの年齢だった頃を思い出す。
私は勉強に対して厳しい父のもとで育った。部活は週2日まで、土日に家族の用事以外で出掛けるなんてもってのほか、父から与えられた課題は父の帰宅までに終わらせていなければならない。言う通りにできないと父から厳しく叱責された。何故そこまでするのかを探ったら、父が昔大学受験で失敗して某国立大学に落ちてしまったことが大元の原因だったらしい。父は勉強好きだったが、自分の得意な分野に精通した「学者肌」の人間で、当時の受験方式にはマッチしなかったようだ。父の口癖は「俺が受験対策をしっかりやっていたら〇〇大に受かっていたはず」だった。
私は昔から役者になりたかった。しかし父は私を自分と同じ金融業界、しかもそのトップレベルの企業に行かせようと必死だった。多分、自分の人生を私を使ってやり直すようなものだったのだろう。だから大学受験の勉強も父が全てプランを練り、私はそれに従って勉強した。正直私は父のようには頭が良くなかったから、そのやり方ではあまり伸びなかった。だけどその通りに必死にやった。何故か。父が「第一志望に受かったら役者のレッスンを受けられる学校に進学していい」と言ったからだ。
正直、それは嘘だと分かっていた。中学三年生のときとある養成所のクラスに合格して「学年一位を取るなら通っていい」と父は言い、私はそれを守った。にも関わらず、私に内緒でこっそり退所届を送っていたのだ。私の勉強のモチベーションはその日から「自分のやりたいことをやるため」ではなく「父が落ちた大学に合格し、父を見下すため」になっていた。今考えるととんでもない理由だ。しかし、私はそれだけを抱えて3年間必死に勉強をした。言葉通り「死ぬほど」やった。絶対に父を超える、あんな惨めな人生なんか送ってやるものか。
退所届出てますけど。レッスンに行って月謝を渡そうとして、受付の人にそう言われたときの絶望と煮えたぎるような怒り。それだけが私を突き動かしていた。
センター試験が終わり、二次試験に申し込む前。第一志望の足切り点はギリギリ超えていたが、二次試験を受けても合格する可能性はかなり低かった。
「一つ下の大学ならば二次を受ければ確実に合格するけど、どうする?」
先生の問いに私はすかさず
「第一志望の〇〇大を受けます」
と答えた。先生が勧めた学校も勿論とても良いところだったし、ほぼ負け確の試合をわざわざするこもない。だけど、ここで逃げたら私は父のように一生コンプレックスを抱えたまま生きることになると思った。俺が受験対策をしっかりやっていたら。私があのときランクを下げずに受験していたら。〇〇大に受かっていたはず。そんな言い訳は絶対したくなかった。だから私は負け戦に挑んだ。当然のことながら、私は試験に落ちた。
中高6年間、何もかも捨てて頑張った結果がこれか。
帰りに寄ったデパートで入学式のスーツを買い、その袋を抱えたままリビングで泣いた。父は「お前がやりたいなら浪人してもいい」と言ったが、私は首を横に振った。もうこれ以上頑張れないと思った。頑張りたくもなかった。
大学を卒業して4年経つ。入学した先では友人や先輩後輩、恩師に恵まれ、入ってよかったと今でも思う。そして自分のお金で養成所に入り直し、なんやかんや大好きな分野に片足をつっこみかけている。(そこからまた色々あるわけだが、その話はまた今度書きたい。)
道の途中、何人もの仲間が新しい道を見つけ、演劇から離れていった。私はいまだに泥臭く、同じ道で這いつくばったままだ。才能は正直ない。不器用な人間だから、同じ距離を進むにも人の倍以上かかる。だけど、それに必要な気力だけは少しばかりだが大学受験でついたのだろう。これ以上頑張れない。つまり、自分の限界まで頑張ったのだ、私は。自分の苦手な分野でそこまでやったんなら、好きな分野でもうちょっと進もうとしたってバチは当たるまい。
あのときの涙が、今の私の原動力だ。
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