人口1人?の集落を訪問した話
ky24です。先日のC103では初作「交通史で巡る旅~尾鷲・熊野編~」を頒布し、会場では見本誌含めまして完売と相成りました。ご購入に感謝申し上げるとともに部数不足を申し訳なく思います。
さて、このnoteは新刊に付属のリーフレットとして配布するという「構想があった」三重県熊野市須野町の訪問記録になります。予算不足および執筆時間の不足で当日の配布は叶いませんでしたが、せっかく構想があるんだからnoteに乗っけようと思い、いろいろ付け足したうえで書き上げました。どうぞご覧ください。
熊野市沿岸部の最北端に須野という集落があります。熊野市の海岸線はリアス式海岸を成しており沿岸部の地形は非常に起伏に富んだものになっているのが特徴ですが、この須野も例外ではなく北側は神須ノ鼻、南側は楯ヶ崎半島に囲まれています。神須ノ鼻と楯ヶ崎の両者はともにトラッドクライミング(古くから開拓された岩場のルートをよじ登るクライミング)の聖地なんて呼ばれるほどの断崖絶壁であり、少し陸側に向けばすぐに標高が300m近くにも達するという立派な山場。須野はこれら山と山、さらには海に囲まれてまさしく孤島のような存在となっています。リアス式海岸だから山に囲まれているのはここらの集落ではどこも同じではありますが、須野の場合特にそれが顕著なわけです。
この須野、一時期は200人ほどの人口を数えていました。しかし昨年8月に東紀州振興公社さんが訪問した際には定住人口が1人であることが伝えられています。統計上でも令和2年(2020年)に実施された最新の国勢調査では人口が5人で、平成22年(2010年)には2人でした。移住者を多数迎えたおかげで人口増減があるようですが、近年は常に廃村ギリギリの状態にあるというそんな場所です。
わたし自身尾鷲・熊野には何度も訪問しており、家に帰ればかる~く地域調査みたいなこともしますから、須野の存在も前々から知っておりその特殊性から訪問の機会を伺っていたところでした。しかしわたしが公共交通機関しか使えないということを筆頭に数々の縛りがあって、なかなか須野への到達は叶いませんでした。しかし前年12月9-10日でこの地を訪問した折、諸々がかみ合ったおかげでようやく須野へ行くことができました。これから書くのがその際の記録です。
須野に向かったのは12月10日でした。9-10日は須野の隣接集落、尾鷲市梶賀にある民宿勝三屋さんで夜を明かし、朝食をいただき7時頃にチェックアウトしました。梶賀も小さいながらも古き良き美しい漁港で、毎年成人の日に行われる古式捕鯨を再現したハラソ祭りは尾鷲市の民俗文化財に指定されている有名なものです。宿泊した勝三屋さんも豪華な食事が朝夕について8000円と、内容を考えれば安い値段で宿泊できる場所かと感じました。
話題が逸れましたが須野に向かいます。梶賀で1時間ほど街並みを拝見し、8時ごろスタート。まずは集落から山側に伸びる接続道路を歩き、国道311号線曽根トンネルと梶賀トンネルの明かり区間に出ます。須野まではこの311号線を歩けばいいわけですが、隣接集落とはいえ市境もあるので4kmほどあります。梶賀から須野、特に梶賀~須野トンネルの区間が国道311号線でも最後に開通した区間で、開通は平成13年(2001年)。それまで市境を超える道路は大きく山側にある国道42号線しかありませんでしたから、両集落間を往来するには大回りして40kmほど走行する必要があったようです。本来はもっと早く開通するようでしたので、この遅れも須野の人口減少を加速させたのではと勘ぐってしまうところです。ただ開通が最近な分線形はよく、新規開業区間はほとんどトンネルで構成されています。車もまばらな長大トンネルを徒歩で超えるのはちょっと勇気が要るものですが、なんとか1370mの梶賀トンネルを通過して次の須野トンネルとの明かり区間が市境。ここまでが曽根梶賀バイパスとして2000年に開通した区間です。
2車線で建設されており見通しもそこそこよかった311号線は、次の須野トンネルを超えて少し経つと何かを思い出したかのようにカーブ多発の1車線区間になります。311号線も熊野側から須野までは昭和45年(1970年)に開通していますから、延伸を見越してちょっと先の区間まで当時の規格で建設されていたようです。木の枝が車道を覆って日光も弱々しく、おおよそ海沿いにいることを忘れてしまいそうな道のりです。幸い車は少ないため歩く分にはその点だけ楽ですが、逆に車が少なかったら少なかったで心許ないものでした。猿の鳴き声まで聞こえて人間より野生動物のほうが確実に多いだろう道中を2kmほど進み、ヘアピンカーブを過ぎたその先にようやく「須野町」と書かれた青い標識が。周辺でも特に木が生い茂るその場所に分岐点はひっそりと佇んでしました。
不穏な空気さえある分岐点ですが、意を決していざ国道から接続道路へ踏み出します。この道もアスファルトはボコボコで道幅はさらに狭くおまけに急坂という有様。人家も途中にはなく、当然人の気配なんてものはありません。そんな道を下ること300m、やっと人家が目に入り、目前には雄大な熊野灘が出迎えてくれました。須野に到達です。
須野にやってきて、まず目にしたのは三河ナンバーの車でした。じきにウェットスーツに身を包んだ2人組がやってきて軽くご挨拶。どうやら釣り人のようです。東紀州はこの時期が釣りのハイシーズンらしく、確かに前日もあちこちで釣り人を見かけたのを思い出しました。須野も例に漏れず釣り人を集めていたようです。なにはともあれ久々に人の姿を認め、安心感と共に探索に繰り出します。海側から振り返って、いざ街並みを拝見。奥には15軒ほどの人家、手前には神社、寺、お墓、集会場、校舎らしき大きめの建物……と、ある程度集落を構成する要素は整っているように感じます。特に神社、ここ須野にもいくつか神社はありますが、いずれも管理の手が届いているように感じました。町内各所に環境保全金の募金ボックスが設置され、募金も整備に役立てているようです。また墓が並ぶ一角には青ヶ島漂流民の墓があります。これは熊野市の指定文化財であるため、行政も管理しているようです。
人家の並ぶ宅地にも向かいます。尾鷲と熊野の沿岸部集落ではリアス式海岸ゆえの少ない土地に多くの家を建てるため、ものすごい密度で家が建ち並ぶ光景がよくみられます。ここ須野も例外ではなく、住宅の密度はかなり高いものでした。車なんか通りようもない狭い路地に隙間なく家が並びます。しかし須野の場合、家こそたくさんあれどほとんどが空き家です。表札が取り外されたもの、すでに朽ち始めているもの、さらには土台しか残らないもの……など、空き家でも様々ありました。人家の形こそ残りはしても、まさに時が止まったようなそんな印象を覚えました。
あちこち回る中で、あることに気づきます。スマホの電波が圏外でした。圏外自体は移動中よく遭遇するものですが、有人集落で電波が入らないという経験はさすがに初めてのことでした。どうも大手キャリア中KDDIだけは入るようですが、他の2社は圏外。わたしもY!mobileですから圏外です。近年では完全にインフラとしての地位を確立した携帯電波、それが利用できないというのは自分の今いる場所がいかに僻地であるかを再確認するには十分なものでした。
最後は海沿いに向かいました。須野のもうひとつの特徴として、海岸部が大きく堤防で囲まれているというのがあります。堤防に阻まれるため須野の町内から海を見渡すのは難しく、海に出るにもこの堤防を越えなければなりません。
元々須野は漁港がない集落でした。尾鷲熊野の集落はどこもリアスの入江ゆえの天然の良港であることを背景に、古くから漁業基地または廻船の寄港地として栄えていました。しかし熊野灘は元々荒れる海です。いくらかの集落はそんな熊野灘と真正面から向かい合ってしまっており、荒波で船の接岸ができないという場所もありました。須野もその一つです。確かに堤防から顔を出して海を見れば、緩やかなカーブを描く海辺に強い波がちゃんと打ち付けています。漁業に頼れない須野では林業やテングサ漁を生業としていたようですが、やはり漁業を中心とする集落より衰退ははやいものでした。高潮にも昔から苦しめられたようで、特に伊勢湾台風では大きな被害が生じて三重県の調査員からは集落移転まで提案されたといいます。しかし須野の住民は「先祖代々継いできた土地を捨てるわけにいかない」とそれを断って住み続けることを選び、行政もそれに応える形で復興、防災整備を進めていきました。この堤防もその際に建設されたもののようです。人の息吹が音を潜めて波のサウンドは他の集落より響く分、静粛というよりは自然を密接に感じる環境でした。最後に満足ゆくまで海を眺めてから、須野と別れを告げました。
実際訪問してみて、もちろん人の気配がないのはそうですが人が少ないながらもちゃんと集落の形が維持されているというのが一番驚いたことでした。朽ちた空き家こそあれど廃墟にまみれたわけでもなく、大自然も相まって廃村にありがちな寂寥感はあまり感じられないのです。そんな集落の姿を今の今まで我々旅行者に見せてくれているというのは本当に感謝すべきことですし、伊勢湾台風の際の集落を捨てずに守り続けるという住民の意思が受け継がれているのを強く実感するものでした。人口の少なさや電波がないという点だけ見ればネガティブなイメージを抱く場所ですが、実際足を運ぶと集落とも廃村ともつかない、独特な良い雰囲気がありました。
アクセスが困難なほど自然の力や美しさをより密接に感じることができる、持論のつもりですが考えてみれば当たり前のことです。利便性だけを求めても得ることができないものというのはいくつかありますが、須野をはじめとした東紀州の風景もその一つだと思っています。それに惹かれてあえてこの地を居住地に選んだ人だってたくさんいるはずです。移住者の存在が示しています。集落を守り続けたいという住民の意思も、なにかに惹かれて移住を選ぶ人の意思も、ちゃんと守られる世の中であってほしいと感じる今日この頃です。
参考文献
・熊野市史編纂委員会(1983)「熊野市史 中巻」