Children who thought that adults do not play games become adults and play games.
子供だったころ、当たり前にそういうものなのだろうと思っていた。
「大人はゲームもしないし、マンガも読まない」
まず、親がそうだったというのが大きい。
父は早く亡くなったが、賭け事もしない男で朝から晩まで働くひとだった。
趣味らしいものもなく休みといえば日がなビールを飲んでいた。
母も、時間がなかったのもあるだろうが、ゲームに興じるというのもなく、ただ映画や音楽は好きで父に比べれば趣味らしいものはあった。が、身近な大人ふたりがそんな調子だったので前段のように考えていたのもある。
知るかぎり、ゲームをしたりマンガを読んだりという大人がいなかった。
そういう大人もいる、と認識を新たにしたのは高校生になってからだ。
通学の電車内でジャンプやらマガジンやらを読みふけるスーツ姿の男性たちには少しばかりの嫌悪すら感じた。大人なのにマンガなんて、である。
社会人になり、それは当たり前に両隣のデスクに現れ、カップ麺をすすり、ヤングマガジンを読み始める。なるほど、大人がマンガを読むという文化もあるのか、と緩やかなショックをうけた。
それでも、今でも人前でマンガを読むということはない。
なんとなく格好がつかないような気がするからだ。
ただ、家では当たり前に読むし、同じくゲームもした。
社会人になりたてのころはゲームこそが娯楽だったと言い切ってもいい。
父の血を継いでか賭け事も好きにならず、飲みに出かければ出費はかさむ。
社会人なりに収入はあったが、まだ20代も半ばで、好き放題に飲み歩くというのも難しい。ところが、イニシャルだけでランニングは電気代だけという遊びがあったわけだ。
予定がなければ、金曜日の夜から日曜日の夕方まで、寝るかトイレか食事か、モニターの前にいた。
20代後半の空き時間は、すべてアトラスとスクエア捧げた。
30代に入り、まったくゲームを遊ぶということがなくなった。
仕事が忙しかったのもあり、休みの日もゲームより誰かと会う方が楽しめた。自然と触る機会を逸して、そのまま40も半ばになった。
平均からすれば、収入は少ない方だろう。
愛妻と愛猫2匹の家族で楽しく暮らすにはどうにか足りている。
「むかしクリアできなかったゲームの続編が出たので遊びたい」という妻の一言でPS4を買った。家にゲーム機があるのは、いつぶりくらいだろうか。
私も、気になっていたゲームを買ってみた。
西部開拓時代を無法者として追体験するアクション・アドベンチャーだ。
9月の下旬から、連休があったというのもあるが1ヶ月ほどでクリアした。
お小言を言われないように、妻に朝食を用意し、洗濯と掃除を済ませてから猫と遊び、お昼まで1時間と少し。
昼食を用意し、猫と遊び、夕方まで3時間ほど。
買い物に出かけて、夕飯を用意し、録り貯めた番組を見ながら大いに飲んで食べ、妻と猫たちが眠った後で2時間ほど。
ひさしぶりに、ゲームをした。
大いに楽しんだ。
ゲーム自体は、メインとなる物語と、その終章からなるものだった。
詳しくは、このところのnoteに書かせて頂いている。
終章も終わり近く、私の操る無法者は彼女にプロポーズする。
ずっと物語を追っている側としては、とても感慨深い場面であった。
ただ、同じゲームをした方の感想には「わからない」や「理解できない」というコメントがあった。
どうして、あんな小言ばかりの口うるさい女と結婚なんてするんだ。
確かに、そう感じる演出は多かった。
ただ彼女が口うるさく言う場面には1つ、確固たる観念があった。
慎ましく家族で暮らす。
法治化されつつある西部で、なんとも当たり前のささやかな願い。
彼女が口うるさく言うポイントは、たとえば私がゲームの前に洗濯や掃除をしたのに似ている。
そんな機微を、ゲームに感じる日が来るとは思わなかった。
私がそれを知ったからというのもある。
ゲームが習熟したエンタテイメント足りえるようになったというのもある。
何より表現力という点において過去とは比べ物にならない。
彼女が口うるさく言うとき、その表情は悔しげですらあった。
それは、例えばケンカをしたときに妻が浮かべた表情を思い出させる。
それだけの表現力が、いまのゲームにはある。
ロックスター・ゲームスの技術力というのはあるにせよ、想像以上だった。
日本の、アニメ然としたキャラクターには好き嫌いも出るだろう。
が、それでも中には骨太な物語が潜んでいるかもしれない。
もしゲームをしなくなった理由が「大人だから」であれば、是非とも騙されてみて欲しい。今や大人こそ楽しめるゲームがある。
つい最近まで知らなかったが、今の私はそう思う。