ひとの痛みも知らないで
あ然、とした。
ほんの数秒だが表するに十分な時間ではあったと思う。
考えたこともなかった。
暴力的だというのだ、あの「アンパンチ」が。
世界は暴力に満ちているのかもしれない。
あれが暴力だというなら、お花摘みも鳥撃ちばりの武力行使であろう。
アンパンチが暴力的だとする論争が起こる一方で、アニメやマンガが犯罪の温床になっているわけではないと拳を振りあげる方々もいる。
もう何が何やら、である。
そもそもの発端は「アンパンチをうちの子どもがやって困る」という会話だという。この発言をした方は、いったい何が困ったというのか。
アンパンチをマネするくらいの子どもに暴力性を感じて将来を危惧したというのであれば、むしろ問題があるのは親のほうであろう。
その子が10代も半ばで、叫ぶなり本気で殴りつけるというなら話は違うが。
あるいは「アンパンチをうちの子どもがやって困る。さいしょはふざけていても、なんどもやられるとこちらも頭にきて本気で殴り返しそうになる」と言を継ぎそうな手合いであれば、いくらでもいそうに思える。
紹介されている挿し絵から、想定されているのは物心つく前らしい。
分別がつかない子どもであれば暴力描写に影響される、という前提であるのだろう。
ところで、成長すれば誰でも分別はつくのだろうか。
少し話題になっている本に、「ケーキの切れない非行少年たち」というものがある。児童精神科医である著者が非行少年たちへのカウンセリングを繰り返す中で、彼らがどのように思考し非行へ至ったかを書いている。
曰く彼らは、円形を当分できない。
この本の紹介でも「認知力が弱く、ケーキを等分に切ることすらできない」と書かれているものが多い。認知力より分度器だろうと思ってしまうところだが、そういう話でもないのだろう。
ともあれ事件を起こしてしまった子たちは、分別がつけられないらしい。
アニメとマンガに影響されるくらいの分別がない人格であれば、暴力行為の刷り込みで事件を起こすことがあり得る、という理屈であり、記事であり、話題である。その手の事件があるたびに否定される話が、切り口を変えて、まかり通っている。私には、これまた不思議でならない。
さておき、この話題で気にされている問題はどこなのだろうか。
暴力描写か、見る側の分別か。
後者であれば、そのうち「みんなやっつけてやる!」と叫びながら保育園へ行こうとする子どもを刺し殺す親も出てきてしまうかもしれない。
その前に、もっとするべきことがあると私は思うのだがどうだろうか。