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他人と比較するということ

何人かの友達が一年間の留学に行く。
僕はその話を聞いてとても複雑な気持ちになった。頑張って欲しいのは当然だし、人生でそうない貴重な機会だから精一杯楽しんでほしい。その気持ちに嘘は無いんだけど、どうしても自分と比べてしまう。

僕も留学経験が一応あるが、滞在期間は二週間にも満たない。もはや「留学」なんて呼んではいけないと思っているが、それでさえ決断するのに相当の時間を要し、ヘトヘトになりながら帰ってきた。たしかに良い経験になったし、自分が成長したとは思うけど、どうしても一年間の留学と比べてしまい、自分の情けなさに辟易とする。

何が悔しいかといえば、自分が血反吐はきながらやっとの思いで達成したことを(少なくとも外部から見る限り)いとも簡単に達成しているように見えることだ。自己肯定感の否定。

他の誰かが簡単に出来ることを自分は時間をかけてなんとかこなしている。そこに自分の能力の低さを、あるいは心の弱さを見出さずにはいられない。他人が出来ることをどうして自分は出来ないのか。

「君にしかできないことがある」とはいうものの、自分が得意だと思っている分野でさえ上を見上げれば、自分よりももっともっともっともっとすごい人が沢山いるわけで、とてもじゃないがそれが自分の強みであり個性だなんて思えない。どこを見渡しても自分より上の人間がいる状況で、どう自己を肯定すれば良いのかがわからない。

他人と比較すればするほど自分がいかに何も持っていないかということに気づかされる。誰かの活動を見るたびに「あー俺にはこんなこと出来ないなあ」なんて思ってしまう。

自分にはスペシャルなものがないと思っている。もちろん良いところはあると思うけど、でもそれ他の人も持ってるよねって言われたら返す言葉がない。長所であるのは間違いないが、それが「自分である必要性」は無いように思える。

「優しいよね」とよく言われるけど、この世に優しい人はいったい何人いるのか。そう考えると「優しい人」が「自分」である必要はないということに気づかされてしまう。

たまたまその人の生活圏に自分が存在していただけで、その人が違う生活圏で暮らしていたらまた別の「優しい人」と交流を持っていたはずなのだ。

なぜスペシャルなものが欲しいのか。それは自分の存在価値を見出すためであり、自分が自分でいられるようにするためなんじゃないかと思う。

とはいえ、スペシャルなものはそう簡単に手に入らない。誰もが手に入れられるものに大きな価値はない。

だから結局下を見るしか無い。実際僕はそうやって生きてきたが、あなたはどうだろうか。自分が敵わないと思う部分を他者に見つけたら、その人に出来なくて自分に出来ることを探す。

「まあでも、あいつは〇〇できないしな」

そういう部分的なマウンティングをして、心の健康を保ってきた。

情けない事だとは分かっている。それでも現実をありのままに受け止めることよりかはずっと楽で簡単で、即効性がある。

みんな自己の内部で自己を肯定することが出来ないから、自分より下の人間を見て当面生きていけるだけの自己肯定感や期待を手に入れているのではないか。上には上がいるが、下には下がいるのだ。

誰かと比較するたび、心が抉られる。でも弱さを認識することで自分を見つめ直せる気もする。

やれ数値だ客観性だと言って、やたらと比較したがる世の中にはうんざりだけど、努力もせずに「みんなで手つないで仲良くゴール」みたいなのはもっとうんざりなので、もう少しだけこの世界で頑張ってみようかと思う。



酸いも甘いも、いつかは嚙み分けられるようになりたいですね。

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