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学びの甘さ

大学で倫理学の講義を取っている。
その講義では授業冒頭で学生の感想に対してフィードバックを行うという形で授業が進むのだが、そこで紹介される意見がどれも視野が広く批判的なもので、毎度面食らってしまっている。そして、いかに自分が今まで受動的な学びしかしてこなかったかということに気づかされる。

今までは、目標も問題も常に与えられるものだった。受験の時でさえ、倍率や合格最低点が与えられ、そこに対していかに取り組むかということに重点を置いてきた。

用語集を買ってひたすら知識や理論の暗記に努めてきた。それはそれで良いと思うのだが、知識をどのように応用するかということは考えなかったし、実際に応用してこなかった。理論についてもそれが絶対的な存在として受け取り、そこに見出さる(かもしれない)矛盾や粗悪な点を探すことはしなかった。

そのような学習ばかりしてきたから、講義で紹介される理論の至らない点を指摘することがなかなか出来ないし、彼らのような批判的な姿勢で講義を受けることもあまり出来ていない。講義で先生が言ってることを正しいものとして信じてしまいがちだし、理論も咀嚼せずに飲み込むだけ、ということが多かったように感じる。

暗記が不要だと言っているわけではない。知識はたしかに思考の台座になるが、それをどのように使うかをもっと考える必要がある。

「失敗の本質」という本の中に興味深い記述がある。

 しかし時間の経過とともに、日本軍内部の各級の教育機関でも次第に、与えれた目的をもっとも有効に遂行しうる方法をいかにして既存の手段群から選択するかという点に教育の重点が置かれるようになった。学生にとって問題は絶えず、教科書や教官から与えられるものであって、目的や目標自体を創造したり変革することはほとんど求められなかったし、また許容もされなかった。

 ほとんどの場合に問題になるのは方法であり、手段であった。時として、目的・目標ばかりではなく、方法・手段そのものも所与のものとされ、教官や各種の操典が支持するところを半ば機械的に暗記し、それを忠実に再現することが、最も評価され、奨励されさえした。いわば「模範解答」が用意され、その解答への近さが評価基準となっているのである。

失敗の本質ー日本軍の組織論的研究ー 中公文庫.

今までは暗記して知識を得ていればどうにかなってきた。そしてそのような受動的なままでも大学は卒業できる。

だが、実際の社会では様相は異なると思う。問題は自分で見つけ出さなければならないし、問題の取捨選択も必要になるし、何より模範解答が無い。模範解答が無い中で、言い換えれば、どれもが正解ではない状況でなにかしらの答えを出さなければならないのが、社会というものだと思う。

そのような世界で、果たして受動的なままでいて良いのだろうか?

単位を落とさず高いGPAを取ることを目指す。学校とは高い成績を取れば評価される場所だから。

講義内容を疑うことなくただ理解する。学習とは、勉強とはそういうものだと教わってきたから。

そして社会の歯車の一員となる。

本当にそれで良いのだろうか。
今の社会システムは無条件に受け入れて良いものなのだろうか。
そこに取り込まれても良いのだろうか。
常識を疑うことなく絶対視して良いのだろうか。

社会の歯車になることの是非は別にしても、自分を取り巻く受動性から脱却することは必要だ。同じAを選ぶにしても、無条件にAを選ぶことと、吟味した結果Aを選ぶことは全く異なる行為である。批判的な姿勢で講義を受けるのは受動性からの脱却のための第一歩だ。

とはいえ、ここまで述べてきたような事実に気づいたとて、明日から能動的な学びを実践できるかと言えばまた別の話である。それでも、何かを変える必要があるという事実に気づけたことは、自分を育てる果実になってくれると思う。


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