見出し画像

投票率を上げることはそんなに良いことなのか

今回の選挙に限らず、選挙が行われるタイミングでは「投票率が低すぎる」「投票率を上げよう」みたいな声が多く見受けられますが、投票率を上げることはそんなに大事なことなのでしょうか。投票を義務化すべきだという意見もありますが、全ての国民が政治的な意思決定に参加することにデメリットはないのでしょうか。そんな疑問から出発して書き始めていきたいと思います。付け加えるまでもないですが、これから書く文章はなんとなく生まれた疑問を言語化したものなので、そこまで論理が徹底されているわけではありません。

実際に投票をしてみると、どの候補者や政党に票を入れれば良いのかを決めることは意外と難しいことがわかります。今優先して取り組むべき課題が何で、その課題に対する正しいアプローチを採用している政策がどれなのかを判断するのはとても難しい。その結果、今の自分にとって重要な課題を優先的に考えて、それに対する政策を適切に打ち出している政党を選ぶという形に落ち着いたりします。

今回の選挙の投票率はざっと50%くらいですが、残りの50%の人たちはなぜ投票しなかったのでしょうか。政治に関心がない、政治のことはよくわからない、誰か他の人がやってくれるはず、などなど理由は様々考えられますが、そこまで興味がないというのが基本姿勢だと思います。興味がないから投票に行かないというのは実に自然な行動パターンであり、興味がなければ政治がどのように行われているのかとか、どうあるべきなのかといった問題に対して思考を向けることもあまりないはずです。端的に言えば「政治よくわからん」みたいな人物像を描くことができます。

仮に、投票が義務付けられたり投票に付随するキャンペーンが魅力的だったりして、国民のほぼ全員が投票に参加したとしましょう。そこでは、政治のことをよく知らないし興味もない人たちが、投票をしていることになります。国の将来にかかわる重要な決定に対して、言い方は非常に悪いですがノイズとなるような意見がかなりの割合で混入することになります。となると、それが必ずしも国や国民に対して良い結果をもたらすとは言い切れないはずです。

それに、政治というのは国全体に関わることですから、やはりそれだけの視野と知識を持った状態で投票に行くことが望まれます。まずは自分の身近な問題だけを考えて、そこから自分の意見を持とう、そして投票に行こう!みたいな働きかけをしている団体は数多く見受けられますが、個人の利益と社会全体の利益はやはり異なります。アダムスミスは各個人がそれぞれの利益を追求することで、結果的に社会全体の利益がもたらされると主張しましたが、果たして神の見えざる手は政治の世界にもその手を差し伸べてくれるのでしょうか?

そう考えると「とにかく投票に行こう!」とか「投票率を上げよう!」という意見が、そこまで称揚されるべきものなのか、という点については疑問符をつけざるをえません。むしろ、「政治のことはよくわからないから投票に行かない」というのは非常に誠実な態度ではないかと僕は思います。

民主主義には「国民がまともな意思決定をできる」という前提があります。しかし、私たちがこの前提を満たせているかと問われれば、それにイエスと答えるのは難しいでしょう。トランプの躍進はその良い例であったと思います。

つまり、民主的な意思決定と、適切な政策の実行とは必ずしも両立するわけではないということです。政治についてよくわからないけど、とにかく投票するのが大事だからとりあえず行っておくか、という姿勢が導くのは一体どんな未来でしょうか?

ここまで「政治についてよくわかっていない人」という言葉を何度か用いてきましたが、それはもちろん僕にも当てはまります。景気が良くない、安全保障が危機に陥っている、このままではいけない。では、どうすれば良いのか。景気を回復するための有効な手段が何で、それによるメリットデメリットはどのようなもので、それが実際に社会にどう影響を与えるのかなんて、正直お手上げです。どうしたら東シナ海の緊張を緩和して、軍事衝突を避けられるのかもわかりません。抽象的なことはいくらでも言えますが、実際にどのような措置を取れば良いのかといった具体的なことはわかりません。

それに加えてグローバル化が進行した現代社会では、ひとつの社会問題を考えてみても、そこに複数の問題が折り重なっていて、視点によって多様な対立軸が生まれます。その全てを解決するのは不可能であり、正解などどこにもありません。

問題が高度に複雑化すればするほど、専門知が求められるようになります。実際、コロナ禍においては尾身会長が中心となってコロナ対策を進めました。それはなぜかと言えば、対策に失敗すれば国家に対して多大な影響を及ぼすからです。医療の素人である議員たちが対策を練るよりも、その道の専門家に委ねた方が正しい決定が行われる見込みが高いからです。

するとここでひとつの疑問が生まれます。
正しい決定を行うことが重要視されるのであれば、なぜわたしたち一般市民が政治的な決定に(間接的であれ)関わる必要があるのでしょうか?経済、安全保障、環境問題、それぞれの問題について専門家が適切な判断をして決定を行えば良いのではないでしょうか?一般市民が決定に関わると、何も知らないがゆえに誤った経済政策や外交政策を掲げている政党を選んでしまうリスクが常につきまといます。

もちろんこの疑問には簡単に反論することができます。ではその専門家は誰がどのように決めるのか。結局独裁的な政権が誕生してしまうのではないか。国民が監視・審判の目を向けることによって、国家の暴走を予防する効果がある、などなどたくさんあると思います。

このように考えてみると、民主主義というのは結果に至るまでの過程をとても大切にしているということがわかります。(ほぼ)全ての国民が政治的な決定に間接的であれ関与することで、ジャッジの目を加わえられるし、それなりな合意を得た決定ができます。先ほど正解などどこにもないと書きましたが、確かに絶対的な正解がない以上、より多くの人の合意を得て、出来るだけ国民が関与できる形で政治的な決定を行うべきだという主張には説得力があります。

そうは言いつつも、じゃあ正解がないからといってよく分からない人の多数決で決めてしまっていいのかといえばそうではないはずです。やはり大事なのは過程と結果のバランスをどうとるか、という非常にありふれた結論にたどりついてしまいました。

話が大きくそれてしまいました。投票率を上げることはそんなに良いことなのでしょうか。もちろん、投票率が高いという「状態」は良いことだと思います。しかし、投票率というのはあくまで結果であって、過程の改善を抜きにして、無理して投票率を上げようとする行為にはやはり賛同できません。投票率というものは「上げる」のではなく「上がる」ものであり、中身の伴っていない外面だけの投票率はかえって私たちの未来を蝕んでしまうような気がします。私たちがすべきことは、ただ闇雲に選挙へ行くように促すことではなく、彼らが政治に関心を持ち、自発的に投票へ向かうような雰囲気を醸造することなのではないでしょうか。以上、今回の選挙を振り返って感じたことでした。

色々不足している部分があるのは自覚しているので安心してください。

いいなと思ったら応援しよう!