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19→20

二十歳になった。
だからといって何か生活が大きく変わるとかそういうわけでないが、どこか自分が大人になったような気がしている。子供と大人というグラデーションの変化に線引きをするという意味では、二十歳は大きな役割を担っているのだなと感じるし、それ故に”ハタチ”というのはしばしば人生の節目として捉えられたりもするのだ。そんな節目を迎えて感じたことをここに記しておこうと思う。

時の流れ

「え、もう二十歳なの!?」
それが率直な感想だった。こないだ高校を卒業して大学に入学したばかりだと思っていたのに、気づけば大学一年生を終えて二十歳になっている。時の流れが速すぎて五年後くらいには、朝っぱらの公園でゲートボールでもしているんじゃないか、そんな恐怖に時々襲われる。

とはいえ、ミクロな視点で見てみると決してあっという間だったとは思わない。一週間前が一週間前じゃないような、もっともっと前の出来事のように感じるのだ。それは一日一日が厚みを持っていたからだと思うし、そんな感覚は忘れないほうがいいよな、と思う。

やっぱり思い出すような出来事が多ければ、それだけ経てきた月日は長く感じるし、その逆も然りである。薄っぺらい、あってもなくても変わらないような一日ではなくてはっきりと記憶の一頁に刻まれるような一日を重ねていきたい。繰り返しの毎日はできる限り送りたくない。そういう心持ちで生きていけば、少しは充実した人生を送れるのかもしれない。

答え合わせ

年相応の成長を出来ているのだろうか、とふと思う。確かに二十年分の日々は積み上がっているのだけれど、二十年分の経験と教養を得られているとは思えないし、それだけの人格を持った人間にもなれている気はしない。

僕たちは想像する。こんな人になりたい、こんな生活をしたい、僕たちは常に想像しながら生きていると言っても過言ではない。当然、過去の自分も今と同じように何某かの想像をしていたわけで、僕たちは日々過去の自分との答え合わせの中に生きている。そして、両者の答えは大抵一致しない。その場合、過去か現在かどちらが正解なのだろうか。出来ることなら、現在を正解にしたいし正解であって欲しい。人間は日々変わっていくものだし、現状維持は衰退だから。

未来の自分には、良い意味で僕の期待を裏切って欲しい。もちろん、変化は怖いし、今の居場所が失われるリスクだってある。だけどやっぱりリスクより可能性を取れる人間でいたい。想像通りの人生を歩むのは多分面白くない。

堆積

大学に入って自分は変わったな、と思う。環境が変わって色々な刺激に触れて、過去の自分とは違うまた別の存在になったと感じる。だけど、それは正しくない。確かに自分は変わっている。でもそれは、過去の自分とは全く別の自分Bが存在しているというわけではなくて、あくまで過去の自分にプラスアルファで新しい要素が積み上がっているというだけの話なのだ。過去と現在は繋がっている。その意味で僕らは過去の堆積物でしかない。

過去の堆積だからこそ、もうあの頃の自分には戻れないのだなと感じる。物理的な意味ではもちろんのこと、心理的性格的な意味でも、だ。旧友と会ってもあの頃と同じようには過ごせないのはそういうことだと思う。僕たちは堆積物であるが故に、それぞれ異なった環境に身を置くと、異なる要素が積み上がる。もちろん、それが良い方向に作用することもある。しかし、僕はもう純粋な意味でかつての自分には戻れない。だからこそ、懐古の念に駆られるのだろう。

ピーターパン

二十歳。
子供ではないけど、大人でもない。
モラトリアム。

僕たちはピーターパンにはなれない。それでもやりたいことをやっていたいし、自分で自分を縛らず素直でいたい。もちろん「やりたいことをやるために、やらなきゃいけないこと」も当然存在するのだけれど、そんな課題もなんとかこなしつつ、ラフにタフに生きていたい。そんなことを思った誕生日だった。(だいぶ過ぎてるけど)


こないだのGREENROOMで見たけど、やっぱりNulbarichはかっこいい。

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