【旅行】2024年秋の遠足 −4− 六呂師高原 学校がなくなる風景
六呂師高原というと私の世代にとってはスキー場があるイメージが強い。
学校のスキー合宿で奥越青少年自然の家に団体で泊まり、すぐ近くの六呂師高原スキー場で終日スキーをやったもんだ。
ボーゲンは簡単にできたがパラレルがどうしても分からず、それでもジワジワと斜面を下れるようになった時は一気にスキーが面白くなった。
スキー場には三角山といって一番高いピークがあり、ここから降りてヒーローになろうと安易にリフトに乗ってみたはいいが、いざ三角山の上に立ってみるとものすごい急傾斜な上にコブだらけで、ボーゲンで泣きながら降りたような気がする。
そのスキー場も今はなくなり、近くにあったキャンプ場と温泉も今は立ち入り禁止になって一面ソーラー発電パネルが埋め尽くしているのも時代の流れだな。
それから六呂師といえば牧場だ。
ジャージー牛といってうまい牛乳が採れる牛がいて、平泉寺ソフトクリームの原料になっていたので、六呂師に行ったらソフトクリームを食わずに帰るのはなんだか犯罪のような気がする。
そんなわけで今回の遠足の最後の訪問地は六呂師高原だ。
さて、旧和泉村の山奥から下界に戻ってくるのだけれど、その前に寄り道をしよう。
というのは、中竜鉱山近くの旧上大納小学校には昇竜まいたけの直売所の看板があって、すっかり頭が舞茸でいっぱいになってしまったからだ。
そんなわけで、旧和泉村にいる間にどうしても舞茸が欲しくなり、今その業者がある工場までいってみようということになった。
場所は九頭竜インターのすぐ近くで、これは便利だ。
国道158号線を郡上八幡方面へ上り、旧和泉村の中心である朝日を抜けると九頭竜ダムの調整池である鷲ダムが見えてくる。
ここで道を北に折れると中部縦貫道の九頭竜インターがあるのだが、この手前に昇竜舞茸の工場がある。
新しくできた工場のようで、いつもここを通る時に知ってはいたのだが、直売をやっていたとは気が付かなかった。
実は我が家は舞茸が大好きで、以前越美北線の九頭竜湖駅にある売店で乾燥舞茸の割れたやつがぎっしり詰まった袋がえらく安価で売られていたのを見て早速飛びつき、その袋はその後しばらくわが家にシアワセをもたらしてくれた。
あの割れ舞茸が欲しいぞと思ってその後国道158号線を走るたびに毎回その売店を訪れていたのだが、その乾燥舞茸を見かけることはなく、悲しい思いをしていたのだ。
もしかしたらそれを売っているかもしれないという期待は大きい。
ごめんくださいと中に入ると、昇竜舞茸の社員さんがばね仕掛けのように飛び出してきて、えらい歓待を受ける。
どうも平日だとよほど客さんは稀なのかもしれない。
直売所はそれほど大きくはないが、大きなガラス窓越しに舞茸栽培の様子が見れて、大変面白い。
でかいブロッコリーほどある舞茸は実にうまそうだ。
ここではそのばかでかい株を1200円で販売しているが、培養しているものをそのまま売っているのでこれほど新鮮なものはない。
なんでも冷蔵庫で1週間は保つとのことなので、早速一株いただいて週末舞茸まつりをやろう。
それから割れ乾燥舞茸は昔買ったものの倍くらいの袋に入っていてこれも1200円くらい、これは大変いいものだ。
そうしてホクホクになった我々は高速に乗り、六呂師高原へと向かうのである。
六呂師高原はとんでもない大昔に経ヶ岳がボカーンと噴火して大量の溶岩と土石流がデロデロと流れ出したことによってできた地形だ。
経ヶ岳は福井県内で唯一火口のカルデラが残る山で、その南西部が大きく崩れているが、その先に六呂師高原がある。
結構急な坂をグネグネ登っていくと、途中に家ほどもある巨大な岩がいくつもあって、なるほど火山活動でできた地形だとわかる。
ある程度登ると地形は台地状になって、集落が見えてくる。
ここが南六呂師で、昔はここ単体で村だったのだろう。
この村では見たいものがいくつかあったが、その一つが村の外れにある小さな木造の小屋だ。
今では福井大学のワンダーフォーゲル部が山荘として使っているものだが、実は大変古いものだ。
かつて六呂師には陸軍の広大な演習場があって、今牧場になっているあたりがそうなのだが鯖江の歩兵三六聯隊がやってきては訓練をしていた場だった。
今の陸自の演習場もそうだが、大部隊がやってきて演習をするためには寝泊まりするための宿舎があって、厰舎といった。
これが南六呂師の集落のすぐ西にあったのだが、この馬小屋がこんにちも残って使われている。
この厰舎は戦時中には捕虜収容所として使われ、四国の善通寺から連合軍の将校が移送されてきて、割と良い待遇で使われていたという。
今では福大のワンダーフォーゲル部が代々ここを使っているが、あちこちきちんと修繕がなされていて、やはり建物は人に使われていてこそ長持ちするものだとおもう。
次に、南六呂師にはかつて小学校があったのだが、珍しいことに新しいものと古いものの両方が残っている。
なんでも1990年代頃までは村の中の大昔の木造校舎を使っていたのだが、場所を変えて近代的な鉄筋コンクリートの校舎を建てて移転、その後生徒の減少に伴って他の学校と統廃合という形で廃止された。
それで、新しいものと古いものが両方残っているのだが、学校がなくなるという事象は今では全く珍しくなくなり、過疎地だけでなく下界の街でもそういうことを見かけるようになってきた。
今回の遠足を企画する段階で福井県内の廃校となったものをいろいろ調べてみたが、最近になって相当数が統廃合で消えているのを知って大変驚いた次第だ。
学校がなくなるということは子供が減っているということで、子供が減るということは次の世代を担うものがいなくなるということだ。
10年ほど前から、どうやら日本は緩やかな滅びの道を進んでいるのだなと感じていたが、最近になってそういうことを目で見える形で目にすることが増えてきた。
地方行政の限界もどうやらいろんな形で現れるようになってきて、今まで当たり前にできていた生活も多分あと10年、早ければ5年でほころびが出てくるに違いないと予想しているのだが、最後の人口ボリュームである我々の世代はこれからどう生きるかということが問われている気がしてならない。
価値観も大きく変わるであろうし、失われる習慣も多いだろう。
その時になって、過去を直接知っている我々は、若い世代にとって土地の古老のように見えるに違いない。
そうなれば、昔の良いものを後世に残し、昔のくてかったことをやっぱり後世に伝えるのはどうやら我々がこれからやる仕事になるだろう。
いつまでも若いと思っていたが、気がついたらそういう世代になっていたということがわかる遠足だった。
さて、次の遠足はどこに行こうかな。
おしまい
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