【旅行】2024年秋の遠足 −2− 平泉寺白山神社は日本史の縮図だ
遠足の日の朝がやってきた。
奥越方面に向かうということで、時間はやや早い朝7時半に集合し、まずは勝山の平泉寺へと向かう。
遠足というからには何かの学びがあってこそ面白いというわけで遠足のしおりを持参、参道の入り口に着いたところで軽く授業を行なってみた。
そもそも平泉寺というのはどういうものでどんなことに影響を及ぼし、こんにちどんなところに特徴を見出せるかということを知っておくことで、一見鄙びたなんかしらんけどなんかステキ風なソフトクリームを食いに行く場所が、随分面白いものに見えてくるのだ。
私がこういう場所を歩く際は、可能な限り昔の様子が目に浮かぶ程度に想像できるくらい調べたり脳内復元を行ってから行くのだけれど、お嬢様方にもそんなイメージが持てただろうか。
ネタをバラすと大いに参考にしたのが司馬遼太郎の「街道をゆく 越前の諸道」で、いろいろ細かいことが違ったりするのかもしれないが私が知る限りこの本の平泉寺に関する記述が一番身も蓋もなく正鵠を射ているような気がする。
司馬遼太郎が実際にここを訪れたのは多分昭和40年代から50年代くらいだと思うのだが、観光整備がおこなわれている部分以外は今もほとんど変わっていないことに驚く。
作中では、旧玄成院の庭園の拝観料が50円であることに大変驚いたというくだりがあるが、令和のこんにちに至っても未だ50円であることに私はもっと驚いた。
泰澄が平泉寺を開いたきっかけとなった池は1300年も経ったこんにちも埋まることなく依然として池で、少なくとも杉林に囲まれた境内は江戸時代からほぼ姿を変えていないように思える。
今回はまほろばというビジターセンターのような施設にまず入って、予習というか予習の答え合わせを軽くやってから歩こうと思ったのだが、この施設の展示がなかなか秀逸で、気がついたら結構な時間をここで過ごしてしまった。
特に白山禅定道に関する説明がすばらしく、私も昔はよく白山に登ったものだが、どういう経路で途中どういう施設があったのかということが面白く、この絵図をもとに縦走したらきっと楽しいに違いないな。
先の話にも書いた通り、平泉寺はもともと白山山岳信仰の拠点として奈良時代にできたものだが、律令制度の崩壊に伴って大きな力をつけることとなる。
律令制度を経済的に支えたものは公地公民制による班田収授の仕組みで、これは農民一人ずつに一定の班田を貸し付け、生涯税を搾り上げるという制度なのだが、今となっては共産主義における集団農場のようなものだ。
この制度はできた途端に破綻してたとも言われており、農民の労働意欲も上がらなければ当然新規で農地を開拓しようという動きも生まれない。
そこで苦肉の策として出されたものがのちに律令制を根底から覆すことになる墾田永年私財法で、これは独自に開拓した農地の私有化を認めるものだ。
無論、個人で原野を開拓するということは重機のないこの時代には難しいことで、当然ながらそれぞれの土地の豪族といった財力のあるものが人間を組織して行うことになり、開拓を行ったものを開発領主という。
ただし、そうやってできた農地も墾田として認められなければ結局は「国の公地」ということで収奪されてしまうので、開発領主は農地を有力者に寄進することで安全保障を図るのだが、それは往々にして寺社であることが多かった。
当然寄進する以上何がしかの上納を納める必要はあるのだが、班田に課せられる租庸調といった重税よりはかなりましであったようで、寺社は放っておいてもあちこちから土地の寄進を受けるようになる。
こうした土地は荘園と呼ばれ、不輸不入の権として公的な納税と支配を脱することができる。
つまりは、朝廷が一時しのぎで安易に行った方策が深刻な脱法の手段となり、最後には政体自身を滅ぼしたということで、こういうことは今でも結構あるのではないかと思う。
このようにして平泉寺は多くの荘園を集め、その宗教的意義とは関係がないところでどんどん力をつけていくことになる。
その後の平泉寺は富と力を無限に集めるに従って、平泉寺六千坊といって戦国大名のような挙動を示すようになる。
六千坊というのは、僧兵六千人の兵力を擁していたということだ。
南北朝の頃は当初北朝の足利方についていたのだが、強引に取得した寺領が足利尊氏からの安堵が得られないとみるや踵を返して南朝側に付き、福井に転戦してきた新田義貞を援護するが、北朝の足利高経より藤島の庄を裏切りの代償として示されるや再び寝返り、そのために孤立した新田義貞は燈明寺畷の戦いで討ち死にすることになった。
仁義も何もあったものではないが、このことによって藤島の庄を得た平泉寺は大幅に自領を拡大し、六千坊と言われた兵力は八千坊に増強される。
宗教組織というよりも地方の独立勢力として様々なことに介入し、様々な手段で周囲の荘園を収奪しては寺領を増やしていったのだが、同じ越前の守護大名の朝倉氏とはどうやら相性が良かったようで、同盟のような関係で相互に安全保障を約束するような間柄となった。
その朝倉氏が1573年に織田信長によって滅ぼされると、後ろ盾を失った平泉寺は翌年地元の一向一揆によって焼き払われる。
よほど地元の恨みを買っていたと思える。
このように諸悪の根源そのもののような振る舞いをした平泉寺はいったん灰燼に帰すのだが、まともな人もいた。
平泉寺の学頭を務めていた顕海という僧がいて、平泉寺焼き討ち後は美濃国境あたりに10年ほど潜んでいたが、ほとぼりが覚めた頃に焼け野原になった平泉寺に戻ってきて再興を図ることになる。
その後の平泉寺は江戸幕府の公認を得ることによって大名と等しいほどの寺格を得るが、真面目な寺として明治時代を迎える。
拝殿の傍にはそれぞれ別山と越知山を祀るお堂があって、それぞれを参拝することでその山に登ったのと同じご利益があるという。
平泉寺白山神社というからには当然本堂は白山を祀っていて、実際に白山禅定道を歩けない人はここを参拝することで代償としていたとのことだ。
さて、果たしてここは神社なのか寺なのかどっちだと思う人は少なくないだろう。
なたでぶち切ったように大雑把な答えをするならば、寺であり神社である。
より正確を期すならば、神社の皮を被った寺であったというべきだろう。
これは日本仏教の実に摩訶不思議な特徴で、本地垂迹という考え方によるものだ。
日本には八百万の神々がおられるが、実は正体(本地)は仏であって、故あってナントカという神に身をやつしてここにおわす(垂迹)のだという。
なので、平泉寺白山神社の場合祀られているのは「伊弉冉尊(十一面観音)」という書き方になる。
こうなると本来哲学であった釈迦の仏教とは全く別物であると言わざるを得ないが、現実に即して融通無碍、身もふたもない言い方をすれば、体裁さえまとまっていれば本質などどうでもいいというこんにちに通じる日本人の民族性らしいと言えるかもしれない。
やがて明治維新を迎える時代になると、明治政府は神仏分離令といって寺か神社かはっきりせいという政策を取る。
当時は廃仏毀釈の風潮が強く寺への風当たりがきつかったことから、当時の平泉寺の住職は還俗して僧であることをやめ神職へと転職するのだが、このフットワークの軽さは一体何事だろう。
こうして平泉家という家が創出され、平泉寺は爾後白山神社として振舞うようになる。
その何代目かに平泉澄という人がいて、戦前は東京帝大の教授として国家神道の権威になったのだが、つまりは皇国史観の中心的人物だ。
戦争中に天皇の神格化が強調され、帝国陸海軍をはじめ日本国全体が神がかりのようになったのはこの人の考え方に基づいた結果なのだが、その功罪は敢えて語らずとも、平泉寺は中世から現代史に至るまでつくづく世の中を騒がせてきたものだ。
戦後は帝大を追われて平泉寺に戻り、静かに神職をやっていたとのことだ。
平泉寺は他にも門前町や砦跡など見所は多いのだが、今回の遠足では時間の制約もあるので境内に限って見学した次第、いずれ時間があれば丸一日滞在して歩き回りたい場所だ。
というわけで昼前に平泉寺を離れ、いろいろ惜しいが次の場所へと移動するのである。
つづく
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