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【旅行】仙台苫小牧ドンブラコ −12− 苫小牧という街はこんなふうにできている

午前11時くらいに太平洋フェリーきたかみを下船した我々は、そのままフェリーターミナル前からバスに乗って市内へと移動する。
のんびりとした天気で、北海道のやや淡い青空が広がっている。
バスが来るまでのんびりと待つ間、久しぶりにスケッチなどもやってみる。

さて、苫小牧という街について何かイメージを持っている方がおられるとすれば、吉田拓郎の「落陽」に出てくる街だという人がもっとも多いのではないだろうか。
中学校の地理では製紙業が盛んだと習う程度で、まああまりパッとしない北海道の地方都市くらいに私も考えていた。
そういえば大昔に「桃太郎電鉄」というゲームがあって、日本全国の企業を買い占めて回るというものだが、あれはそれぞれの土地に何があるのかということがよくわかる上に、資産価値がどのくらいであるかまでゲームシステムに組み込まれていて大変よくできたものだったが、今でもあるのだろうか。
その苫小牧だが、調べてみると色々と興味深いことが出てくる。

北海道なので元は全て原野だ。
この土地の開拓が始まったのは明治3年の高知藩によるもので、その後開拓使の出張所が置かれて少しずつ街ができていく。
明治29年の地形図を見ると駅前に小さな碁盤の目があることがわかるが、これは律令制に基づく条坊制で作られた街で中央の太政官が任命した国司が派遣されて開拓の任を負った、という大ウソはいけないな、どうやらアメリカ式のタウンシップ制の匂いがする。
そもそも北海道の近代化は本土と違ってアメリカの影響を大変強く受けているもので、北大に銅像があるクラーク先生もアメリカ人なら、初期の北海道の鉄道を牽引していた機関車も大きな牛よけが特徴のアメリカ製の「弁慶号」や「義経号」だった。
何もない原野を開発するにはちょうどアメリカの技術や思想が適したのだろう。
タウンシップ制というのは公有地の開墾を促すために、一定期間その土地に居住することでその土地を供与するというものだ。
日本における墾田永年私財法のようなものと言えるかもしれないが、これは民の逃散を防ぐためにやむをえず出した妥協の産物であるのに対して、タウンシップ制は「さあこれからこの原野を大きな街にしてやるぞ」という意気込みが伝わってくる。
北海道の初期の開発を支えた屯田兵制度もタウンシップ制を参考に作られており、ここが明治日本のフロンティアであったわけだ。

今昔マップより明治29年と現在の苫小牧

さて苫小牧といったら製紙の街だと中学校の地理でも習うように、その開発は王子製紙に負う部分が大きい。
豊富な森林資源と水がほぼ無尽蔵に得られる土地ならではのことで、明治43年に王子製紙苫小牧工場が操業を始めると、苫小牧は一気に市街が広がる。
巨大な敷地を擁する工場だけでなく貯木場やこれらに連絡する専用鉄道が敷かれ、また多くの職員や労働者のための宿舎や学校、病院といったインフラの整備も進む。
元が何もない土地なので、こういったところを街にするには企業が頑張ってインフラ投資を行うという図式は炭鉱や鉱山ではよく見られるのだが、苫小牧もどうやら同様であるようで、今でも駅前の大きなホテルが王子製紙の経営だったりする。

今昔マップより昭和10年の地形図と昭和36年の空中写真

さらに苫小牧をもっと大きな地勢の中で見てみよう。
太平洋に面した北海道の港湾はいくつかあり、大きなものでは他に室蘭と釧路があるが、その中でも苫小牧がもっとも北海道の中心たる札幌に近く、また夕張炭鉱などの石炭積出港として効率がよい。
そのため戦後になって苫小牧港の整備の必要が叫ばれるようになり、工業港として今の苫小牧西港の建設が昭和26年に始まる。
ちょうど我々がフェリーに乗ってきて上陸した場所だ。
ここは世界初の内陸堀込港として作られたとのこと、つまり陸地を掘って港にしたということだ。
ここは北海道随一の工業港となり、北海道産の工業製品の積出港であるだけでなく、内地からの物資が持ち込まれる玄関として機能するようになった。
北海道から石炭産業が消滅してだいぶ経つ現在においても苫小牧港の内航貨物取扱高は日本一であることから、北海道の生命線といっていい。

今昔マップより 昭和36年と現在の苫小牧西港周辺

そういうわけで今でも本州の各地と連絡するフェリーや貨物の定期便が多く苫小牧を出入りしていて、我々が乗ったきたかみが入港する時もどこか他の港へ行くフェリーとすれ違ったり、巨大なROーRO船が停泊しているのを見たわけだ。
中でも神珠丸という自動車運送船のように独特の形をした船が印象的だったので、調べてみると、これはRO−RO船でもあるがロール紙の専用運搬船でもあるとのことだ。
運用している栗林商船株式会社のホームページによれば、この船は総トン数14052トンで搭載できる貨物はトレーラー154台商品車250台ロールペーパー2000本ということだ。
紙は紙クズなら吹けば飛ぶくらい軽いものだが、きちんと梱包した紙ほど重いものはなく、私なども普段扱う荷物でもっとも重たいものはそういう梱包された紙なので、紙ほど重いものはないというイメージを持っている。
そういう紙を運ぶのに専用船まであるほどに、苫小牧は製紙で成り立っている街だといえる。
なおRO−RO船というのは貨物を車両ごと積み込むタイプの貨物線で、カーフェリーから乗客区画を取り除いたようなものだ。
コンテナ船が普及する前に発明されたタイプの船だが、ガントリークレーンのような大掛かりな専用の荷役インフラが特にいらないため内航船などではよく用いられているようだ。

苫小牧西港に接岸しているRO−RO船神珠丸
港にやってきたバス

そのようなことを考えながらバスを待っていると、やがて市内行きのバスがやってきた。
これに乗り込み、しばらく窓の外を観察する。
ものすごくだだっ広い港湾地区を抜け街へ続く大通りに出る。
片側4車線もあり、北海道はなんと贅沢な土地の使い方ができるのだと感心した。
北海道はでっかいどうなんていうコピーが大昔あったものだが、なるほど気持ちは分からんでもない。
また高い建物がないどころか、土地に対する建物の建蔽率がかなり低く、スカスカな印象を覚えるのだけれども、これはわざわざ建物を上に積み増しする必要がなく、いくらでも水平に拡張できるからなのだろう。
10分くらい乗って市役所前で降りる。
市役所は大通り側からは分からなかったがかなり立派で大きな建物で、街は一見活気がないように見えても経済的には大変重要な街であることがわかる。

苫小牧市役所


市役所の前には広報の看板があって、市のキャラクターのようなものが描いてあった。
キャラクター自体は特に珍しいものではないが、名前が珍しかった。
なんでも「とまチョップ」というらしい。
苫小牧という街の名前に、苫小牧の名物であるいろんなものの一文字ずつを組み合わせた造語らしく、土地の中学生が考えたということだ。
なんだか全日の馬場社長の必殺技みたいで微笑ましい。

これがとまチョップ
名前の由来はこういうことになっているらしい
駅前の工事現場の壁にはとまチョップの漫画があった

まずはホテルに荷物を置いて身軽になろう。
チェックインにはまだ時間が早いのだが、スーツケースを預かってくれるだけでも午後の行動が取りやすい。

苫小牧の宿
文字通りコンフォートだった

荷物を置いた後は、まずは昼飯にしようと思って街に出る。
お盆であるせいか、夏の暑い盛りであるせいか、元々人が少ないのか、街にはほとんど人影がない。
これも今の日本の地方都市に共通した特徴だろう。
ひと昔は栄えたのだが今ではもう、というよりも苫小牧市自体が元々人口が少ないと見える。
そもそも土地に対する建物の比率が福井県と比べても半分くらいで、とにかく街がスカスカだ。
中には開いている店もあるのかなと思ったが、これがなかなかない。
人が中にいそうな気配がすることもあるのだが、夜からの営業らしく、このままでは昼食難民になってしまうぞと思った時に、蕎麦屋が見えた。
ありがたいことに営業しているのでここで昼をいただく。

市役所前の大通り
街はスカスカで道はやたらに広い
商店街のシャッターに絵が書いてあった
地元の高校の美術部が手がけたものらしい
駅前に続くメインストリート
福井以上に人の気配が少ない
大変うまかったつけそば

最近そばのジャンルに「つけそば」というものが出てきたことは何かで知っていたが、これはなかなか結構なものだった。
どうもつけ麺のフォーマットをそばに応用したものらしく、ラー油が効いてうまいものだ。
特に「木の実つけそば」というのがうまく、ピーナッツを粉砕したペースト状のものが入っていることでものすごくクリーミーな味に変化する。
これは福井に帰ったら一度やってみなければならないな。

そういうわけで昼飯も済ませ、午後の行動を開始する。
実はこの日の午後私にとって個人的に一番楽しみにしていたものが見れるので、この旅行を通して一番期待していた次第だ。
このために苫小牧に来た、というよりこのためにフェリーで北海道経由で福井に帰るよう予定を立てたといっていい。

つづく

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