絶望的な永遠でしかなかった水中25メートル
私は運動というものがからっきしダメな子どもでした。
走るのも投げるのも蹴るのもダメ。何させてもダメ。
言うまでもなく、中高ともに文化部でした。
小学2年生の冬、母親に言われたある一言。
「スイミングと習字、習うんだったらどっちがいい?」
考えるまでもなく「習字」と即答。
私は、走るよりも投げるよりも蹴るよりも、とにかく何よりもダメだったのが「泳ぐ」でした。
体育のカリキュラムの中で、ダントツに嫌いでダントツでポンコツだったのが水泳です。
でも、私の小学生の頃の夏休みは、残念ながら水泳とともにあったのでした。
私が通っていた小学校では、毎年夏休みに「水泳教室」を学年ごとに開いていました。
そして学年ごとに設定されていた、水泳教室に通わなければいけない「基準値」。
確か1年生は「水中のボールを取ることができる(水中で目を開けられる)」、2年生からは◯メートル以上と泳力が求められるようになり、4〜6年生は共通値の25メートルでした。
夏休み前のテストで、学年ごとの基準に満たなかった児童は、自動的に水泳教室に招集されるというシステムでした。(要するにカナヅチキッズの補習授業)
期間としては大体2週間くらいだったかと思うのですが、感覚的にはもっともっと長かったような気もします。
そう、私にはこの「感覚」が未だにはっきりと残っています。
なぜなら、学年内で唯一6年連続で水泳教室に通い続けた児童だったからです。
3年生くらいまでは割りとカナヅチ仲間が多かったのですが、1人、また1人と仲間は減っていき、5〜6年生の頃は片手で収まる程度の人数しかいませんでした。それでも1人じゃなかっただけまだ良かったのかもしれません。
低学年の時は基準をクリアしていたけど、高学年では招集免れずという子も中にはいました。
私を1人にしないでくれてありがとう(泣)とは思いましたが、それでも私はその子のことすら羨ましかったです。
6年間通い続けたという気持ちだけは、誰とも共有できない。
そのことが、やっぱりちょっぴりさみしかったんですね。
陸上だと25メートルなんて大した距離じゃないはずなのに、水中の25メートルは果てがないように感じました。まさに絶望的な永遠。
私はクロールも平泳ぎも背泳ぎもできませんでした。
どの泳ぎ方においても、まず私は息継ぎが全くできないんです。
息継ぎなしで泳ぐ、いわゆる「面かぶり」が私の泳法。(というかこれしか選択肢がない)
私にとっては水泳=息がもたなくなるまで水の中に居続けなければいけない苦行でしかなく、難なく25メートルを泳ぎきっていくクラスメイト達と私は本当に同じ人間なのかな???と本気で思いました。
水泳教室に6年間通い続けたものの、結局25メートルは泳げないまま小学校を卒業。
息継ぎもできずじまい。(息継ぎしようとするとどう頑張っても身体が沈んでいくんですけど逆に何でみんな浮くんですか?切実)
中学・高校もカナヅチから脱せられずに、私の学生生活は幕を閉じたのでした。〜完〜
「子どものころの夏休み」って、なんだか甘酸っぱくてキラキラしていてちょっぴりエモい素敵なテーマなのに…何故か「水泳教室皆勤賞という苦い記憶」をトピックに取り上げてしまったワタシ。
でも、それでも。
家のお風呂場の掃除をする時、カビキラーをシュシュっと噴射して漂う、塩素の匂い。
「あ、学校のプールの匂いだ」と真っ先に思います。
蒸し返すように暑い更衣室。
身体をすっぽりと覆う、プール用のタオル。
タオルのカラフルな絵柄は、みんな違ってみんな可愛くて。
鉄板か?足裏やけどしちゃうよ?と思うほどに熱せられたプールサイド。
太陽の光を反射させて、ゆらゆらと煌めく水面。
入る瞬間は冷たいけど、外の暑さとすぐに中和されてじんわり心地良くなる水の中。
泳げなかったけど、普段の授業も水泳教室も嫌いだったけど、今当時を思い返すと「なつかしいなあ」という気持ちも自然に湧いてきます。
劣等生が集められた水泳教室に私毎年通ってたんだよ!というのも、今なら笑い話。
だからなんとなく思い出して、なんとなく書いてみました。