「牛」
坂本さんから聞いた話。
坂本さんのお爺さんがまだ若かった、戦後すぐのこと。
彼の住む街の中心には大きな川が流れていた。普段は緩やかな碧色の流れを湛えていたが、まとまった雨が降ると氾濫を起こしやすい川だったという。
その年の梅雨は激しい降雨があり、すこし高台にある坂本さんの家も床下が浸かるほどの被害が出た。
自宅から離れた川岸の田んぼから水が引き、泥掻きに出てみると、一匹の大きな赤牛の骸が、辻に横たわっていた。上流の町には幾つか牛舎があったので、こうした水害の度に川を流れていく牛を見たことはあったが、近隣に流れ着いたのは初めてのことだった。
集落の者が数名集まり話していたので、その輪に加わった。どこの牛かも分からないし、引取を待っていてはいつになるか分からない。かと言って、処分できるような重機も土地も坂本さんは持ち合わせていなかったし、集落の多くの者もそうだった。既に日が差して来ていて、衛生的にも処分を早めたかった。
皆が考えあぐねていると、輪の中の一人が「自分が引き取ろう」と言い出した。集落では顔の効く、〇〇家の本家筋の人間だった。
あぁ、と皆が安堵した。〇〇さんに任せておけば間違いなかろう。いつもありがとうございますと、なぜ今まで忘れていたんだとばかりに賛成し、口々に礼を言って解散した。その話題はそれきり、皆泥掻きや畳干しに追われて忘れてしまったという。
翌朝になってみると、大きな牛の骸は消えていた。礼を持って行かなければと誰となく言い出した。ところが、昨日牛を引き取った「〇〇さん」が誰だったのか、坂本さん含め誰も覚えていないという。
前日会話した男のその自信有りげな声と、余裕を湛えた雰囲気は記憶しているが、背格好や姿形は誰の記憶の中にも朧げだった。
〇〇家など、少なくとも坂本さんの知る限り記憶にはない家名だった。集落の殆どを3,4の苗字が占めていたが、そのいずれでも無かったという。
誰か他所のものが紛れていたのでしょうかーー若い男が不安気に聞いたが、それは違うと思った。あの時同席した者は皆、あの男は集落を束ねる地主の男だと、当たり前のように受け入れていたのである。
それから何度か水害があったが、牛が流れ着いたのはそれきりで、結局正体は分からなかったそうである。ただ、集落を見下ろす高台の社に江戸期からある牛の石像には、それ以降誰となく念入りに手を合わせるのだという。
坂本さんから聞いた話。
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