「階段下」
友人の篠原君に聞いた話。
彼の実家は古い二階建ての日本家屋だった。玄関の引き戸を開くとまず土間があって、板張りの上がり口、そのすぐ脇に階段があった。2階に自室を与えられていたのだが、彼は幼い頃からその階段下のスペースが気に入っていたという。
黒々と磨かれて重厚感のある階段、それとは対照的に下のスペースは、それよりも貧相な化粧板の壁によって区切られて、さらに軽い扉が付けられた簡単な物置になっていた。それ自体は後付で作られたらしく、実際、化粧板と階段には隙間が空いていたし、扉と言っても釘の取っ手を付けた簡易なものだ。
篠原くんにとってそこはある種の秘密基地のようなものだったという。マンガや菓子、ゲームボーイ等を持ち込んでは母親がパートから帰ってきて宿題しなさいと扉を開けるまで、彼はその小さな三角形の空間に籠っていたそうである。
ーー元来内気なほうなので、狭くてじめっとした感じが好きだったんですよ。でも完全に扉を閉めると暗くて怖いから、扉を少し開けていたんです。
その日も、篠原くんはいつも通りランドセルを自室に置くと、図書室で借りた本を手に階段下へ向かった。祖父は裏の畑に出ていて、家にいるのは彼ひとりだった。
寝転がり、どれほど本を読んでいただろう、5センチほど空いていた扉が突然、音もなく閉まったという。
軽くていい加減な作りの扉なので、勝手に閉まってもおかしくはないのだが、明かりは天井と壁の隙間から漏れてくる細い光だけとなり本を読めない。
扉に手をかけるも、なぜか開かない。まるで扉そのものが、石か鉄になってしまったかのようにびくともしなくなってしまったという。彼は一瞬でパニックになった。大声で祖父を呼んだが、まるで本当に密閉された部屋の中に居るかのように、声が家の中へ響く感覚がしない。
不意に土間から足音がした。踏み固められた土の上を、柔らかい何かが踏む音がした。しゃり、しゃり、という不思議な響きだった。
じいちゃん、と呼びかけようとして、彼は自分の口を押さえたそうである。玄関を開ける音などしていない。
しゃり、しゃり、という音が土間を上がった気配がした。途端、廊下の板張りを歩くぎい、という音に変わった。
彼は早鐘のような心臓の音を聞きながら、声が出ないよう必死に堪えた。ボロボロと涙が出てきていた。
泥棒だろうか。こっそり入ってきて、自分を閉じ込めたに違いない。このまま自分は殺されてしまうのだろうか。
ぎい、ぎいという足音はそのまま、階段へ足をかけた。自分のすぐ上を、重い足音がゆっくりと登っていく。彼は自分のズボンが濡れるのも感じていたが、微動だにできず、ただ口を抑えていた。
嗄れた男の声で、ボソボソと何か呟いている声が聞こえた。
それは真上の階段に立っている男の発したもののはずだが、自分の真横で、あるいは真後ろで聞こえたような気もした。
瞬間、篠原くんは渾身の力で扉に体当たりをした。彼の予想に反し、扉は彼の体と一緒に蝶番ごと外れ、彼は廊下に飛び出した形となり、扉は廊下の反対側の壁にぶつかり、すごい音を立てた。
暫くして祖父が慌てて玄関から入ってきて、わんわん泣く彼を優しく抱いてくれていた。二階には誰の姿もなかった。
狭くて暗い場所で本なんて読むから悪い夢を見るんだ、父と母に怒られ、彼はその階段下への出入禁止となった。扉はよりきちんとした物が取り付けられ、いつしか再び雑然とした物入れになっていた。
あれは夢だったのだろうか、と今でも篠原くんは自問する。
あの時、祖父は彼を抱きしめ、一通り落ち着かせた後、一緒に風呂に入ってくれた。ただその前に、風呂に酒と塩を入れていた。そしてその翌朝、一緒に氏神へ参詣したはずである。
祖父は何か知っていたんでしょうかーー今となっては分からないそうである。
篠原くんから聞いた話。