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「高野山」

 仕事で知り合った土居さんという方から聞いた話。
土居さんの生家は中国地方の某市である。

 彼女が中学生の頃、ある台風の夜。家中の雨戸を閉め切り、祖父母をはじめ家族皆が早々に床に着いたが、彼女は布団の中で携帯を触って過ごしていた。次第に風が唸るようになり、裏手の雑木林から軋むような音がする。
 突然、ダンダンダン、と重い音と振動が家に響いた。身を縮めるほどに驚いた。明らかに玄関のアルミの引き戸を叩く音だった。
 携帯電話は11時の表示を見せていた。こんな時に誰かが訪ねて来たのだろうか。早鐘のような心臓の音を感じていると、再び戸が叩かれた。

 彼女の部屋は二階の和室で、障子の引き戸を隔てて廊下があり、それを挟んで両親の寝室であるが、起きる気配はない。暫くして、一階の祖父母の寝室が開く音がした。そして階下に明かりが灯ったのが障子越しにかすかに分かった。おじいちゃんが気付いたんだ。

 なお叩かれ続ける扉に対して、祖父が声をかけていた。詩吟で師範の資格を持っていた祖父ゆえ、張りのある、よく通る声だった。「どなた」「消防団の人かい」「見回りですか」祖父はおそらく玄関を開くことなく声を掛けていたのだと思われる。しかし外にいる誰かの返答は、いや返答していたのかさえ定かでないがーー台風の音で、彼女には何も聞こえなかった。

「…何です?」突然、祖父の声が上ずった。「誰ですか?」祖父は明らかに困惑している。すると彼女の向かいの部屋の電気が点いた。父が起きてきて、階段を降りていった。
 
 父と祖父が何事か話しているが、その内容は分からなかった。暫くすると階下の電気が消え、父が階段を上がってきた。
「何事?」と彼女が声をかけると、父は起きてたのか、と言い、「じいちゃんの聞き間違いだよ。誰か家に来たと思ったらしい」と、障子越しに短く答え、自室に入っていった。
 
 それから二年経ったある日中のこと。祖父母は老人会の旅行、両親は仕事。家には彼女だけだった。 

 ダンダンダン、という音に、彼女はリビングの安楽椅子から飛び上がった。誰かが扉を叩いていた。
 地域の老人にはインターホンを押さない人もいる。どなたですかあ、とサンダル履きながら言った。磨りガラスの向こうには、腰の曲がった老人のシルエットが見えていた。
「高野山」老人は確かにそう言ったという。「コウヤサン」嗄れた小さな声だった。

 えぇ? うちは土居ですけど、と彼女は玄関を開けず、お間違えじゃないですか、と続けた。磨りガラスの向こうの老人は、扉を叩こうと拳を上げた姿勢を静かに下すと踵を返し、やがてぼんやりと姿を消した。

 仕事を終えた父が帰宅し、そのことを何となく伝えると、お前それ本当か、と当惑している。一昨年の台風の夜のこと覚えてるか、と言いだした父の話は、以下のようなものであった。
 あの日、祖父が玄関の灯りをつけると、土居さんが見たのと同じように腰の曲った老人が立っていた。「コウヤサン」「コウヤさん」台風の向こうから、微かに嗄れた声でそう声を掛けてきているのである。

 コウヤさんとは「紺屋さん」と書く。それは祖父の故郷の、ある宿場町で呼ばれた屋号であった。苗字がなかった時代、各家を判別するために作られた呼び名。祖父の実家は昔の生業から「紺屋」であった。

 現住所に祖父が家を建ててから、付近にこの屋号を知る人は居ない。実家は父の兄が継いだが早くに亡くなって、そちらの筋は連絡が絶えて久しい。
 父があの台風の晩、祖父と共に開けた扉の先には、誰の姿もなかった。
 
ーー今日のこと、爺さんには言わんでくれ。
父は気味悪そうに話を終えたそうである。

土居さんから聞いた話。

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