令和6年のブックシェルフ 4 〜高い城の男からグリーン・マイルまで〜

10月

 インド疲れからなんとか回復し、本を読むのが楽しくなる。この頃から本を読むペースが上がる。

 

『高い城の男』

 SF読めない病を発症。意地になって読み終えた後、俺はなんて無駄な時間を、と思う。


『ホテル・ニューハンプシャー』ジョン・アーヴィング

 今年二冊目の「出会えてよかった本」である。出会えてよかった、というのが適切ではないくらい有名な本ではあるけれど。

 ジョン・アーヴィングについては、去年『ガープの世界』と『熊を放つ』を読んでいた。その時は何だかよく分からなかった。『ガープ』はそれなりに面白かったけれどいかにも芸術家っぽい怒りが多くてついていけなかったし、『熊を放つ』に関しては眠かった記憶しかない。村上春樹やその他大勢の作家がジョンアーヴィングはずいぶん面白いと言うので、また読んでみたいとは思っていたものの、また退屈な思いをしたら嫌なので少し遠ざかっていた。

 それでも読もうと思ったのは、なんだか疲れて頭がうまく働いていなかったからである。ふと読んでみようと思った。やや投げやりに。どうせ今は何をしても面白くないのだと思いながら。

 結果、『ホテル…』は面白かった。それも並大抵の面白さではなかった。こう言うことがあるから、本を読むのはやめられないのである。

 物語はヘンテコな家族を中心に展開する。家族構成は夢想家の父親、そんな夢想家と恋に落ちた母親、そして小人病の妹や、想いを寄せ合う兄妹、など個性豊かな欠陥を持つ5人兄弟。そんな家族がはちゃめちゃに残酷に生々しく悲劇的に動き回る。僕が惹かれたのは何と言っても、上手く行くはずのない恋をする兄妹が、それぞれにハッピーエンドを迎えるところである。完璧でなくても、物語はハッピーエンドで終わるものである。いくらか限定された形でも、問題は解決されるかもしれないと思わせてくれるものが物語である。僕はそう思うのである。


『冥土・旅順入場式』内田百閒

 森見登美彦が好きな作家だというので読んだ。なんだかよく分からなかったけれど、また何か読んでみたいというモヤモヤした思いは残っている。こういうのを文章が上手いというのだろうか?


『魔女の宅急便』角野栄子

『ぽっぺん先生と帰らずの沼』舟崎克彦

 児童文学を挟みながらなんとか体力を維持していた。


『サイダーハウス・ルール』ジョン・アーヴィング

『ホテル・ニューハンプシャー』ほどではないけれど、楽しく読む。現代の孤児を描くというのは面白いなぁ、なんて恐ろしいことを言うが、物語の中ということで許してほしい。ジョン・アーヴイングの沼にハマりかけていることにはまだ気づかない。


『モンテ・クリスト伯』

 言うまでもなく古く長大な物語である。千一夜物語を読んでおくと、どれだけ長くてもつまらなくても読み通せるだろうというそれほど役に立たない自信を身につけることができる。


『地球の中心までトンネルを掘る』

 現代アメリカの日常の延長ファンタジー短編集。ついでにスーパー面白小説でもある。そんなやついないけど、いるよなぁ、と思う。

 僕のお気に入りは表題作である。大学を卒業し、何にもなりたくない大学生3人が庭に穴を掘る話。ダメだ。説明できない。でも人は、道に迷った時に穴を掘るんです、あるいは家にこもって本を読むんです、分からない?


『死者の奢り・飼育』大江健三郎

 うーむ。言いたいことは分かる気がするのだけど。この文章のタイトルは一応大江健三郎をもじっているのだけど。


『キャリー』スティーブン・キング

 ジョン・アーヴィングを読めた今ならスティーブン・キングみたいな超人気小説、面白く読めないはずがない。そう思って意気揚々と読み進めるが返り討ちにあう。なぜ分からないのだろう? 人間として何か欠陥があるのか?


『心は孤独な狩人』カーソン・マッカラーズ

 村上春樹が「いつか訳したいと思って大事にとっておいた」と語る小説。残念なことにあまり分からなかった。好きな作家の好きな小説を好きになれない時はひどく寂しい気分になる。そう言うことを考えたことがある気がする。好きな人の好きな人が嫌いな人で孤独。この本は別に嫌いというわけではないのだけど。


『メアリー・ポピンズ』

 本の感想の前に、ここに実は大きな分裂があることを述べておく。僕はこの本を読む前についに東京を脱出し、京都に来た。銀閣寺の近くの静かな静かなアパートである。

 引越しは万事滞りなく進む。それでもやはりずいぶん疲れたようで、一週間ほど夢現で寝込む。そんな状況で読むメアリー・ポピンズは本当に楽しくて心が和んだことを覚えている。

 

『黒猫・アッシャー家の崩壊』ポー

 ポーの紹介を読むと、誰にも理解されずに孤独に生き、小説は売れず、薄汚い街のドブで反吐を吐きながら死んでいった(そこまでひどくなかったかもしれない)ような紹介をされる。そのような悲惨な人生を歩んだにも関わらず、ずいぶん読みやすい小説だと思った。話の入り口の文章が読みやすくて、すっと入っていける。むしろその内部にそれほど広がりを感じられなかった。何か文章を読む人間として間違っているのか、と自分の文学的才能を疑う。まあ面白かったからよしとする。


『スプートニクの恋人』村上春樹

 浪人生以来の再読。あの時はあまりよく分からなかったけれど、今は心惹かれることを嬉しく思う。性欲と愛の面倒臭い関係から逃げてはいけないよな、と思う。


『ふたりのロッテ』ケストナー


『158ポンドの結婚』ジョン・アーヴィング

 分からなかった。夫婦交換をするんだっけ、という程度の記憶。関係性が少し大人っぽすぎたのだろう。僕がもう少し大人になったら読もう。

 僕の中でジョン・アーヴィングの立場が危うくなる。


『クマのプーさん』A・A・ミルン

 こんな人間にプーさんの何を語れと言うのか。

 でも、プーが森を歩きながら「ぼく、クリストファーロビンが大好きなんだよなぁ」なんて呟く場面はいいなぁと思う。


『もしも僕らの言葉がウィスキーであったなら』村上春樹

 二日酔いで読んだ。気楽な文章も、みっちりした文章も、村上春樹は面白く書く。


『思い出のマーニー』ジョーン・G・ロビンソン

 ジブリの原作である。前半、孤独な少女が幽霊のような少女と心を通わせていく場面が好きだ。後半の「実はこうなのです」的なところは眠かった記憶がある。


『僕が僕であること』山中恒

 古い児童文学である。この時代の児童文学はいい。ズッコケ三人組を五十冊読破した中学生の頃を思い出す。何か問題が起こって、はちゃめちゃ展開して、助けてあって解決して、めでたしめでたし。そう言うのでいいんだよな、と思う。でもこの小説はそれだけでもない。ちゃんと大人が気持ち悪いし、ちゃんと子供が気持ち悪いし、問題解決も完璧ではない。主人公は最後まで母親のことを「おふくろさん」と呼ぶ。なんだよこの呼び方、と思うけれど、笑ってばかりもいられない重さがある。そういう重さを感じられるくらいには回復していたのだと思う。


11月


 引越しに関するごたごたも片付き、順調に本を読む。そういう状態になると、別に面白くなくてもいいや、というくらいの考えでいろんな本を読める。


『怒りの葡萄』スタインベック

 銀行というモンスターがに追われて西部に移住するんだよ!、と農民が騒いでいる序盤の流れは好きだったけれど、その先はあまり覚えていない。


『島は僕らと』辻村深月

 うーむ。


『夜のくもざる』村上春樹

 人畜無害超短編集。それでどうして面白いのだろう?


『オウエンのために祈りを』

 現段階では、ジョン・アーヴィングの中で1番のお気に入りである。オウエンというキャラクターの存在感がすごい。小人病で、頭がすこぶる良くて、信仰心が深くて、自分が死ぬ日を知っている。ジョン・アーヴィングくらい人生の長い時間が収められた小説にバッテリー型も風の歌型もないけれど、紛れも無い青春小説である。


『エーミールと探偵たち』ケストナー

『ふたりのロッテ』の方が好き。『エーミール』はただ悪いやつをとっちめただけ、という印象。ちゃんと登場人物の元々持つ悩みみたいなものと、物語の中での困難が結びついててほしいんだよな、なんて偉そうなことを考えながら、じゃあ児童文学なんか読むなよ、と自分でツッコミを入れる。それでも僕は、『ふたりのロッテ』みたいに、孤独感を抱えている登場人物の方が好みなのだ。


『シカゴ育ち』

 シカゴってどんな感じの街だっけ?


『かんかん橋を渡ったら』あさのあつこ



『赤毛のアン』モンゴメリ

『アンの青春』〃

『アンの愛情』

 中学生以来の再読。話はずっと面白いけど、孤児の女の子がアヴォンリーにやってくる最初のシーンがやっぱりいい。その後の話は僕の想像とは少し異なるトーンで進む。アンが割とすんなりと人々に受け入れられてしまう。これで、アンがそんなに魅力的なやつじゃなかったらどうするのだろう、なんて考えても仕方がないことを考える。


12月

 児童文学から古典、インタビューなど幅広く読む。読みたい本があるというのは素敵なことである。


『風の帰る場所』宮崎駿

 こうして振り返ってみると、小説以外の本を読むのはインドに行ってからはじめて。


『大いなる遺産』ディケンズ

 ジョン・アーヴィングがディケンズはすごいすごいと言うので読んでみる。ディケンズは去年「オリバーツイスト」を読んだくらいである。オリバーツイストは話の内容がややこしくて入り込めなかった記憶があるけれど、それに比べて『大いなる遺産』は面白かった。でも個々のエピソードの面白さはジョン・アーヴィングの方も負けてはいない。こんなに時代の離れた二人を比べても仕方がないけれど。


『高慢と偏見』ジェイン・オースティン

 古い恋愛小説だからさぞかしロマンチックな恋なのだろうと思ったけれど、読んでみるとそういうわけでもないことがすぐに分かる。面倒臭い現実的な問題と一つ一つ向き合いながら、頭と心を目一杯使って恋をする登場人物が好きだ。


『続・風の帰る場所』宮崎駿

 宮崎駿のインタビューである。ジブリも面倒な現実と向き合いながら映画を作っているという当然のことに気づく。外側にいれば何を作っても売れると思ってしまうけれど、宮崎駿だって、どうやったら皆が楽しめるのか分からないままやっているのが本当なのだ。そういう手触りがあるインタビューである。


『幻影の書』ポール・オースター

 主人公はずいぶんおじさんでも、家族を失ったせいで機能停止しているところはやはりポール・オースターである。こういう登場人物が出てきた時に、オーズターの物語は絶望的に面白くなる。困っている人間から見た世界を描く時、この人より面白く書く人はいないような気がする。


『バガージマ ヌ パヌス』池上永一

 沖縄の19歳の女の子がユタ(沖縄の巫女のようなもの)になる話。

 主人公は、何にもしないでも生きられるけど、これでいいのだろうか、何を皆必死になって怒っているのだろうか、と悩むでもなくのんびり考えている。その沖縄っぽい感覚が、親に甘やかされて育った僕と広い海を隔てて一致する。物語はそういう悩みとがっぷり四つには組み合わず、面白ファンタジー小説として展開する。主人公は大事にしたいものを発見する。必死にならなければいけないのは、世界のどこかにいる悪者を倒すことではないのである。


『未亡人の一年』ジョン・アーヴィング

 ジョン・アーヴィングの長編は全部読むことに決める。


『ピギースニードを救う話』ジョン・アーヴィング

 ジョン・アーヴィング唯一の短編集。やっぱりアーヴィングは長編だよな、なんて偉そうに思う。


『チョコレート戦争』大石真

 うーむ。


『極北』マーセル・セロー 訳村上春樹

 近未来のファンタジー小説ということになるのだろうか。SFというほど科学的発達や荒廃が強調されることはない。でも、リアルかと言われるとそうでもない。強いて言うなれば、実行を減らし、舞台設定をシベリアにした『風の谷のナウシカ』と言える。大袈裟な戦闘があるわけでもない。森見登美彦なら、よく分からないシステムの周りをぐるぐるするのが面白い、とぼそぼそ感想を述べるような気がする。一筋縄では行かない小説である。


『and other stories とっておきのアメリカ小説12篇』村上春樹、柴田元幸、畑中佳樹、斎藤英治、川本三郎

 5人の訳者が特に制限もなくアメリカの短編小説でとにかく紹介したいものを選んで訳したアンソロジー。なかなかむちゃくちゃなコンセプトの一冊ではあるけれど、全体的に面白く読むことができた。条件がないことがかえって訳者の熱意を引き出したのかもしれない。これを読んでほしい、という想いが溢れるアンソロジーだ。そんな熱意の証拠として、それぞれの短編の前には訳者の短い解説が付されている。こういう楽しみ方をしてくださいね、という導いてくれるおかげでずいぶん読みやすかった。そういうのを鬱陶しく思う人ももちろんいるのだろうけど、あまり優秀な読み手でない僕にとってはそういうのが大事である。

 最も心に残っているのは「荒廃地域」というシカゴに関する短編である。これはしかし、少し前に読んだ「シカゴ育ち」という短編集にも収められていたものでもある。前に読んでから1ヶ月くらいしか経っていない。その時は「シカゴってどんな街だっけ?」というくらいの印象しか持たなかったけれど、別の形で読むだけでずいぶん印象が変わるものである。


『グリーンマイル』スティーブン・キング

 現在進行形で取り掛かっている本である。

 不思議な力を持つ死刑囚の話である。死刑を目前に控えた人間をキングが書くと、死というものが具体的な手触りを持って感じられて大変恐ろしい。それから僕は首を傾げる。この死刑囚と僕の違いはなんなのだろう。目前に死を控えた人間と、せいぜい数十年後に死を控えた人間との間にいったいどれほど違いがあるのだろう。そこのところが僕には分からない。

 何度も返り討ちにあっているスティーブン・キングではあるが、5巻を読み終えた現在、これまでになく面白く読むことができている。ここまできたら最後まで面白く読ませていただけたらと考えている。


終わりに

 以上が今年読んだ本である。なんとなく数えてみると、思い出せたものだけでも百冊くらいになる。途中読めない時期がある中で、なかなか読んだものだと思う。

 僕は本が好きではない。好きな本があるだけだ。嫌いな本も山ほどある。実際、文芸書以外を含めれば、本屋の9割くらいはゴミだと思っている。だからいくら読んでも、本が好きだとは言えない。本気で気に入らない本や腹がたつ本もある。

 僕が本について素敵だと思うのは、本が本質的に一人っきりを前提にしているからだ。本を書く時に読者はいないし、本を読む時に著者もいない。一人でちまちまと書きたいことを書き、一人でちまちまと読みたいものを読んで、考えたいことを考える。当たり前のことなのだけど、これは結構すごいことだ。会話だとこういうわけにはいかない。目の前に人がいると、多かれ少なかれ、相手が喜びそうなことを、喜びそうな言い方で言う必要がある。聞く方も、話し手が喜んで欲しそうなら喜んだふりをする必要がある。いや、実際ないかもしれないけれど、そうしてしまうことはそんなに少なくない。でも、目の前に相手がいなければ、そういうことはしないで済む。その場の雰囲気が壊れるなんてことは気にする必要はない。相手の考え方が気に入らない時に、気に入ったふりをする必要もない。本を読んでいる時、僕は怒りたいように怒り、笑いたいように笑えばいいのである。

 僕はたまに、どうして本を読むのだろうと思う。嫌いでもいられる、と言うのがその一つの答えだと思う。書き手の顔が見えない僕はそれを嫌いでもいいし、好きでもいい。それに、一冊の本を書いた誰かは、僕がそれを好きかどうかなんでどうでもいい。どうでもいいというか、喜ばせようとして書いているわけではない。だからやっぱり、僕は本を嫌いでもいられる。突き放したようにも聞こえるかもしれないけれど、その乾いた関係が、僕が本を読む理由だ。 

 僕は本を好きだった時、誰かと本当に繋がれたと思う。だって僕は、それが嫌いでいることもできたのに、好きになったのだ。誰かが本当に言いたかった言葉を、僕はたくさんの選択肢の中から、好きでいることを選んだのだ。そういう心の底からのつながりは、嫌いでもいい状況でないとありえない。顔を突き合わせない一人の行為からでないと、人と人が本当には繋がれないというのは、考えてみれば不思議なことにも思える。

 僕は本が好きではない。好きな本があるだけだ。嫌いな本も山ほどある。でも、好きな本があることは素敵なことだと思う。僕が好きになった言葉が、誰かが本当に言いたいことであったことは、ずいぶん素敵なことだと思う。心の底から好きになってしまう言葉を発する誰かが、世界のどこかにいることを信じて、来年も本を読むのだと思う。

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