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②病院を辞めて~下着の営業時代

3月の4週目から「俺」は、病院で働き始めたが、もしかすると5月に働けなくなるかもしれなかった。国家試験の合否の発表が5月にあるからだ。落ちていれば、何事も無かったかのように静かに病院を去らなければならない。「俺は」無事に合格していた。


最初の職場はとても楽しい職場だった。明るく人間関係に全くストレスのない職場だった。思い返せば多くの事を学んだ職場だった。「俺」の担当患者さんを初めて亡くして、衝撃を受けたのもこの職場だった。

ガンの末期の患者さんだった。当時の主治医の方針でQOL(生活の質)を上げるため車椅子で外へ連れて行ってくれと依頼された。
もはや寝たきりで全身の骨にガンが転移しており、体幹にも強固なコルセットをしていた。
既に起すこともなく、寝たきりでベッド上でリハビリをしていた。
そんな時に降って湧いたように『QOLを上げるために起こせ?』
そんなことしたら骨折してしまうと主治医に言うと、それでも良いからやれとの事。

〇〇さん、今日は車椅子で外へ行ってみましょうか!

明らかに少し困惑して気の乗らない表情…
起き上がらせるとき、「俺」の腕に〇〇さんの骨の折れる感触が伝わった。
と同時に苦悶の表情で声も出せないほど苦しむ〇〇さんが「俺」の腕の中にいた。

『折れても良いから、外へ連れて行け』

主治医の指示を思い出し、苦しむ〇〇さんを車椅子に乗せ外へ行った。

良い気候ですね!天気が良くて良かったですね(^^)

何を言っても気もそぞろ。〇〇さんの笑顔は無かった。

本当にこれは良かったのか?QOLとか言ってるけど、実際やるのは「俺」やぞ。この苦しむ様子も主治医は見てないじゃないか!

数日後出勤した際、病院の外で〇〇さんの娘さんと出会った。
「俺」は、笑顔でおはようございます!と言った。
すると娘さんは「先生、ありがとうございました。母は今朝早くに亡くなりました」

思いもよらない言葉に、作った笑顔が固まり言葉を失った。

ダメだ笑ってちゃダメだ…でも顔が戻らない…言葉も出ない…頭の中で思考がぐるぐると回り、しかし最適解を導くことが出来ない。
初めての経験だ。
そう「俺」は、初めて患者さんを亡くしたのだった。



…1年半ほど働き職場や仕事の流れに慣れてきた頃、こんな仕事をしたかったわけじゃない。環境の仕事をしたかったはずなのにと、急に思い出した。その頃から仕事を辞める事を考え始めた。

ある時「俺」がずっと診ていた患者さんのカルテに新しいことが赤字で書かれていた。


注 ヤコブ


ヤコブとはクロイッツフェルトヤコブ病という難病で、当時はスローウィルス(後にプリオンというタンパクが原因と分かりました)が原因と言われていた。潜伏期間が非常に長く(20年位)発病すると運動麻痺が進行し、精神症状など併発し、最後は死亡してしまう病気だ。感染するとされていたけど、「俺」はその時点まで感染の対策を何もしていなかった。

ヤコブ注意と今更言われても…もうずっと診てきてるやん…20年以上経過しないと、俺が感染してるかどうかも分からないのか?と考えるととても恐ろしくなり、辞めたいという気持ちに拍車がかかった。

それからそう時間の経たないうちに、勢いで職場を辞めた。

今から考えると、ノホホンとした学生時代にはないハードな体験におののき、逃げ出したかったのだろうと思う。

「俺は」環境の仕事をやっぱり諦められない!とそっちへ逃げ出した。
環境のアセスメントができる職場を探しては、面接を受け続けた。

しかし、環境の勉強をやってきた人達と同列に面接に並んでも採用されるはずもなく、食べていくため、「俺」は妥協してローズマダムという妊婦用品の営業の補助の仕事に就いた。


外さなくても授乳できるブラジャーの説明を販売店の女性に説明しながら、男の「俺」よりこの女性の方がきっと詳しいだろうと思ったり、倉庫でセール用のパンツをアルバイトの学生たちと袋に詰め、値札を貼り変えたりしていた。

なんだか何もかも諦めたような心境で、とても楽な気持ちだった。今思えば現実逃避だった。


しかし楽な気持ちとはいえ、しばらくその仕事をしていると、やはり今までやってきた、また勉強してきた理学療法士の仕事が、「俺」の帰るべき場所なんだと思えるようになり、再び病院に再就職した。

チャレンジしたけどダメだった…こうして自分を納得させた。

「俺」の恩師は、優秀なパイロットとは飛行時間の長いパイロットだと言っていた。天才的なパイロットが100時間飛行するより、10,000時間飛行した並みのパイロットの方が信用を得ることができるという。


親に勧められ、たまたま出会った理学療法士という仕事だけど、根気よく続けることで、信用を得られると信じることができるようになった。

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