詳細な日記(Pさん)

 ツイッターで、このノートに書くべきコンテンツを、投票で募ったところ、五票、集まった。
 そのうち、三票が「詳細な日記」。二票が「小説」となった。
 これを、どう捉えればいいのか、ちょっと考え込んでる。
 今日、視力を測る機会があって、測ったのだが、視力は年々落ちている。今まで、「調子の悪い時に、目がぼやける時がある」と思っていた、焦点のぼやけ方が、今では標準でそうなってしまっている。そこまで落ちているとは思わなかった。それと同じように、年齢を重ねたからか、記憶力、というと漠然としているけれども、一日を過ごして、その一日のうち、これという出来事に対して、より詳細に思い起こすということに対して、前よりも力が入りにくくなっている、という感じを受ける。
 僕の見立てでは、これに力が籠められなければ、小説も書けないものと思っている。記憶の中で、自分の知らない領域も掘り起こすことができると感じる瞬間のことである。それがなければ、小説を書いている際に、それを書くことによって、自分が前進するということがなくなるからだ。
 書いているときには、書く前には知らなかったことを、書くことによって引き出すことが出来なければならないと、僕は思っている。
 先日、江ノ島に行く機会があった。そのときに、双眼鏡を持って行った。双眼鏡というのは、「x2.0」など、望遠鏡では考えられないくらい、低倍率の倍率が書いてあって、そんなことで本当に遠くを見れるのかどうか不安になる。と思っていた。けれども、その小旅行の際の遠くの景色を見る道具として利用したときに、これは、たとえば人間の視野の詳細さが二倍になったとして、これはかなり凄いことだぞ、という印象を持った。江の島の、島の裏手の、潮だまりというのだろうか、岩場に階段だけあって波が打ち寄せているというだけの場所があるけれども、そこで何か光るものがあった。全く何なのか、江の島大橋を歩いているときに判別がつかなかった。そこで双眼鏡を取り出したら、そのぼやけた灯りが、一家族が花火を楽しんでいる姿だというのが判別できたのである。
 道端で、あるいは夜景を見ていて、何かぼんやりとした光がある。その、単に光っているということと、それがどういう姿をもった光であるのか、判別できるというのは、僕はかなり大きい情報を得られることだと思った。
 江の島の、サムエル・コッキング苑という土地に入って、江の島展望台に入った。その屋上から、またその双眼鏡を使って、夜の、一円を海に囲まれた光景を見ていたのだが、肉眼では全く暗く見えるだけの海が、月に照らされて、かすかな光ではあるが、こちらまで円錐形に波が続いているのが判別できたのである。
 視野というのはそれだけ開かれれば、それまで感じなかったようなことを感じる力があり、今私の能力は、その視野がぼんやりとしてきたのと同様に日常生活における出来事というものの分析を脳みそが出来なくなってきたようで、そうなると、自分で出した選択肢ではあるが、「詳細な日記」というものを書けるかどうか今では怪しくなってきた、という話であった。昔は書いていた。どんなふうに書いていたのか忘れた。

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