愛の形、人の形、いろいろ(ウサギノヴィッチ)
どうも、ウサギノヴィッチです。
僕には弟がいます。僕よりしっかりした弟で、ちゃんとした会社で働いています。結婚もしていて、子供が一人います。
一方、僕はアルバイトだったり、派遣社員だったりで安定した職に就かず、最近やっと正社員になれるかもしれないという状態になりました。時間があったら、遊んだり、小説書いたり、自由にしています。
そんな兄を弟はどう思っているのでしょうか?
二人で話し合ったことなどありません。最近だと、弟は会社の近くに家を買ったので、実家に帰ってくることが少なくて、顔を合わせる機会もありません。
弟が大変なのはわかるけど、実体験したことないから、具体性が伴わない。でも、想像の中では大変だろうなぁって思っている。
ほんの昔までは、弟とよく遊んだ。テレビを見ている弟の部屋に行ってそのまま居座って雑談したりした。
僕にとって弟は友達みたいなものだった。それが結婚して家を出ていって、いなくなって胸のぽっかり穴が空いてしまったようだった。
カルロス・フエンテスの『純な魂』は僕より悲惨なような話だったりする。
思春期に入る前までは仲良く遊んでいた兄妹の関係が大人になっても少しは続いてどこかで近親相姦のような雰囲気を漂わせている。兄と付き合っていた女性のことを知っていたりどこかでストーカーチックな部分がある。しかし、あるとき、兄と付き合っていた女性が死んでしまう。兄もそれを追って死んでしまう。妹は、それに対してどこかクールでいようと徹している。兄の死体を引き取るとり、自国のメキシコに帰るときも気丈に振舞っていた。
ただそう振る舞いながらも、兄から来た手紙は丁寧にもっている。結局は、兄のことが好きなんだと思える。
兄はヨーロッパのジュネーブで死んだ。妹はメキシコでこれからも生きていかなくてはならない。これには大きな対比的なものがあるのではないだろうか。兄の魂はこれからもずっとヨーロッパに留まり、どこかで自分が昇華されるのを待っている。それは一緒に死んだ彼女に出会うということを含む。
一方、妹は肉体だけはメキシコに帰った兄を迎え、日常生活を送る。魂がそこにないのはわかっているだろうが、ヨーロッパに置いていかれたとまでは考えつかないだろう。形だけの兄をただそこにはあるだけだ。
それだけでも安心するかもしれない。見かけ上の愛、手元に置いとくだけで安心すること。
たぶん、それだけでも幸せなのかもしれないが。
愛とは色々な形がある。好きあっているもの同士が近くにいればいい場合もあるし、長年いすぎて、物理的な距離は遠くても心は近い場合、体だけの関係。無数に存在する。もしかしたら、分類することは野暮なことなのかもしれないでも、この話はもう二人は交わることなくただ平行線のままこれからの生活をしなくてはならない。残された妹の方は、気分やそのときの気持ちで兄に対する気持ちが変わっていく。嫌いになってしまうかもしれない。そんな一人相撲をしなくてはならないのだ。これは非常に哀れな話だ。報われない。
でも、ここで救いなのは、兄の死に対してクールなところだ。物語の最中には、兄のことを「大好きだ」とか「愛している」とかそういうことは書いていない。ただ若干の惜別の念があるだけだ。
それは兄の魂をジュネーブに置いてきたかもしれないともしかしたら思っているのかもしれない。これは僕の立てた推論だ。
「兄が死んでも生きていける」
そういう自信があるからだ。それこそが兄妹愛の究極の形なのかもしれない。
家族だから無償の愛を与える。当然の行為をしていると思っているのかもしれない。
家族って、この年になっても僕は正直うるさい存在だなと思っている。まあ、色々と複雑か関係にあるので具体例にはならないが、でも、その家族が欠けたときにはなんらかののダメージを受けるだろう。
それを気丈に受け止めることなんて僕はできない。