私の書く小説の解説(Pさん)

 前回書いた、「宇宙」という小説の書き方について、解説する。

 サイコロを転がすと、

全く何も考えずに書き出した。何も考えずに書き出すことは、賽を転がすのに似ている。とりあえず、賽を転がすという場面を書くことにした。

一面には宇宙、二面には天井、

サイコロの各面を解説することにしたのだが、サイコロの面を解説するうちに別の場面に移ることを考えることができる。あるいは、サイコロを全面使用し、それを何かに生かすことも出来る。しかし、精神的力能がその「途中で別の場面に移る」という域に達しておらず、どういう展開をするかという事に関して考えることが出来なかったので、とりあえず、六面すべてを埋めることにした。しかし、その中で、六面全部が同じ次元に位置することは、許されない。その並列というのは、小説として、認めることができない。可能であれば、全部の次元が別であることが望ましい。それは、数学的に別の次元になればいいというものではない。「宇宙」の次元。これがあったときに、例えば「恒星」、あるいは「個人」、宇宙と対等になるような何かが来たとしたら、それは「読み」を生むことになる。「読み」を何とか避ける。その次元の探索を試みたのが、以下の四面である。ちなみに、「宇宙」と「天井」というのは、「宇宙」という範疇と「天井」という人間的範疇が釣り合わないというのを見越して入力したのである。

三面には骨折した松島トモ子、四面には二面、五面にはサイクロイド曲線、

正直に言えば、以上の試みは、フーコーの引用した、ボルヘスの引用したと思われる、「シナのある百科事典」の引用をパロディーしている。羅列する、全ての要素が、全く違う次元に位置しているという技術だ。その中に、再帰的な「この分類に含まれているもの」、「皇帝に属するもの」などがある。それを意識して、「四面には二面」という文章を書いた。これでは弱いな。そうは思う。しかし、即興で書いたという都合上、この程度でいいかと思って流した。

六面には元気な頃のあいつの顔がプリントされたTシャツが閃いて、そのうち消えた。

そのうち一つの要素を取り上げて、小説を続けるための足掛かりにしようという魂胆である。六面の、設定と人間的存在感を増した。

あいつは、森の中を走り抜けて、じきに破傷風に悩むことになった。なんで、と聞くと、奴は無言で自分の足の裏を指した。

あいつ、をなるべく多重な存在として刻印することを試みた。「あいつ」、「あいつ走る、森の中」あいつは物理的に森の中を走る「あいつのプリントされたTシャツ」あいつは誰かに見られる、誰かにTシャツにプリントされ得べき存在としてある、「閃いてそして消えた」最後に、あいつプリントTシャツをどこかに存在するものとして前提し、その存在の光景というのを定めた。ただし、どのレベルを使用するのかは、これを書いたときには判断していなかった。
「あいつ」、森の中を疾走するあいつをまず描写する。あいつは、森の中を疾走(=元気)することによって、小枝やその他の傷によって破傷風を患う。破傷風という意味について、理解するのは、小説を書いた後で良い。破傷風というのは、常在菌である。そのうち、乳幼児が必ず受けるであろうワクチンにより無害化することが判明する。常在菌であるから、こんな言い方しては申し訳ないけれども出生した瞬間にワクチンを、適切な年齢で投与することのできない国においては、その小児の出生時に接種していれば避け得べきであろう感染症を、たった小枝の切り傷なんかにおいてでも食らう可能性がある。「元気に走り回るあいつ」は、その小枝の傷のどこかから、破傷風をしたということになる。しかし、その彼が、認識として破傷風という病気に悩まされたのかどうか、また、それが「走り回った」結果、足の裏、もしくは足首、脛の辺りになんらかの小枝が刺さったことによって受傷したと、本人が自覚していたのかという事については、深く考えては書かなかった。

小役で有名になった芸能人の面影が、そこにネガとなって映っていた。踏みしめられる度に苦悶の表情を浮かべるが、当然、誰もそれを見ることはなかった。

「足の裏を指さした」時に、というか、「あいつ」は自分の破傷風の病原を指定するために自分の足の裏を指さしたのだが、「あいつ」がそれをしたときに、次に、書き手は、「あいつ」がその行為をしたときに生じることというのを、今までの因果関係を断ち切ることによって指示することができる。「あいつ」の足裏を指さした、という限定的な行為のみを切り取った際に、「そこに何があるのかな? 何が見えたのかな?」という、小学生的な類推をすることも出来る。

名演だった。三代目菊次郎を継いでも良かったと、その時の私は思った。

次に、中心人物自体は「その時の私」にシフトする。「あいつ」に「踏みしめられるたびに苦悶の表情を浮かべる」足裏の役者は、名演をする俳優かなにかである。足裏の皮膚を顔の表面に持つものは、その足裏の皮膚というのは本来「踏みしめられるためのもの」であるから、苦痛などないはずなのだが、その「あいつ」に「踏みしめられる」という経験を自分が感じているであろうというシチュエーションを、認識した際に、「私は苦悶を感じる素養(素材)はないのであるけれども、本来「あいつ」に足裏で(もっとも、私がその足裏自体ではあるのだけれども)踏みしめられるという経験、周りから見た場合の印象として、自然である苦悶の表情を私は浮かべる」という事を即座に行えるという事はその顔の持主は間違いなく名役者に属する。「菊次郎の夏」の「菊次郎」の三代目を担うに足る才能を持っている。

その時の私は、サプライズケーキが静かに土俵内に運ばれてくるのを、錆びた針金に身体中グルグル巻きにされてただ眺めているだけだった。

「私」は、このとき、「三代目菊次郎」のことを思い浮かべながら、関脇に昇進したスイーツ好きの力士かなにかに向かって、両国国技館の照明が全部落とされた後で、「ハッピバースデートゥーユー
ハッピバースデートゥーユー
ハッピバースデーディーア正代
……ゥアッピバースデートゥーユー」
と言って祝われているのを、「時計仕掛けのオレンジ」のアレックスよろしく、両国国技館の客席で、錆び付いた針金でグルグル巻きにされた状態で眺めるだけであった。

公園の飲み水を飲むくらいの自由はあったかもしれない。

アレックスが、目が乾かないための生理食塩水の点眼を受けていたことからの連想かもしれない。

クラウチングスタートから走り込みを始める食いしん坊の与太話が二時間ほど続いた。夏の暑い日に、何℃かわからない溶けた糖を無理やり耳の穴に流し込まれる感想を五段階評価で表記しろという方が間違っている。

書いたとおりである。じっさいには、もう何も考えずに書いていた。何かは考えていたのだろう。しかし、私は知らない。「溶けた糖」と書いたときに、糖尿病の人の血管というのが、その糖の分子によって内壁に命にかかわるような傷を付けられている、もろくなる、という意識があったことは否定できない。「五段階評価」というのは、もちろんアマゾンその他のインターネットサーヴィス上の評価のことである。ここに、高熱した糖を耳に流し込むサーヴィスなんてものがあるのか、という所に面白みがある。
徐々に、この文章の最初の点に帰ろうという試みをした気がする。

静かに、じきに静かに呼吸音が聞こえる。走り込みは続き、ベース音に反応するようにエコーの度を強めた。何重にも回帰した。プラスチックの容器の蓋のパッキンをなくして、探し回った。床に散らばっている以外は、どこにも見つかる筋合いがなかった。宇宙とは大体こんなものなんだろう。

走り込みをするのは、もちろん、先だって出てきた「あいつ」のことである。その「あいつ」がTシャツにプリントするだの、そのTシャツを見掛けた人間がいるだの、という部分に関しては、残念ながら回収することは出来なかった。「宇宙」という、題名と、ダイスを回した際の最初のコマに焦点を当てて、この小説は終わる。

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