散文(Pさん)
この、一週間くらい? 期間はわからないが、思う所がいろいろあった。
仕事と読書と、どちらにおいても変化があった。この変化をこなせるかという所が、自分の中で課題になっている。こなす、というのは、消化しきる、という意味も含まれているが、そういうニュアンスでのことである。何かしら、課題が、日に日にどんどん降ってくる。それに対して、そもそもその課題とは何なんだろうか。自分に対して、どういう価値づけを持っているのだろうか。それが避けて通れない場合には、それだけの理由があるんだろうな。さもなければ、それがどれだけ大きい問題に見えようが、無視して通るからな。まあ、要するに追いつめられているのかもしれない。
読書では、タキトゥスの『ゲルマーニア』を、読み始めた。今の所、たわいもない、敵情視察のようにしか見えない。敵情視察も、歴史的価値を持つなら、というか、前代未聞の状態で書かれたものなのだとしたら、何かそれをオリジナルたらしめる要素がどこかにあるのだろうかと、これも当たり前のルートからそう想像するしかないところまでしか読めていない。読み進めてはいるのだが、しかも理由を持って、しかしそれが今の所自分が握る価値の一部になっているのかといえば、そうでもない。
そうならなければ意味がない所の、自分がそれをひとつの価値として握ることのできる、それは本になってはいないのだ。
ツイッターをやっていて、タイムラインに流れてくる、ということはフォローしている人の中に、ということだが、その中に、銭湯好きの写真家、という風な人がいる。プロとしての写真家なのかはわからない。しかし、プロだとかアマだとかあまり考えないことにした。実践において、それが成功しているのかどうかというのは、それが金銭的価値に交換できないときもそれが成功していると言える場合もあるから、それが地位としてプロとして成立しているという一点において、価値づけを行うということが必ずしもあり得るというわけではないということを、最近日々実感しつつある。その意味で、その人が、プロですとかアマですとかいったことを軸に、その人が撮っている写真について、価値づけをしたくないということでもある。それで、その写真の中で、といっても、写真は非常に場面を選ぶ。銭湯の様子の写真を撮るとしても、内部を撮るわけにはいかないから、肝心の、銭湯に入っていかにリラックスしているか、という場面は撮れないわけだ。マッサージ機とか、床のタイルとか、表の看板とかいったものは撮れるかもしれないが。しかし、そのその他の点を眺めていても、これはいい、というか、今までスーパー銭湯と言われる類のところにはいったが、いわゆるただの銭湯、という場所には行ったことがない。だから、その場所についてはすべて想像するしかない。スーパー銭湯の、スーパーである部分、もしかしたら、最も分かりやすく「ラクーア」みたいなところの、その余剰である部分、「これは贅沢のために導入されているのではあるが、そんなものなくても入浴だけする分には全く充分である」という、その部分を取り除いたと想像すれば、まあそれで十分なのかもしれない。しかし、それが難しい。「ラクーア」の余分な部分が、多すぎる。もともとの銭湯と、「ラクーア」の「ラクーア」たりうる要素を、引き算しただけのものとは、ぜんぜん違うのかもしれない。
ともあれ、そのいたってシンプルな銭湯、というのに、非常に惹かれた。しかし、そういう、なんも「スーパー」な要素のない銭湯というのも、創造に難くないが、どんどん減りつつある。それと同時に、スーパーである銭湯、つまり「スーパー銭湯」そのものも、やはり、需要が維持できているのか、この〇〇〇禍のなかでは、怪しいものである。いつも出歩くような商店街に出て、店を見回してみると、おどろくほど、「ここも潰れたのか」「あそこも」というものが見つかる。