Pさんの目がテン! Vol.22 「燃えよデブゴン」を見た(Pさん)
先日、映画が見たくて中国映画の、サモ・ハン・キンポーの「燃えよデブゴン」のシリーズの一つを見た。
この作品、調べるとなかなかに業が深くて、サモ・ハン・キンポーが主演している中国映画をフジテレビが全部同じ主題をつけて日本だけの似非シリーズ化をしたということ。
つまりは、日本で「燃えよデブゴン」というタイトルの映画を拾ったら、それはサモ・ハン・キンポーが主演しているという以外の意味を持たないということになる。
そんなフザケた、というかナメた来歴をしていながら、中国映画を見慣れていない自分は半ば感動しながら見た。副題が「豚だカップル拳」という。
中国のカンフー映画は、どこか本気すぎるという感じを抱いていて、それはブルース・リーが本物の武術が出来ることから思ったりしたことなのだが、映画が価値を持つのはまず行われていることが実際に行われていることだったりするのだろうか、小説とは違って表象されるものへの比重が異なるのかもしれない。インド映画も、うろ覚えかもしれないが政治家だったり何らかの活動家がそのままそれを映画化するということがあったり、出演してそこの映像が事実であるということに対して遠慮がないというんだろうか。
僕らがイメージする小説とか映画とかのフィクションは、なぜか知らないけど必ず事実でないものでなければならないという、何かモザイクの掛かった事実であるという特徴を、無意識のうちに持っているような気がする。固有名詞を、文字って必ず別の名前にするとか、たとえ本物と見た目が同じだとしても本物そっくりのジオラマを作って撮影するとかいったことがそうだ。
その態度に関して、日本やアメリカと、中国やインドとは距離感がどこか違う。
それが事実かどうか、誰かが論じているとかは知らない。この前に見た、キョンシー映画のはじまりである「霊幻道士」などもそうだったけれども、みごとなカンフーシーンがある。日本で匹敵するのは空手だろうか。だから日本文化で海外に輸出されるのは空手なのかもしれない。武道ではあるけれども、それと平行して、あるいはそれを越えて舞踏である。また、それは映画に撮影される為の、舞台に収まるものではないにもかかわらず、それと同じくらい武道とか、勝負にも収まらないでどこか見られることが意識されている。
デブゴンが地を蹴って跳ぶときに、すでにその先が見えていなければ成り立たない。あるカットが、現実を孕む形で未来を含んでいるということになる。あるカット、つまり映像的な着地を求めて映像が取られているとすると、動きまわってわけのわからないうちに役回りなどが勝手に了解されて進むといったような、舞踏的な見方のできる映像は作られないのかもしれない。
真逆の映画を、「ミツバチのささやき」というので見たけれども、どちらがどうということではないけど、どちらかが芸術ということはないんじゃないか? と少なくとも思った。