スパイスと自転車(Pさん)
味付けとして、スパイス本体しか使わない、スパイスカレーというものを今日作った。
だし的なベースは、アサリを使うことによって得る。
肉は、挽肉を使う。基本的には具はそれだけしかない。そして、料理手順としては、それらを油で加熱していくことしかしていない。
これが、異次元の旨さになった。
その、アサリの塩梅と言い、加熱のタイミングのみによってコントロールされる感じ、全体的な材料のシンプルさからは、まるで考えられない旨さだった。残りはスパイスの味によって、全てが整っている。最後の仕上げで味が完成する様子は、どうやっても、マジックか、手品としか言いようがなかった。最後の一振りで、全てが整うのである。それまでは、どうなるか全くわからなかった。料理の過程では、それまでの材料がどれだけまずかったり、整っていなかったりしても、次の瞬間に、全てが整うという事がありうる。その不思議さを実感した。
上の、「のみによってコントロール」という部分を書いていて、急に、前の実家の、社宅のマンションのことを思い出した。その庭、というか、共有部のコンクリート敷きの謎の空間で、もう死んだ父親と、自転車を乗る訓練をしたことを思い出した。僕は、本格的に、ペダルをこぐ形で自転車を漕がなくても、あるいは、三輪車の状態に頼ることがなくても、三輪車の状態の延長として、足を支えとして、常に足を出せる状態から、少し足を離す、という微分的な状態を維持するのだとしたら、倒れたとしても横に張っている足が支えとなるのだから、転ぶ心配がない、絶対に自転車を転ばすことなく学ぶというのを目標というか道程として自転車の練習をしていた。
アニメやなんかで、自転車の習得をするにはそのまま転がることだ、なんてやっていたけれども、転ぶ必要なんてない、微分的に考えたら、足の浮かす距離を徐々に増やしていけば、自然とペダルを漕いでいる状況と接続されるはずだと、予測して、自転車の練習をしていた、という事をいま思い出した。転んだら怪我をするのだから、可能な限りそれを避けるようにして習得すべきだ、と、今思い出せる限りでそこまで考えて練習をしていた。
結果、自転車は一切転ばずに習得することが出来た。(続く)