家にいてできること(Pさん)

 コロナだから、それどころじゃないということが、いくつかある。特にイベントごとや、商店に集まるなど、日々の楽しみが徐々に奪われている。
 そんな中で、少なくとも自分は、影響されずに、というか、世の中がどうであろうと、それに対処しながらであっても、それと同時に心身の健康は保たなければならないし、何らかの楽しみを、自分のためにでも生み出し続けるというのは、変な話、義務のようにも思える。
 もともと家からそれほど出る質の人間ではないし、必要時以外に外に出ないというのは、ある意味で簡単なことのようにも思える。後は、過剰に、というかひねくれることなく感染症への対策を行って、抵抗力を減らさないことくらいしか、出来ることはない。ならば、それ以上のことを考えても無駄である。

 僕の中で、倖田來未が、12週連続シングルリリースをした、2000年代はじめあたりの試みが、ことあるごとに頭の中を過る。
 あれに倣って、自分も、小説を毎週か、毎月か更新するということをしてみたいというつもりが、少しある。
 今抱えている「目がテン」が、停止している状態で、新しい企画について考えているというのもおかしな話だけれども、「崩れる本棚」の本誌が、通常営業を行うことが難しくなりそうな気配がしてきて、自分の、小説を書くことへの別のモチベーションづくりをしなければいけないかと思い始めている。
 まあ、その前に、売ることは出来なくなってしまったけれども「崩れる本棚 No.9.0」の、仮の紙面を作らなければいけないという作業が残っているので、それが落ち着いたらである。

 ニーチェの「悦ばしき知識」を読んでいた。
 最初に詩が並んでいて、それからいつものアフォリズムに進むという感じの構成になっている。その、詩というか歌の中で、二つ良いのがあった。
 ひとつは「隣人」。要約すれば、「君は近くに寄って来るな。遠くにいるのでなければ、なぜ君が私の星になることが出来るだろうか」というもの。
 ニーチェは、フォロワーとか、ファンみたいなものに嫌悪を露にする。好んで影響を受けるからこそ、いや、影響を受けるものに対しては容赦ない打撃を与えて突き放すということをやる。人に対してもそういう態度をとるべきだということだ。
 例えば、仲間意識を持っている人に対して、距離が近すぎると、その人はもう自分に対しての目標にはなりえなくなるということなのだろう。

 もう一つは、「写実主義の画家」。「自然をくまなく写し取るということが可能だろうか。自然なんて、そのたった一片をとっても無限である。そんなもの描き切れるものではない。じゃあ、彼は何を書くというのだろう。彼に描きうるもの!」という感じの内容。
 絵でも小説でも、「それそのものである」とか、「それそのものにしか見えない」ということが、すごく簡単に言われることがあるけれども、これは大口というか、嘘であることが多い。それよりも重要なのは、演出である。それが現実らしく見える演出というのが、どこかしらで働いていることによって、私たちはそれを見ることが出来る、とすらいえると思う。

 今日の漢字。「圧」、旧字で「壓」。厭の中は骨付きの犬の肉で、雁垂は崖の意味で、崖の下で犬の肉をささげることによって、地鎮をするという意味で、鎮め圧えるの意味になったとのこと。
「安」。霊廟の中に女が入る。嫁に入るときにこの儀式をすることによって、家の中が安全にやすらかに過ごすことが出来るように、という意味から安らうという意味になった。安い、というのは日本語に渡って来た時に加わったらしい。

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